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項目 内容
ID J1700152
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛騨・越中・加賀・越前〕
書名 〔富山県中新川郡上市町誌〕S45・2・11
本文
[未校訂]安政五年の大地震
安政五年(戊午、一八五八年)二月二五日、夜間に越中地方
一帯に大地震があり、大地は地割れ、陥没を生じ、立木、人
家の倒壊数知れず、立山連山のうちの[鳶|とび]岳・国見岳・天狗平
など一時に崩れて常願寺川を[塞|ふさ]ぎ、一大[潴水|ちよすい]をなし、やがて
これが[決潰|けつかい]して鉄砲水となり、下流域一帯に大被害を及ぼ
し、被害草高三三、〇〇〇石、流失家屋二、九〇〇戸、死者
八〇〇人と伝えられる(安政地震見聞録)のが、安政地震の
大要である。
『地震変地記置事』に記された地震の様相
この地震の災害については当時、下条組森尻村の橋本庄五郎
の『地震変地記置事』によって、次の様子がうかがわれる。
当日の様子
当日は夜の九ツ八分の頃(真夜中)、未申(西南)の方向よ
り地鳴りして大地震となる。
家の動くこと大風に芋の葉の動くが如く、地の[震|ない]は大波の
如き故に、障子ははずれ、戸はこわれ、人々途方に暮れ、
正機(正気)を失い、中には壁を踏み破り思い思いに逃げ
出し、其の内に鳴り静まる。その震の間半時余也。然れ共
夜分の事故、死ぬる人も少し。昼中に候得ば大いに出火、
人死ぬる事格別之事也
と記している。後段の、夜分の事ゆえ[云々|うんぬん]は今日ならば反対
に、日中ならば死人も少ないだろうし、炊事の時刻でさえな
ければ、かえって出火も少ないだろう。当時は夜分など火の
用心厳重に、また人びと暗夜にても敏活な行動を取り得たも
のと思われる。
各地の被害状況
森尻村から滑川まで田地は割れた。石仏村領の道路五〇間の
ところ五尺(約一メートル五〇)ほど沈下し、四~五日も通
行出来ず、ことに牛馬は通行出来なかった。森尻の田地三、
五四〇歩損害をうけ、土蔵、屋敷壁は崩れ落ちた。大永田村
は田地は少々いたみ、家は三軒潰れた。石仏村は家三軒潰
れ、その中で源次郎と申す人は足をいため、子供は一人死ん
だ。竹鼻村、堀江村も上述に準ずる。
黒川村の三郎兵衛家は、山ぬけのため家が潰れ、その妻は死
んだ。大岩山日石寺では、勝手の土蔵が潰れ石垣が崩れた。
下砂子坂村は六軒潰れた。村村で潰れ家のないところはなか
った。東種の四郎右衛門の家や土蔵は半壊、早月谷は比較的
被害は小さい方であった。小出村は一二軒全壊、一六軒半
壊、[肘崎|かいなざき]村二九軒の内一三軒潰れ、金尾村は九軒潰れた。瀬
戸焼の大[竈|かま]、小竈は崩れた。
呉東方面はもとより、呉西方面もふくめて、越中国内諸所の
被害状況も詳しく述べてあるが、ここでは省略する。またこ
の地震は尾張・飛驒・越前にもかなり被害があったようで、
尾張名古屋城下大変の評判に候。飛驒の国大変、越前丸岡
城下、皆潰れ、焼失の風聞候、大野勝山大変、大聖寺城下
痛み、廻道之事
とある。
常願寺川の大洪水について
三月一〇日は晴天で、[巳|み]の上刻と午の上刻の二度地震があっ
た。午の下刻に未申(西南)の方向に地鳴りがおこった。
常願寺川方面の大惨事である。この洪水は泥と川木ばかり
で、三ツ塚新村・日置村を遠ざけて[川除|かわよけ]を越え、東岸へ乗せ
上り、和田村・西芦原村・曾我村・石田新村・[鉾|ほこ]の木村・塚
越村・稲荷村・国重村・竹内村、上流では岩峅寺まで、高野
