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項目 内容
ID J1700014
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛騨・越中・加賀・越前〕
書名 〔宮川村誌 史料編〕S56・11・20吉城郡宮川村誌編纂委員会
本文
[未校訂](ロ)安政五年(一八五八)二月、当山中地方の地震前に、角川
方面に天を覆うアトリの大移動があり、人々が不審の眉をひ
そめたことは、いまも里人に語り継がれてだれも承知のこと
である。富田家文書に「[獦子鳥|あとり]群飛」の次の文書がある。
獦子鳥群飛
安政三丙辰歳(一八五六)十一月、吉城郡小鷹狩(ママ)・小島二郷数
村、獦子鳥群飛、其数不知幾千万、土人以為異矣、今茲戊
午二月廿六日暁、地大震ハ二度、諸人[恐怖|きようふ]不能在家、抱
莞席出門、与近隣人群居、暁寒侵肌、星彩[瀉|そそぎ]朱、震動
未止、諸人[危懼|きく]、大震小動自子牌至于[黎明|れいめい]、凡四十余度、
及平旦人得入家、而[盧舎|ろしや]土蔵[傾仄|けいそく]、四壁[頓|とみに]生[罅隙|かげき]、無
家不損矣、軽震経数日而猶未止、於是有[愁訴|しゆうそ]、吉城郡
小鷹狩・小島・高原三郷為最第一、大野郡白川郷次之、[荻|おぎ]
[町|まち]村里正某、出訴[踰|こえて]天天生嶺、遙[瞰|みる]山中(小鷹狩小島二
郷通名)、村舎[仆壊埋没|ふかいまいぼつ]・山崩塞河処々為湖、[驚駭稍|きようがいやや]久
之、而始知吾村里の災尚軽、此震也国中惣計二郡、四郷・
七十村・民家仆壊、七百余戸、圧埋死亡二百余口、傷者四十
余人、牛馬[斃|たおる]者八十余、其他関門・社寺・[倉廩|そうりん]等、不[遑|いとま]枚
挙、自府至越中三崖道(東海・中路・西道)崩、失米穀・
魚塩運送要路、術計殆尽、国民将[飢餓|きが]矣、[豈|あに]可不[嗟嘆|さたん]
乎、嗚呼獦子鳥の[予|あらかじめ]示変異也有故哉、往昔天武天皇御宇七
年十二月己卯、獦子鳥[蔽|おおう]天、自西南飛東北、是月筑紫国
大地震也、地裂広二丈長三十余丈、百姓舎屋、毎村多仆壊、
是時百姓一家在岡上、当于地動夕、以岡崩処遷、然処
全而無破壊、家人不知岡崩家避、但会明後知以大驚焉、
又九年十一月[壬申|じんしん]朔日[蝕|むしばむ]之、辛丑[獦子|あとり]蔽天、自東南飛以
[度|わたる]西北、十年三月庚寅地震、六月壬戌地震、十月癸未地震、
十一月丁酉地震、十一年正月癸丑地動、三月庚子地震、八月
癸酉大地動、戊寅亦地震、十三年冬十月壬辰、逮于人定大地
震、挙国男子[叫喟|きようき]、不知東西、則山崩河[湧|わく]、諸国郡官舎
及百姓倉屋、寺塔神社、破壊の類不可[勝|あげて]数、由是人民及
六畜多死傷の時伊予湯泉没て不出、土佐国田苑五十余万
[頃|けい]没為海、古老曰、若是地動、未曽有也、是夕有鳴声
如[鼓|つづみ]、聞于東方、有人曰、伊豆島西北ニ面、自然増益三
百余丈、更為一島、則如鼓音、神造是島響也、事載于日
本書紀、其余和漢歴史未[遑|いとま]捜索、概記獦子鳥之示兆、以
備後案云
安政五年歳次戊午五月
(富田家文書)
『斐太後風土記』に「小豆沢口関屋跡」の条に次の記があ
る。
文政一一戊子年(一八二八)、礼彦関守に成て引越居けるに、
地震せし頃村民来りて、甚きびしき[奈威|ない]にて候と申けるを
聞きて、問ひけるに、此坂下村々にては、古より奈威との
み申候と答へぬ。今も古言の遺れるは、坂上村々も同じか
らむ。然るに、安政五戊午年二月の大地震にて、関屋も震
潰し、小豆沢村中央の往還道下の、人家も畑も不残欠崩
し、道上までも危くなりしより、関屋は隣村杉原村にて建
すえぬ。村民は甚可憐なる事なりき。
これは当時国学者富田礼彦が、坂下村小豆沢口番所の役人と
なっていったとき、土地の人々が、地震の古語「[奈威|ない]」を生
活用語として用いているのに興味を感じ、問い糺したところ
である。「ない」は『日本書紀』の[允恭|いんぎよう]紀や『宇津保物語』
その他、古い書物などに見られ、地震のことをいっている。
二 安政五年二月二十六日の大地震
時計の無かった当時のこととて正確は期せられないが、
「坂下村誌」には「二月二五日夜九ツ半(午前一時)より八
ツ半(午前三時)まで、最も甚しき大地震あり」とし、坂下
小学校『郷土誌』には「二月二六日の八ツ時(一説には二五
日夜九ツ時)突然大地震が起こった」と記している。
この大地震はマグニチュード六・九といわれ、夜明けごろ
までに四十余回にわたって大震・小震があり、山中地方には
かつてない大地震で、その恐怖はいまもなおいろいろに語り
伝えられている。
しかし当時はまだ地震計も無かった時代で、震源地は果た
してどの地点であったかも判然しないが、ただ人家の密集し
た河合村角川地区の倒壊家屋がもっとも多く、全戸数九八戸
のうち七七戸までが全壊又は半壊した。後に「角川地震」な
どと呼ばれるようになったのもこのためである。
さてこの年は残雪期の二月に入って、日ごとにどんよりし
た生暖い天候で、人々はそぞろ不安に神経を尖らせていたお
り、今度の大地震で、たちまち全村を修羅の巷と化したので
あった。
村の人々は突如起こったこの強震に夢破られ、着のみ着の
ままで戸外に飛び出したがまだ真夜中時で、避難した辺りに
