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項目 内容
ID J1700144
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛騨・越中・加賀・越前〕
書名 〔富山県放生津潟周辺の地学的研究 Ⅲ〕S41・3 富山地学会他
本文
[未校訂](射水平野に於ける過去の生活)高瀬保著
越中に於ける過去五〇〇年間の地震といえば、天正一三年
(一五八五)の庄川上流に震源を有すると思われるものと、安政
五年(一八五八)の常願寺川上流・立山に震源を有するものをあ
げねばならない。
前者については具体的なことはわからぬが、後者についての
射水地区の様子はかなり具体的にわかる。

注、史料の引用が続くが抄文であり、六一一頁〔覚書〕
高田外夫家文書と同文につき省略

安政の地震の程度は下条川の水をゆすり七~八尺の高波を上
げるものであった。そして最後に伏木、大門、片口村と地震
の被害順序を記している。
片口村の被害は潰家九軒。痛家四〇軒でそれは高場村等の痛
家と違って倒れる寸前の状態で格別のことと記している。片
口村は当時戸数一三四軒(百姓五二、頭振八二)であったか
らその被害は約四割となる。
高場新は片口村の南隣の村である。ここは潰家一軒、納屋の
壊れたもの一戸であった。当時の同村の戸数は四七軒(百姓
二七、頭振二〇)であった。
久々江は片口村の東南隣である。ここは潰家一軒、同村の戸
数は八一軒(百姓二七、頭振四五)であった。
片口、高場、久々江村は全く隣接するのに片口村にのみ被害
は集中している。第一集で紹介したように高場、久々江村は
中世に村建は完了しており、片口村は近世はじめに客土によ
り村建がなされた所である。距離的に〇・五キロメートルの
違いにもかかわらず被害に多寡のあったのはこの土地の形成
と関係があるように考えられる。
また地割ケ所として高場新村の善次郎の畠地で二、三ケ所で
三寸、古国府の下タ町で二尺、大門町の庄川の西岸で二、三
尺、高岡河原町勝念寺、それに放生津の塩除ケ町の三尺があ
げられて砂水をふきあげているとのべている。
塩除ケ町をふくむ放生津町については、同町の曼陀羅寺の過
去帳に次の様に記されている。
二月廿五日夜九ツ半頃ヨリ大地震ニテ表門動倒、堂等内かべ
所々損、所方三軒潰家地面割ケ所も有之、塩除町十二三町二
三尺斗地中へ動入引連波五尺斗塩押込(後略)
曼陀羅寺過去帳によれば同寺の表門は地震で倒壊したとあ
る。曼陀羅寺は同寺蔵の記録によると以前放生津東町にあっ
たが、海岸浸蝕のため寛延元年(一七四八)に現在地に移った。
倒壊した表門は東町にあった元禄一五年(一七〇二)に作られた
ものがそのまま移転されたものである。地震による放生津町
の被害は三軒、塩除ケ町(長徳寺町)は一二、三町にわた
り、二、三尺の地割があったとのべ高田記録と一致してい
る。放生津町の海岸と内川にはさまれた所は標高二メートル
の砂丘で、ここに多く家が出来、近世はじめから内川の南に
住居が拡大していった。ところで塩除ケ町へは近世はじめま
で庄川が流れこんでいた場所で江戸時代を通じて新開された
場所であった。
被害が多く、地割ケ所のあった所は新しく干拓された所か、
庄川の河床であった所と一致するのである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻4
ページ 610
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 射水【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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