組に属する村むらが被害地となった。被害田地二、四五八石
八斗、流失家屋一九軒、埋没家屋二七軒、半流失家屋七二軒
であった。川木の量は[莫大|ばくだい]で金に見積って一二、〇〇〇両に
もなろうか。
四月二六日に二度目の大洪水が起こる。この日晴天で日中の
九ツ九分のころ鳴り出し、こんどは両岸へ向って暴れ出し、
大場村の[川除|かわよけ]をのり越え、新庄新町・富山いたち川・清水ま
で平地になった。この洪水の水音は、西は高岡から、東は泊
町(朝日町)まで聞えた。出水の時、岩と川木と打ちあい、
摺りあって音を出し、煙を出すのである。
常願寺川からの水取入れ口が一三カ所あったが全部潰滅し
た。三月のよりも四月の洪水は被害範囲広く、一五倍もの損
害を与えた。この時季は、後田植えのころで、田植え中の男
女一二人が一度に死んだ村もあった。菜種なども何百石も流
失した。
堤の水切れにょる被害
三月一二日の夜五ツ半ごろに千垣村の湯川から堤水が切れ
て、野町村・高原村・横越村・大岩川を打ち越え、稗田村・
正印村・若杉村辺まで泥大水となり、被害甚大であった。広
野村だけは被害がなかった。
立山温泉の被害状況(『安政五年正印直之丞控』)
「……立山温泉打崩れ、其の外の諸山打崩れて大変至極に
御座候、右立山温泉へ冬稼致し居候人数四八人にて、中に
弓柿沢村清五郎等罷越居候処、二月一五日の一番地震には
山も動き申候得共、人命に障り無之、翌二六日朝逃出し候
者共五人許り小見村、亀谷村の者共にて無事に罷り帰り申
候得共、弓柿沢村の者共等四〇人余は指し支えの義も無之
様に存じ別湯小屋に罷り居り候。然る所二六日暮六つ時の
大地震にて、大鳶小鳶と申す山々一時に打崩れ、右湯小屋
等、不残押潰され、人々内に罷在り一時に死申候。誠に前
代未聞の事に御座候……」
とある。
地震に対する藩の救急策
倒壊した家一軒に付、御貸米三斗五升、半壊には一斗七升五
合、町方の潰れ家には五斗、泥で埋った家へは米八斗、銭七
~八貫匁貸付け、応急修理人足に対しては、東側の[川除|かわよけ]普請
人夫は一人一三〇~一五〇文、安いので行かぬ者もあった。
八月から御貸米が暫く取止めとなった。これは半流れになっ
た者たちが、謀反を企てたからである。金尾新村から西方に
七口と云う用水があり、その側に高い砂山があった。そこへ
晩になると四~五〇〇人が集まり、ときの声を挙げて「死ぬ
は、死ぬは」とわめきさわぐ。それが御郡所へ聞こえ、御足
軽の出勤にもなった。一〇〇日ぼかり経過し、聞き取り、召
し捕え入牢、死罪の者も出た。
また四月の洪水以来、被害の村むらへ一日に男一人に五合、
女と男一五才以下には三合あて御上様から御救米として下さ
れた。この人数五、〇〇〇人余、一日の合計高一八石四斗、
七月晦日までに一、六六五石となった。川がかり入費につい
ては、用水取り入れ、鳥足(三本の材木を結び川の瀬に取り
付けるもの)、土俵の準備などの入用銀として、流高(流失
田地)を除き、御用水打銀、一〇〇石に付三〇目、中勘とし
て御取り立て、二〇万石に六三貫となった。
「故ニ是程ナル事ハ、日本初マルヨリ、一ト申シテ、二
ト附ク所ハナシ」
と述べている。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻4
ページ 627
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
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