はいちめんの亀裂があり、危険であったので、再び我家にと
って返し、雪垣や戸板などを運び出し、これを残雪の上に敷
き並べ、辛うじて一夜を過ごしたが、次々に起こる余震や土
地の亀裂、また近くの山々の崩壊するありさまを目前に見
て、全く生きた心地もしなかった。
余震の襲来は間断なく続き、いつまた、どんな大事が起る
やも計り難い状態の中で、相互の情報はと絶え、思えば限り
ない不安が募るばかりであった。
幸いに壊滅を免れた者も恐怖と不安で家へも帰らず、夜明
けとともにさっそく仮小屋を作り始めた。
強弱の余震はこもごもなおその後も続いたが、だんだん間
遠になり、翌月の三月三日、雛の節句を期して、ようやく本
宅に戻ることができた。
人々は二六日の未明天に輝く「明けの明星」を仰ぎ見なが
ら、「この世はいつか滅びると聞いていたが、いま[当|まさ]に到来
した。それにしても天の星のみいまもなおこうこうと美しく
輝いていることよ!」と、言い交したと伝えられている。
三 災害の復旧
二月二六日というと、太陽暦では四月九日に当たり、気候
の遅れている北飛驒地方でも、春風春水一時来の喜びを感じ
るときを迎えたわけで、とりわけ田畑の耕作を目前にひかえ
て、いつまでも意気[阻喪|そそう]をしていることは許されなかった。
そこでとりあえず道路や用水路の復旧を要する場所は、村
中総出で応急の修理を加えたが、大きな復旧工事には、富山
県側の人々の応援を求めたことが、当時の記録に残されてい
る。
第二三代郡代増田作右衛門頼興は、安政五年(一八五八)四月
着任早々ではあったが、その災害復旧に全力を尽くした。特
に郡代所からは一人につき米二合五勺(〇・四五リットル)
ずつ一五日間にわたって給与され、一方高山町にはほとんど
被害がなかったので、活発な救援活動が行われた。まず米・
みそ・塩などが集められたが、これらは、被害のひどかった
当地を始め、高原郷の被災地へも送られた。
また国府村の人たちも郷倉を開いて、米穀を災害地方へ輸送
して難民を救助し、大いに喜ばれたことが『国府村史』にも
見られる。
また無利子で金を貸す人も多く、あらゆる救援の手はさし
のべられたので、人々はようやく立ち直ることができた。
このとき、口留番所役人より高山御役所へあてた状況報告
書を、後高山測候所長山沢金五郎がとりまとめ、これを「安
政五年大地震史料補遺」として発表した。すなわち次のよう
である。
安政五年二月飛驒大地震
越中往還御番所より
高山御役所へ宛状況報告書留
荒田口御番所
山内直右衛門
中山口御番所
土屋勘左衛門
小豆沢口御番所
大坪益平
御役所
大池織右衛門記
以宿継致啓上候、然ハ当月廿六日暁九ツ半時頃、稀成大
地震にて当口御番所の儀、皆潰同様ニ相成申候、依之荒増
の儀左ニ申遣候
一当口御番所の義、裏通山手の分嶮岨の場所ニ有之候処、
右大地震にて山上より大石三ツ転び落、内弐ツは御番所え
打込、柱打折其の外板敷・根太・建具類等打砕悉及大破、
既ニ召連罷在候水夫壱人、即死いたし候義ニ御座候、御番
所ハ半潰同様ニ相成候ニ付、[迚|とて]も住居難相成、拙者義ハ
同村名主仁右衛門方へ立退申候
一当口御番所の義、外口と違ひ往来取締のため、柵・矢来等
の代り高七八尺程、長凡百間程の石垣築立有之候処、悉
く震潰申候
一当口往還道筋の義ハ、中山口・小豆沢口同様の義ニ候得
共、右弐口道筋の様子承合候ニハ、少々の損所ハ無数の由
ニ候得共、道筋大石・土砂押埋、又ハ欠損の通行難相成
然ル処越中国東猪の谷村より同国[長棟|ながと]と唱へ候峯尾通伝
ひ、当国東町村え出候ものも有之候哉も難計候間、道筋
取繕被成ても通行相成候迄ハ、当分右東町村え仮御番所
ハ補理、同所ニ勤番被仰付候ハバ、却テ御取締向も行届
可申哉ニ存候間、一応及御問合候、宜御評義ノ上、否
早々御申越被下候様仕度奉存候
右の段可得御意如此御座候 以上
午二月廿八日 山内直右衛門㊞
高山
御懸り 御用場
飛脚を以致啓上候、然ハ去ル廿五日夜八ツ時頃大地震ニ
テ、当口御番所皆潰同様ニ相成申候、依之荒増の儀左ニ申
遣候、御地表ノ義ハ大変の儀無御座候哉、此段御安否承度
奉存候
一御番所木戸の義ハ、前通ばばへ落候と相見へ、跡形無御
座候事
但錠共
一柵杭の義悉く転倒いたし候事
一前通落掛は勿論、広庭往還の義半分余も崩落候事
但毎日追々崩落候事
一御番所北の方庇并雪隠・薪小屋等は皆潰ニ相成候事
一御番所の義、裏通は山の方より大石転び落、或ハ震り潰
し、水流の間又ハ水夫部屋等ハ悉く大破、其外建具類不
残損し候得共、村内潰家抔と見合せ候テハ、怪我等も不
仕先づ上の処えも至り可申奉存候事
一御番所御普請被仰付候ても、当時の地所にては毎日尓
今崩込候ニ付、何れとも場所替不仰付候ては、相成申間
敷奉存候事
一大地震ニて人家悉く震り潰し、[迚|とて]も居宅には住居難成候
ニ付、弐間ニ四間位ノ仮小屋取建、廿六日より廿七日両日
は、村内人別并拙者人夫共不残同居ニテ野宿同様の仕合
ニ候処、廿六日ハ雨天ニ付、夜中ハ必至と難渋いたし候事
一往還道筋の儀大地震にて、山崩或ハ大石等転び落、是迄の
道形更ニ無之、只々嶮岨絶壁の嵩山の姿ニ相成、大震以
来毎日所々山崩いたし、大石小石不絶転び落候事
一下茂住村人家六軒の処、弐軒ハ伝兵衛太郎左衛門皆潰、弐軒は潰
同様伊三郎伝蔵其外土蔵并板蔵或ハ薪小屋・米舂小屋ニ至迄、
悉く皆潰同様ニテ、壱ケ所として破損不致は無御座候

