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項目 内容
ID J1800197
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔南信日々新聞〕○長野県S6・11・27~6・12・1
本文
[未校訂](南信地名考)小平雪人
嘉永七年十一月諏訪大地震(一)
孝明天皇の嘉永六年二月二日大地震があつた、此の時は相
模、伊豆駿河、三河、遠江の諸国が被害甚だしく殊に小田原
地方が震源地といはれ、城櫓城門等大破し、士民の屋舎多く
倒潰し、箱根山中崩れて往還を絶つ事数日にわたつたが我諏
訪地方はさまでの被害はなかつた、併し次の嘉永七年十一月
四日には大地震が起つて其惨状は目もあてられぬものがあつ
た、右に関する書留は二種類あつて大同小異のものであるが
彼是参照抜萃する事にする
嘉永七甲寅年十一月四日五ツ半時大地震にて希大の珍事高島
御城内破損の覚え
一御本丸御玄関前大腰掛潰れ
一冠木番所大破
一武者溜り土塀損ず
一樹方門御櫓大いがみ壁破損
一富士見櫓同断、両隅開く
一槇御座敷御雪隠大破
一御納戸御土蔵壁損ず
一御玄関左右壁大破
一御供まはり部屋片側大破
一段々下り続渡り屋根並びに板壁損す
一内馬場御土蔵壁損ず、とびらさや同断
一御用部屋御土蔵かべ損ず
一中間部屋いがみ片側損ず
一中之口都て大破いがみ
一御台所大破大いがみ
一同所渡り屋根落つ
一八条之間屋根大破並びに所々損す
一御休息所入口並びに御座敷内かべ損ず
一同所入口塀大いがみ
一雑事梁落ち大破大いがみ半潰れ
一氷餅釜屋並びに味噌部屋右同断
一同所続かべ大破
一御休息所御土蔵後側大破
一大戸御多門かべ損じ、同所番所小破、同所高土塀十間程
つぶれ、同所薪置場後通り損ず
一御厩大破大いがみ片側潰れ
一御煙硝土蔵前片側開き、ひさしつぶれとびら損じ並びに
かべ大破
一角御櫓大いがみかべ損ず
一土蔵かべ所々損ず
一御兵具方御土蔵三ケ所かべそんじならびに窓上開く
一御作事屋御物置潰れ
一御舟蔵入口、板塀四間潰れ
一稽古所所々損じ、同所ひさし大破損
一御座之間ひさし大破損、其外壁大破
一弓術場渡り屋根損ず
一楽皷寮ひさし並びに雪隠大破損
一御天守東の方壁落つ
一二重目西の方壁大破損同所東の方壁損ず
一天狗三重惣体壁損ず
一二之御門台いがみ
一三之丸御物置大損並びに続板壁九尺潰れ
一常盈倉一個所川之方へ一尺程揺り出し同所一個所屋根の
方開き同所より御茶屋まで土塀十八間つぶれ
一御勘定所御土蔵落ちひさし潰れ
一御作事十一番御物置いがみ
一御勘定所所々損じ東の方大破
一御作事七番八番まで御物置大破同所ひさし潰れ(つゞく)
一三之丸御殿御台所大破、同所御茶屋半つぶれ、同所御茶
屋つづき東の方塀大いがみ、同所御兵具方御物置、御多
門半つぶれ、同所竜虎口つゞき塀大いがみ
一和田倉御損じ壁落大破、同所つゞき多門一番より三番ま
でつぶれ、但し内の方石垣崩る
一三之丸御茅門並に左右の塀御雪隠つぶれ、同所表御門い
がみ並に続塀損じ、同所御玄関大破、同所申之口瞪塀三
間つぶれ同所中之口二ケ所大破並に塀四間つぶる
一三之丸御殿御座敷向ふ総体大破、右の内つぶれ候個所も
有之候、同所腰掛並に雪隠損じ、四番御物置損ず
一三之丸御門台大いがみ大破続塀二間つぶる
一三之丸御門番所角並びに塀大いたみ
一大手御門台大破、同所桝形塀十二間潰れ、同所御門番所
後塀五間つぶれ、同所御門つゞき高塀折廻し十間つぶれ
所々損ず
一内海櫓壁下見大損、右之外所々壁損じ等多分有之候
一御城内外御家中屋敷潰れ、半潰れ、大破之分
千野修弼、千野将監、牛山助之進、志賀七右衛門、鵜飼
隣(林)蔵、有賀市郎左衛門、塩原彦七、松田信五兵衛、山田
左太夫、岡部可兵衛、苅田彦右衛門、志賀喜惣兵衛、鵜
飼又八、塩原義助、沢繁次郎、諏訪四郎兵衛、赤沼三郎
兵衛、赤沼輪助、吉田重次郎、勅使河原春助、工藤権右
衛門、加藤主水、三沢平助、井手原台、矢崎三郎左衛
門、藤森織之助、三輪十郎左衛門、矢島潤助、菊池六郎
左衛門、菅沼磯右衛門、延川隆三、山中三郎左衛門、栗
田与茂太、石井隆左衛門、大熊五郎兵衛、安間弥五左衛
門、山県左兵衛、矢島濤江亮、前田和左衛門、志賀幸兵
衛、中島与惣右衛門、今井恵助
合計四十二軒内震潰九軒半潰七軒以上の如く高島城及び城
内外藩士住宅の被害多大であつたが、町方は総体地盤の堅
かつた為別条はなかつた、但小和田村下通りが少々損じ彦
兵衛堰川東土手の内三十間許りのゆり込みがあつたのみで
あつた、而して此の時被害の尤も甚だしかつたのは地穀薄
い中筋辺であつたのである
一赤沼村、潰家九軒、半潰家十軒、其外大いたみの家二十
軒余、車川土手の内二ケ所にて、土手ゆり込み三十三間

