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項目 内容
ID J1700151
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛騨・越中・加賀・越前〕
書名 〔富山市史 一〕S35・3・30 富山市史編纂委員会
本文
[未校訂]安政五年二月二十五日
大地震があつた。富山城内の石垣、及び、塀、[矢柵|や さく]等頽壊
し、大樹は倒れ、領内到る処土地が裂け、砂水が噴出し被害
が夥しかつた。この時、新川郡有峯領薬師獄の続き[大鳶|おおとんび]、[小|こ]
[鳶|とんび]の両山(常願寺川の水源)も亦崩壊し、その麓に一大[潴水|ちよすい]
をなし、常願寺川の流脈が、一時壅塞したのである。
安政五年三月十日
小震があつた。大鳶、小鳶の山麓に出来た潴水が、これがた
めに[甫|はじ]めて流れ出た。その響あたかも百雷の一時に轟くよう
であつた。泥岩等の流出も少くなく、常願寺川が暴漲し、東
岸の利田村等へ[入川|いりかわ]をなした。その後、連日濁流が急で、同
二十六日に至り、潴水更に大いに横溢し、怒濤驚瀾天に[滔|みなぎ]り、
地を捲き、岩石を飛ばし、泥を流し、金沢藩領内に於ける常
願寺川の東西に在つて、藩地高二万五千七百九十八石壱斗九
升九合、[変地|へんち]村数百四十八箇村、流失家屋並びに潰家千六百
十二戸、流失土蔵納屋八百九十六棟、溺死者百四十人、溺死
馬九頭の多きにのぼり、富山藩領内に於ける村落十八箇村が
惨害を蒙り、濁流は[大場|おおば]堤を越えて富山城下町を浸し、稲荷
町の民家を没し、又、柳町天満宮社内に入り、鼬川筋の架橋
も亦悉く流失した。是れ大場堤の決潰したゝめである。この
洪水当時に至るまでは稲荷町から荒川橋に至る間は、人烟稀
疎で僅に二十戸内外に過ぎなかつた。ところが、水害後、新
庄新町は荒川橋以西に[易地|かえち]を願つて同所へ移住し、農家も国
道に沿うて屋宅を構えたので、その後、新庄町と富山町とは
連檐櫛比して、殆んど一市街の状をなした。
大鳶[山抜|やまぬけ]報告書
乍恐重て申上候、此夕川尻渦巻のこと[粗|あらあら]承り何れぬしの様な
るもの顔を差し出し候、西水橋役人に相尋候処長さ四五間も
ある鯨の如きもの流れ来り水橋川[定渡場|じようわたしば]より百間計川下へ流
れ行き、逆か巻く川を搔き立て川上へ一丁余も遡り候、勢中
々以て凄く候故、人々恐て見物致居候、川上より材木[夥敷|おびただしく]流
れ来るに弱り候哉川下へ行き夫れより形相見えず成候、[定|さだめ]し
渦巻の中へ入込みしものと奉存其後も度々顔を出たる者有之
見物致したる体に御座候。就中最も不審なるは、右鯨の如き
物渦巻の中にありて、五匁蠟燭を一挺(ママ)合せたる程の青き火焰
を両三度立上せ見物身の毛[堅|よだ]つ計りに恐候由にて、又泥水の
中故貌も[爾|しか]と見定め難く、角は如何にも見当不申候、此日の
出水は海汐と突合、川尻にて揉み合候故、津波も可有之しと
思ひ婦人老幼夫々逃支度致居候
午三月十一日 東水橋町肝煎
新川郡御奉行殿
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻4
ページ 626
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 富山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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