但、御番所隣家兵蔵并名主惣四郎居宅の義ハ、半潰れ同
様ニ候得共、無理々々居住相成候ニ付、拙者義ハ惣四郎
方え引移罷在申候
一大地震ニテ数ケ所山崩いたし、大石・大木高原川え押出し
突埋、廿六日朝五ツ時頃より昼九ツ時頃迄流水差留り、杉
山え歩行にて通行相成候位ニ見請候処、昼九ツ半頃より濁
水追々流出シ、七ツ時頃ハ大水ニ相成候事
一藤橋の義山崩にて、高原川え押落し候哉、跡形相見不申
候事
一下茂住村耕地ノ義、四分通も荒地ニ相成候由及承候事
一上茂住村の義ハ七八分通も同断の事
但同村ノ義ハ、潰家四、五軒も有之由、并徳翁寺の義も、
皆潰同様の由及承候事
一隣村えの往還道通行差留り、必至ノ難渋いたし候事
一当口往還道筋の義、前条の通是迄の姿更ニ無之、只々絶
壁嵩山の有様にて、御役荷物は勿論、往来の諸人ハ一切
無之、且ハ道普請等被仰付候テも、二ケ月三ケ月位ノ
事にてハ通行相叶ひ可申体ニも被見請不申候間、拙者
義当口勤番被仰付罷在候テも、其詮更ニ無之様被存、
且ハ御番所ニも居住難相成名主惣四郎方え引移罷在候仕
合ニ候間、一ト先づ帰宅被仰付被下度、天災地妖とは
[乍|ながら]申此段御憐察被下、可然評義の上早々御差図被下度
奉存候、尤帰宅の儀相叶ひ不申候ハバ、日数も相応ニ勤
番仕候義ニ付、定例の通来ル三月差入、又は中旬頃迄ニは
更代被仰付候様、御取成被下度候事
一当口御口役限の義、迚も来三月定例の日限ニは、差立相成
兼可申奉存候、尤調方には差支無之候得共、村方居宅
小屋懸等にて人足差支候ニ付、此段兼テ御承知置可被下