一飯島村、潰れ家六軒、半つぶれ家二十一軒
一福島村、つぶれ家五軒其外大いたみの家三十軒余、通行
道ゆり込十五間程、村中家居の内ゆりわれ、巾一尺程長
さ百二十間程
一下金子村、つぶれ家七軒、半つぶれ家十二軒、外に薬師
堂一宇つぶる、大いたみ大損じの分数知れず
一文出村、つぶれ家二軒、半つぶれ家四軒、其外損じ家多

一小川村、両村にてつぶれ家十八軒、其外大損じの分数知
れず
一田部村、つぶれ家三軒、半つぶれ家二十軒、其外損じ家
多分
一中金子村、つぶれ家一軒、半つぶれ家四軒、其外損じ家
多分
一上金子村、つぶれ家一軒、半つぶれ家四軒、其外損じ家
多分、赤沼土手内五ケ所にて、土手損じ五十四間程、右
にゆりわれゆり込み
一宮田渡、今橋格別の義なし
一置志野、有賀、小坂、花岡、山方付の分少しゆれ候へど
も別条なし
一神宮寺町、右同断
一上宮御社内少しも別条なし、誠に御神徳の有がたき事い
ふばかりなく、宮田渡様(大祝)にて一七日の間祈禱之
あり、有がたき事なり、総じて諏訪郡の分一宮大明神様
御かげ故格別の義之なきなり
一桑原、神戸、上原、茅野、金沢、夫より境筋辺、中山
浦、北山浦共別条なし
一下方大和、高木、下諏訪、夫れより下筋まで別条なし、
去りながら友之町の内赤砂村(土波止新田)にては、つ
ぶれ家六軒、半つぶれ家七軒、屋敷地の内所々ゆりわ
れ、其外大損じ多分
一同月五日夕方地震余ほどゆり申候、之によりて桑原町に
ては五六軒は、表へ小屋の如く屛風しつらへ、一夜表に
て夜をあかし申し候、清水町辺にては十軒ばかりも表へ
小屋をかけ、五六夜も表に伏せり申し候、中筋、神宮寺
辺にては十五六日も表へ仮屋を建て、野陣を張り申し候
村々多分之あり候、且又神宮寺山より金沢山辺へかけて
山鳴り候義数日にて、地震も度々ゆり申し候、且又当郡
にては怪我人一人も之なく、尤もつぶれ家五六十軒、半
つぶれ家百二三十軒ありといへども其外は格別の損じ之
なし、但し蓼科山は、石山上より崩れおち大変の事に候
以上が嘉永七年十一月四日、南信地方大地震の記録の概要で
あるが其被害の予想外に僅少なりしを諏訪大明神の神威に帰
し、大祝家の奉幣祈禱に信頼する等の純朴なる記述は見のが
すべからざるものであろう
嘉永七年十一月四日松本地方其他震災
此の風聞録は嘉永七年十一月四日五ツ半時諏訪大地震記の附
録であつて、諏訪人の書いたものである即ち其前書に「同日
同刻松本之分」としてある
一松本中町大地震にて潰家数知れずの所、出火に相成り焼失
の家百三十軒ばかり、つぶれ家の分町々に多分之あり、凡
百軒余と申す事に候、火事に付即死三人、其外怪我人数知
れず大変の義いふばかりなし、然るに御上様より御慈悲を
以て焼失の者共へ金子百両、米二百俵、炭千俵下し置かれ
候、但し一軒前金三分程、米七斗、炭七俵づゝの割合に相
成申し候由、右に付火之要心きびしく仰せられ、毎日表へ
小屋をかけ炭火にて煮焼いたし候由、其外日夜同心衆相廻
り盗賊等の用心まできびしく相成り候由、然るに同月九日
の夜博労町中程より出火にて四十軒余焼失いたし候由
一筑摩郡之内塩尻辺より木曾路へかけて格別の義之なき由当
月十六日晩下西条村西福寺焼失いたし候由
一安曇郡之内西在池田大町其外小足辺格別義之なし
一山辺村入岡田苅屋原会田青柳麻績其外在方の分も格別の義
なし
一高遠御城下其外在方格別の義なし、上伊那郡の分も格別の
いたみも之なく、中伊那の内飯島宿より下方損じ多分之あ

一飯田町、大変の地震にてつぶれ家三軒即死三人、其外家蔵
の損じ方殊の外大変に候、凡土蔵のいがみ或は壁落ち其外
大いたみの所数知れず、夫より川路通り下伊那の分損じ場
所数知れず、夫より下方小川通りは往還へ大石中石まろび
落ち誠に通行出来難きよし、且又飯田町方の分格別の損じ
にて、家土蔵等は残らず土落ち、屋根にては一尺五六寸又
は二尺ばかりもいがみ、繕ひには成りがたく何れ建替なら
では住居出来がたく候由まづ信州之分あらましの書付なり
とあつて、此の時の地震は幾内及び東海、東山、南海、西
海、山陽山陰諸道に及び、其無事なりしは東北地方のみであ
つた、而して此の月二十七日皇居炎上、異国船渡来と共に此
の災異とによりて改元を行はせられ、十二月五日嘉永七年を
以て安政元年と成したのである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 545
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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