Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1800137
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔浜浅葉日記 二〕○相州三浦大田和村S55・3・31 横須賀市立図書館
本文
[未校訂]十一月四日 北気ニ而陰、後ニは晴
昼五ツ半時頃ニ地震はじまり、九ツ半時頃迄大地震、夜ニ入
り而も時々地震、昼頃より大浪ニ而、尤、引塩も長井迄見渡
候分引塩ニ成、昼頃はじめニ忠兵衛・権左衛門作り迄あげ、
次之塩は少々、三度目浪ニ而吉右衛門殿前道迄あげ、前通り
は林大次郎・忠兵衛作り畑け下迄大田壱面ニ浪打あげ、夫よ
り之浪は少々引塩ニ成、大橋下四五寸位迄あげ、はし杭不残
落、真ニ近年希なる珍舗事、本家ゟ金二郎・おきよ、紺屋勘
四郎・助七、芝下伯母見舞ニ参り、虎吉本家之船見ニ遣し、
兄・勘右衛門・清兵衛殿とも御役所出、夜ニ入御帰り、親父
大橋通りより浜見分として御出被成候、船之かじ流れ、吉右
衛門ニ助七頼貰ひニ遣し、本家よりも若者とも不残浜へ参
り、米壱俵弐斗善右衛門米斗ニ(ママ)参り受取、小根岸永斉様見舞
御出被成
 十一月五日 北気ニ而晴、後ニは西ニ替り
本家より兄ニ姉御出、時々少々ツゝ地震あり、林惣左衛門
殿・勘右衛門殿参り、鎌倉はり医帰りかごニ而送り遣し、本
家より留吉壱人参り、虎吉両人ニ而遣し、みつかん弐十三持
せ遣し、手拭同道之女ニ遣し、蓮三本・みつかん弐十三三ケ
浦へ持せ遣し、今夜大橋迄之道通りへ波上る、昨四日之津波
之通り
 十一月六日 北気ニ而晴
早朝ニ米斗(ママ)りニ行、弁吉薪木かり、虎吉糞かけ、八ツ時ニ本
家より金谷たゝみや勘右衛門殿参り、存誠一・永斉様御出、
夕かたニ御帰り被成候、武桶屋壱人傭、夜ニ入八郎左衛門殿
参り、虎吉小根岸へ薬取ニ遣し
 傭人 弁吉 桶屋壱人
浦賀より地震見舞之手紙本家よりとゞき参り、昨四日浦賀谷
戸新地之辺、床之上へ水上り候よし、桜山たこい川橋落
 十一月八日 北気ニ而、後ニは陰
(中略)
伊豆下田地震ニ而津浪出、町家半分流、人六百人余なかれ候
よし、夫より先ニ三嶋宿地震ニ而出火、不残焼候よし承り、
尤、異国船もいたみ、唐人六人死す
 十一月九日 北気ニ而陰
弁吉薪木取ニ行、虎吉糞掛、小根(ママ)永斉橋御出、三ケ浦母本
家へ御出被成候、小左衛門・四郎右衛門米斗ニ参り、今日迄
少々地震ゆる、甚右衛門殿参り、見舞として炭弐俵至来
 傭人 弁吉
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 395
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 三浦【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