右の段荒増の義にて巨細ニは至り不申、何様ニも大地震故
漸々の事にて、露命相拾ひ候仕合にて、前後混乱いたし、且
は万端難申尽、何卒御壱人急々御出役の上、御見分被下度
奉存依之此段得御意度如斯御座候 以上
午二月廿八日
中山口
土屋勘左衛門㊞
月番宛
追テ于今地震ノ義は昼夜共、無絶間震り申候 以上
以村継致啓上候、其御役所表無御別条被成御勤候
哉と奉存候、然は今廿五日夜子上刻より地震、翌廿六日卯
申刻頃迄無止間震、当御番所始近村の焼失・潰家即死のも
の其外、損所等[有荒|あらまし]見聞取調申上候、左の通
木戸押倒シ

前懸皆崩
戸障子・板土壁・賄道具類損失
御用場前通往還五尺程懸崩
小豆沢口

半潰家弐軒
土蔵半潰壱ケ所
板蔵流失壱ケ所
小豆沢村
但半潰同様家数四軒、其余は先手入住居出来申候

潰家四軒
即死男女六人
半潰不知
牛弐疋
杉原村

潰家壱軒
半潰弐軒
即死男女四人
潰土蔵壱ケ所
板蔵壱ケ所流失
牛弐疋
桑ケ谷村
一潰家壱軒 戸谷村

潰家四軒 但寺壱軒
即死不分明
半潰家板蔵不知
祢宜ケ沢上村

焼失家弐軒
潰家三軒
即死男女五人
巣納谷村
一打保・加賀沢弐ケ村、実否不分明
一御番所破損勤番難成ニ付、村方助太郎方え引取居申候、
尤御用書物類別条無御座候通、峯々谷々押出、川中え崩
込、其上大木等流出泥水溢、今昼より弥水勢強相増候間、
山仮小屋為取締、拙者始村方のもの共一同起臥罷在候、
先は右の段荒増得御意度、宜被御立可被下候、尚取
調追々申遺候
午二月廿六日 大坪 益平㊞
殿

