[未校訂]孝明天皇安政五年紀元二五一八年二月廿五日の大地震なり
き、常願寺の水源大鳶小鳶の山峰崩れて川筋を塞ぎ三月十三
日其の水溢出して遂に四月廿六日の大決潰となれるものにし
て当時の状況を左に詳述せん。
二月の地変 安政五年戊午初春第九日即ち立春より十三日始
めて鳴動起り不審を抱き居りしが二月二十二日夜信州に地震
起り、更に二十五日又地震越り、殊に甚だしきは飛驒美濃方
面なりしが当越中も被害甚だしく大鳶、小鳶、国見岳天狗平
等一時に抜け出し立山温泉並びに温泉小屋悉く皆押し潰れ平
地となれり。殊に有峰薬師岳の下より流出する真川を打留め
尚温泉附近より流出する湯川をも打留めたり。此の際上新川
郡(現在の中新川郡)にては石正村、小出村、柳寺村、専光
寺村、石割村、平塚村、田伏村、曲淵村、西光寺村、池田舘
村、池田町村、伊勢屋村、石仏村、二ツ屋村、金尾村、金尾新村、肘崎村、竹鼻村、開発村、砂子坂村、江上村等の村に
は家屋倒壊及び死傷者を多く出したり。
三月の地変 之より十五日を経た三月十日明四ツ時頃又もや
鳴動起り暮九ツ時頃より南方鳴り渡り立山悉く崩るゝが如き
大地震となりぬ。先に真川の満水鍬先山の半腹に及び、その
余水は千垣、藤巻、亀谷に溜り居たる水一度に流出し日置村
河原より竹内村無量寺門前へ川切込み馬瀬川に落ち合ふ。水
橋湊にて十日八ツ頃より翌日辰尅頃まで海に一雫も注がず悉
く下舞込みせし由なり。
四月の地変 二月二十五日より約二月を経たる四月二十六日
明九ツ時より又々東南の立山崩るゝが如く大鳴動して世人驚
き居る中湯川の水並に池の水流出し滔々たる洪水天に漲り。
地を捲き林岩石も木の葉の如くに浮び水の高さ川底より八
丈、岩峅権現堂に乗りかけ大釜流出。馬瀬口、大湯川堤を越
え中島村より神通川に落ち合ひ被害ケ所加賀領分の間に村数
百六十三ケ村変地高二万五千七百九十八石一斗九升九合流出
家屋並に潰家千六百十二戸土蔵納屋八百九十六棟。溺死者百
四十人馬九頭、富山封内被害を被りし村落十八ケ村稲荷町民
家を浸し柳町天満宮(太田神社)境内に入り鼬川橋も流出
す。是大塲前の堤崩れたるに依る、斯の時に至るまで稲荷町
より荒川橋に至る間、民家僅かに二十戸に過ぎず。新庄新町
は易地を荒川橋以西に願って移住し其の他新庄皮屋も国道に
出て農家も家屋を造営せしを以て新庄町とは連接櫛比し往来
繁くなれり。此の洪水の際大森村の東端を幅百間の広さに亘
りて流れ大石の村に到りて北西し本川に合す。西大森の南部
堤防の一部にある大石は其の高さ数間にして今は大部沈下せ
るも斯る大石を運び来れる水勢の如何に強く且つ大なりしか
を察するに足る。又馬瀬口大塲の用水人足三百人余出でしが
水死したる由なり。この大洪水に役所に届け出でたる水死人
総計千七百九十六人なりと。三月十日の水切込みの節は救助
米女子供には三合宛男十五歳より上は五合宛、四月二十六日
の出水には六歳以上の男女子供一般に三合宛施されたり。尚
沿岸当区域関係村中立山村は岩峅寺市場、柴山南川原にあり
し田約二丁流失し。四月二十六日には刀尾社および覚乗坊、
玉蔵坊、円林坊、六角坊、実教坊、財智坊、蔵生坊、般若坊
等の一社九坊流失せり。此の際水勢現前立社壇拝殿下までに
及べりと。
大森村は大洪水襲来の前、常願寺川沿岸の村民は上段へ悉く
避難して大騒ぎを演じたるも現存せる西大森大橋の大石流れ
来りて堤防に止り、その為めにか水勢西方に向ひて大森村は
難を免れたりと。
顧るに此の大洪水には大岩森羅万象一時に押流され人畜は被
害又多大にして其の惨過言語に絶するなり。然れども今まで
腐殖土なりしも砂多く混じ流されたるため以前種子代すら収
穫するに苦しみたりし、田畑も次第に肥沃となり多収さるゝ
に至りたる益あり。
附記 常願寺川は安政の大洪水までは立山村領より釜ケ淵
村領に入り下段村領を経て高野村に入り、若狭川と合
し日本海に入りたり。桑崎山大崩当時立山村下千垣村
領を浸入し上瀧東を通り大森、利田、三郷の各村を流
れて日本海に入り。千垣村領より下流の常願寺川の一
部分その当時より成り現在に及ぶ。