 地震資料は報告月日により数字に多少の相違がある。
村継を以致啓上候、暖和の節御座候処、各様弥御安泰被
成御勤珍重奉存候、然は去ル廿七日御用を以申遣候通、
地震一条ニ付テは、御番所多分及損失、其後追々敷板・壁
土等相損、容易取締勤番難致於于今、震動其度々大石等
崩落候場所不少、此後通々相成候得ば、出馳有之候故、抜
出候哉も難計御座候
一諸往来の義一切無之、道迄山路伝相通候ものハ、北国筋
商人坂下村ニ罷在候分、帰国いたし候迄、其余更ニ往来
無御座候、且通行難出来故、[確|しか]と申立不相成候得
共、中山口引払ニ相成候趣、途説有之候得共、実否不承
知、[弥|いよいよ]引払御座候得ば、拙者義右同様御番所諸書物并残賄
道具ノ分封印ノ上、跡締方村役人共え申渡引取度奉存候、
委細御衆評の上、急速御報可被下候、右の段可得御
意如此御座候 以上
午二月晦日 大坪 益平㊞
「飛驒三郡沿革」に次のように記されている。
 安政五年戊午二月二六日暁、丑刻地大震小動、至平明四
〇余度、郡村頻愁訴、吉城郡小鷹利・小島・下高原・三郷
為最第一、而大野郡白川郷次之、大震山崩埋河処々成湖、
村里壊欠屋舎潰顚、此震災也、惣計二郡四郷七十村、民舎仆
壊七百余戸、圧埋死亡二百余口、傷者四十余人、斃牛馬八十
余頭、関門寺社倉廩准之、越中三崕道敗崩、失米穀魚塩運
送要路、術計殆尽、先是福王郡代、応召既発送、国吏与
郡烝相謀、行角川・舟津検其状、遇震者飢渇失度、
因是開郷蔵分与畜穀、更不見一人餓死
四 跡津川断層と角川地震
 跡津川断層というのは、富山県薬師岳の西麓にある有峰付
近に発し、南西にのびて吉城郡河合村天生の西方にかけ、約
七十キロメートルに及ぶ断層で、日本でも有数の長大な活断
層の一つである。
 ほぼこの断層に沿って今度の角川地震が発生し、またこの
断層に沿って大地震の起こる可能性の多いことを[示唆|しさ]してい
る。
 いまこの跡津川断層につきやや詳しく述べると、有峰から
大多和峠を通って岐阜県へ入り、高原川の支流跡津川の谷に
沿って下り、[土|ど]の辺りから高原川を横切った後もなお南西に
向かって延びている。
 その先はさらに宮川村巣之内付近で宮川を横切るが、河合
村角川までは宮川の北岸をほぼ平行に走り、角川で宮川に分
かれた後は、そのまま小鳥川に沿ってまっすぐに天生の西に
達し、この間全長約七十キロメートルに達している。
 この断層線に沿って小規模な磁鉄鉱鉱床が土・菅沼・稲越・
上ケ島の四か所にあるが、稼動されていない。
 今度の地震でもっとも激烈を極めたところは角川を始め、
森安・西忍・高牧・三川原で、いずれも跡津川断層の走って
いる地域で、各所にはっきりした断層のあることが確かめら
れている。つまり、この断層はこのあたりに広く分布してい
る飛驒変成岩類の地帯を走っているが、飛驒変成岩類の構造
は、この断層を境にして水平方向には右に二キロ―四キロほ
どずれている。上下の方向のずれは水平方向のずれに比べる
とわずかであるが、断層より北の部分が南に対して相対的に
上がっているといわれている。
 跡津川断層は河岸段丘が造られるような新しい時代、つま
り新生代の第四期になってからも、活動を始めた断層である
ことが確かめられている。
五 地震による被害
一 安政五年の被害状況
 安政五年の地震で吉城・大野二郡七〇か村の被害は大き
く、その内訳は次のようである。
 総戸数一二二七のうち、全壊の厄にあったもの三二三、半
壊三七七、流失四、焼失五で計七〇九。その中には土砂崩れ
で埋没した家一三も含まれている。また死者は二〇三で怪我
四五、斃死牛馬八七に及んでいる。
 山崩れが各所にあって、越中西街道は不通となり、米穀・
魚塩等輸送の要路を失った。
二 角川地震の惨状
 角川地震の被害を「県百科事典」には、次のように報じて
いる。
 吉城郡の北部、小鷹利・小島・下高原はその被害が特に大
きく、大野郡白川村はこれに次いで被害があり、全壊の民家
三一二、寺院九、半壊の民家三七〇、寺院七、死者二〇三、
負傷者四五、斃死牛馬八七であったといわれている。また道
路・橋・用水路も各所で決壊し、山崩れのため人家が埋没し
たり、川水がせき止められて水害が起きたりして、交通は全
く麻痺状態になった。
三 「河合村勢要覧」の記載
 また「河合村勢要覧」(昭和三一年度)には、この被害状
況を次のように報じている。
 今の元田小学校の地は字やな平という所の山転覆し、荒町
五戸全滅、清蔵の女おなという者一人生存せり。字立石四戸
埋没・死者五三名を出したり。現在元田小学校々庭に記念の
碑あり。
その碑文は次のようである。
震災者弔魂碑
 安政五戊午年二月廿五日夜子ノ刻、飛驒・越中・越前ニ起
リシ大地震ハ、飛驒ニテ小島・小鷹利・下高原・下白川ノ四郷
七十箇村ニ亘リ、全壊寺院九、民家三百十二、半壊寺院七、
民家三百七十、即死弐百三人、負傷四十五人、斃牛馬八十
七、就中小鷹利郷元田村ノ荒町ト立石ハ小鳥川ヲ隔テ、古ヨ
リ荒町ニ権平・長四郎・清蔵・甚蔵・源右衛門ノ五戸、立石
ニハ三郎・久三郎・喜三郎・善右衛門ノ四戸アリ、此時ヤ向
山ノ一角欠ケ飛ンデ川南荒町へ落チ、反シ更ニ北岸ノ立石ヲ
衝キテ九戸五十三人其家ト共ニ地底深ク埋メラレ、唯一人荒
町清蔵ノ女おな奇シク死ヲ免ル、震動ノ激烈思フベシ、斯ル
遺跡ノ歳ト共ニ世人記憶ノ外ニ逸スルヲ悲ミテ、元田分教場
主任塩谷吉郎河合村青年団元田支部員ト謀リ、弔魂ノ為メ此
碑ヲ建ツ
大正十二年十一月上澣 岡村利平撰文永瀬静巌書之
砂原泰一刻
六 地震による地変
一 一ノ瀬の[仰天網|てんとうあみ]潰滅
 鮎飛の集落の名にゆかりも深く、宮川の一奇観と称えられ
ていた名所「一ノ瀬の仰天網」は、幅二九間、高さ二間半の
大滝であったが、この地震により、背後の滝谷川の氾濫にあ
って壊滅し、有名だった「杉原鱒」の名も永久に聞かれなく
なった。
 一ノ瀬の大滝は大地震によって深淵になったが、その後い
つとはなしにあせ、いまは淵さえなくなった。いわゆる「滄
桑の変」を感じないわけにはいかない。
二 小豆沢道傍の大岩
 小豆沢の道傍にある巨巌は、俗称「大岩」と呼び、二キロ
メートル余の奥地にあったものが、この地震によって谷川の
押し出しにあい、ここへ転落したものである。
(坂下小学校『郷土誌』)
 大字林の家ノ下では、東西およそ三百メートルにわたり、
一メートル余陥没した。その後の耕地整理によって、いまそ
のおもかげはない。
 また前平でも地辷りが、二―三メートルに亘って起こって
いる。
 このほか各所に崖崩れがあり、亀裂があって枚挙に暇はな
く、山中の様相はすっかり変わってしまった。
九 震災余聞
 「角川地震」はおよそ、一二〇年前のことで、まだ生々し
い実感のこもった幾多の話が当地に残っている。いまそのい
くつかを記してみよう。
(イ) 安政五年二月二五日の夜のこと、森安の甚三郎(桜枝
正男家)の二男元右衛門が、たまたま隣家の彦太郎(上谷友
松家)へ遊びに行っていたが、夜も遅くなったので泊ること
になり、布団を出すのも面倒だと、そのまま一枚の布団に二
人が寝た。
 その夜大地震で一瞬の間に家は潰れた。
 びっくりして起きて出ようにも梁で押さえられて、身動き
さえできない。友達を呼んだが息絶えたか一言の答えもなか
った。
 元右衛門は何とかしてこの危機を脱しようとあせったが、
どうにもならない。自分自身に元気を付けるため、ただむや
みに大きな声を張りあげて歌を唄いながら夜明けを待った。
 夜が明けると荒凉たる中に、宮川の水はピタリと止まって
いた。これより上流の崖崩れで川を[堰|せ]いでしまったからであ
る。
 このとき甚三郎はトッサの知恵で、水のない大川を徒渉
し、野首の清左(野村勇雄家)からガンドを借りて来て梁を
切って弟を救出したが、ケガ一つしていなかったのも奇跡で
あった。
 しかし彼の友達は既にこと切れていた。
 西忍の子供は、川の止まってしまったことを聞き、珍しい
この光景を見ようと出かけて行ったが、両親は口々に、「堰
が抜けてくると、お前たちは一人も残らず死んでしまうぞ」
と酷しく止めたので、思い止まった子供もいた。
 このとき丸山の対岸長とらでは崖崩れがあり、森下清吉一
家一四人が土砂の下敷きになったときは、岸奥の嫁ケ淵まで
湛水したと伝えられる。 (西忍 都下フサ談)
(ロ) 祖母(桜枝)のお菊は弘化三年(一八四六)の生まれで、
一九歳の元治元年(一八六四)に嫁にいったが、まだ森安の家に
居た一三歳のときこの大地震に会った。
 お菊は大地震の前夜、叔父八兵衛と親戚に当たる奥八池の
与右衛門方へ行ったが、たまたま前田[碩応|せきおう]の語った地震の話
などをして、夜遅く家へ帰った。その夜、偶然大地震に会
い、家内六人八兵衛を含めて全部圧死した。
 お菊はこのとき、地震で入口が潰れて出るにも出られず、
馬屋の方から辛うじて脱出した。何気なく振り向くと、囲炉
裏の焚火の上にかけておいたモミが[燻|くすぶ]っていた。とっさに手
桶の水をかけて消し止めたが、この地震で森安七戸のうち、
市四郎(沢正躬家)の小屋が潰れなかっただけで、他は全壊
又は焼失した。 (西忍 都下フサ談)
(ハ) 安政のころ西忍の観音寺はしばらく無住のことがあっ
た。たまたま寺へ留守居に来ていた僧の前田碩応が、あると
き「時日は分からんが、近くこの地に大揺れがある」と予言
した。人々は大地震のこととは知らず「大揺れというのは何
のことですか」と聞いたが、碩応はそれきり言わなかった。
 去るに当たり吉四郎(清水梅三郎家)へ小さな愛用の鉄瓶
を提げてきて「この鉄瓶をしばらく預ってくれ。しかし私が
二度と当寺へ戻らなかったら、永久に使ってくれてもいい」
と言ったが、碩応はそれきり寺へは戻らなかった。
(西忍 都下フサ談)
(ニ) 大地震で諸堂宇が次々と大破する中で、林の磯右衛門
の家も潰れ、火気のあるのにかかわらず火災を免れることが
できた。この奇跡はひとえに秋葉権現の霊験によるものだと
感じ、尊像を背負って、[跣足|はだし]で遠州秋葉神社へお礼詣りをし
た。
 磯右衛門は、後これを洞泉寺に寄進したが、爾来毎年九月
には、秋葉祭を執行し、今日に至っている。
(ホ) 西忍の惣太郎(中谷篤松家)では、地震と同時に、母
親が二歳になる幼児を股に挾んでかばったが、落下した梁に
うたれて二人とも圧死した。
(ヘ) 震災当時西忍の名主は吉三郎(上谷繁三家)であっ
た。高山役所から役人がいち早く現地の実状調査にやって来
たが、休むに家がなかった。
 そこでさっそく名主の家を建てるよう命ぜられ、村の者は
夜なべに敷地を均し、応急の仮家を造って休んでもらった。
 当時忍村は四八軒のうち助右衛門、与右衛門、次郎八のほ
かは、全部倒壊又は焼失してしまった。
(ト) 西忍の祐念坊ではこの地震で姑の子供が圧死した。嫁
は同年の我が子の生き残ったことに酷く責任を感じ、いっそ
共々死のうと覚悟を決め、我が子を抱いて落ちて来る梁の下
でジッと待ったが、ついに梁は落ちてこなかった。
 この地震で祐念坊の鐘撞堂は壊れ、大鐘は八池ケ谷へすさ
まじい音を立てて転げ落ちた。
 また林の洞泉寺・西忍の観音寺・三川原の宝林寺も相前後
して倒壊した。 (西忍 上谷繁三談)
(チ) 大字丸山では、対岸に屹立する断崖の長とらが一度に
崩れ落ち、森下清吉一家(森下清九郎家)一四人の全員、土
砂の下敷きとなったことは前述したとおりである。
 このとき堰止めた川は、二六日の暁から二八日の正午に及
んだが、その後、徐々に減水し始めたので、下流における被
害を最小限に食い止めることができた。
 一二〇年後を経た今日、長とらの崩壊地はすっかり草木が
生えてさり気ないが、しかしなお岩肌が露出したところが見
られ、当時の凄惨さを物語っている。
 昭和二九年一〇月、森下外紀弘家の後ろに、この悲惨な思
い出を後世に伝えようと、「震災死没者追悼碑」を立て、ま
た長とらの地は村の史跡として指定されることになった。
(第五編 文化財 第八章五遺跡「震災死没者追悼碑」参
照)
(リ) 三川原地内字長とらの山崩れで、宮川は閉塞されてダ
ムとなった。一〇〇〇メートルほど上流宮川左岸にあった高
牧の山下左衛門四郎の板倉は、このため浮上し流れ始めた。
階下に入れて置いた籾・稗・粟などの穀類は、浮游中にこと
ごとく流失してしまったが、板倉はダムの逆流に乗って祐念
坊の下まで流れて行った。
 三日後堰堤になっていた土砂が崩れ始めると、徐々に減水
し、倉庫もだんだん下流へ押し流されていった。
 山下家では、何とかしてこの倉庫が我が家の方へ舞い戻ら
ないものかと、一心に神仏に祈った。
 ところが不思議なことに、その倉庫は元の屋敷に漂着する
と、正確ではなかったが大体元の土台石の上に座ったのでホ
ッとした。
 山下家では、これは一重に神仏の加護によるものだとして
喜び、元の台石に乗せて復元した。
 しかし漂流中、平家の落人の持物と言われ、祖先より伝え
て来た太刀と槍は流失してしまった。
(高牧 山下政雄談)
(ヌ) 山岳における主な崩壊は八か所に達したが、そのほと
んどは地震のもっとも激しかった角川・森安から三川原に至
る間で、前にも述べたように跡津川断層に沿う細長い地帯に
集中していた。
 このため丸山には崩壊の土石が、今も河中長く帯状に広が
り、当時のすさまじさを物語っている。
(ル) 光明寺がまだ戸谷字上ノ平にあったころ、寺の上手の
山が崩れ落ち、南家を押し潰し、土石流は母と娘いちの寝て
いるところに達した。
 しかしこのとき幸いにも仏壇が倒れかかり、スッポリ頭を
おおったので、わずかの隙間から娘のいちは、奇跡的にもは
い出ることができた。しかし母は半身土砂に埋まり、身動き
さえできなかったが、しきりに娘の身の上を案じ、余震に震
えながらも、「いちよ、早く逃げよ……」と叫び続けながら
息が絶えた。
 いちは、終生断末魔の母の慈愛こもるこの叫び声が、頭か
ら消えなかった。 (和泉清一談)
(ヲ) 桑野の中川次郎兵衛家では、たまたま当日は法要のた
め、僧侶を始め親戚多数が集まっていたので被害は大きく、
小僧のほかに三人の死者を出した。
 家はすっかり倒れ、またたく夜空の星を数えることができ
たのも印象的だった。
 このときウシ(棟木)のホゾが折れ、いつまた落ちてくる
かも知れなかったので、決してその下へ行ってはならんと戒
められたものだと、祖父が語った。 (荒木寛雄談)
(ワ) 旧坂下方面では、倒壊した家は祢宜ケ沢上では長久
寺・小倉・新家の三戸、杉原では水上・中島及び伝四郎家の
三戸、巣納谷では上出、桑野では中川、戸谷では南の計九戸
であった。
 このため人畜の被害もまた大きく、長久寺住職物外全堤和
尚と、同寺の小僧は、背後の山が突然崩壊したので、避難す
るいとまもなく、寺院とともに埋没した。
 後に和尚の死体を掘り出し、改めて火葬に付したが、他は
地底深く没したまま掘り出すことができなかった。
 寺はその後文久二年(一八六二)現在の字野中地内に再建され
た。
 このほか新家助重郎方では、八・熊の二男子もまたこの犠
牲となり、杉原では水上家で死者二名を出した。
 巣納谷の上出家(上出義雄家)では、家族の亀次郎が逃げ
おくれ、家の倒壊によって梁の下敷きになった。
 このため必死になって救援を求めてもがき苦しんだが、折
から襲う強震のため、だれ一人これを助けに行くことができ
なかった。たまたま囲炉裏から発した火事は猛烈を極めたの
で、声を限りに叫びながら焼死した。
(カ) 当時の地震は連日にわたって余震があり、山崩れがあ
ったので、人々は家にも帰られず、地割れを恐れて竹やぶに
逃げ込み、また廐の大戸を敷いて兢々として日を過ごした。
(ヨ) 古老は地震の経験を通して次のように語り伝えてい
る。すなわち地震を感知した刻限により、それぞれ次のよう
なことが発生する原因となるので、特に注意しなければなら
ないというのである。
五ツ・七ツ(午


八時、午


四時)=大雨。
四ツ(午


一〇時)=日照り続く。
六ツ・八ツ(午


六時・午


二時)=大風。
九ツ(午


一二時)=悪疫流行。
 人々は被害の大きかった直後だけに、こうした教訓をおそ
れ、中には民謡にしてこれを信奉する人々さえあった。
〽四ツ日照り、五七の雨に九は病、
六ツ八ツなればいつも大風。
一〇 その他の地震資料
 次に坂下村役場に記された「村誌」より、安政地震に関係
ある分を摘記しよう。
(イ) 安政五年大災害
一二月二十六日夜九ツ半(午前一時)より八ツ半(午前三時)
迄最も甚しき大地震、但引き続き四、五日も相当大きなる
ものあり。被害甚大、人家沢山倒壊、通行途絶、河水停止
せり。坂上・河合両村も被害甚大。
 桑野の中川次郎兵衛は全潰、たまたま当日法会の為僧侶親
戚集り居たるため小僧一人、杉原中島祖父外に三人程死亡。
(震災の模様は禰宜ケ沢上の祖父小倉市右衛門より聞き記載
せり)
(ロ) 『飛驒編年史要』による記載
 安政五年二月二六日、暁、飛州大地震、就中吉城郡の西山
中・東山中激甚にして、下白川郷之に次ぐ。総計被害村数七
〇ケ村、潰家七〇九軒(内埋没一三軒)、即死二〇三人、斃
牛馬八七、山崩に依て河流を[壅塞|ようそく]せし所あり、越中街道は、
東西中の三線とも決壊して交通全く途絶す。仍て郡代所は郷
倉を開て難民を救助し、百石五粒法の蓄穀初めて効用をなす
といふ。
 是歳、幕府、飛州地震災復旧工費を立替、明後申年より向
一〇ケ年賦、国中[余荷|よない]割にて返納せしむる事となす。
(ハ) 北飛驒方面の災害を一括記録すると、次のようであ
る。
1 宮川村における被害
地域別現在安政年度家数人数全潰半潰即死怪我人牛即死牛怪我備考
小谷小谷
大無雁大無雁二四一六四四往還欠所
落合落合一二八六二二田畑往還欠所
植木場損所
岸奥岸奥四二八一〃〃
野首野首一〇七一七三〃〃
林林二七一三九一五一二(内寺一)二一三〃〃
牧戸牧戸九六九三六〃〃
丸山丸山七五一四二二六三三〃〃
巣之内巣之内八四三二六三一一〃〃
種蔵種蔵二三一五一六一八二〃〃
菅沼菅沼一一八一三九三一〃〃
三川原三川原二六一二九七一五七六三四〃〃
高牧高牧九七五六三三五四〃〃
西忍甲西忍乙西忍四八二七九四三(内寺二)(内焼失二)五一二一三〃〃
森安森安五三八五三二〃〃
打保打保三七二二〇四二八〃〃
戸谷戸谷一六九七二一〇(内寺一)一
桑野{桑ケ谷一一九四一六三二
小野六四八一
杉原杉原二二一六七七(内寺一)一五七一二郷蔵一ケ所皆

小豆沢小豆沢一七一一〇一七口留番所皆潰
巣納谷巣納谷一五一〇八五(内焼失二)六四二木地挽小屋一
皆潰即死三
祢宜ケ沢上祢宜ケ沢上一四一〇七五(内寺一)九四板小屋一皆潰〃〃
中沢上中沢上四三五一〃 一流失〃〃
塩屋塩屋一五九八一七山崩谷川押出田畑損地
洞洞
山之山二二一一
加賀沢九六八九
鮎飛
合計三九一二五七七一三二内寺四焼失四一九〇内寺二七六二〇三六七
備考 小谷、洞、鮎飛は資料がないため被害の有無不明。
2 河合村の被害
村名区分家数人別全潰半潰死者怪我人斃死牛馬備考
角川九八五八七四二(一)三五二三四一二
元田四〇二六六二七一三五六一四一三
新名一七一一四九七(一)二一八
上ケ嶋八五八六二二一
羽根一一一一二九二(一)五四三番所皆潰
保木一〇七一九一三二三
有家林八四五六二一
小無雁一四一一九二
稲越六四四一八三一一
天生一二九一八四三四三
中沢上六五六六七三六
有家一六一〇九八八一〇二
計 一二三〇四二〇四六一三三(一)七六(二)一二二三四(ママ)四九
3 下高原方面の被害
村名区分家数人別全潰半潰死者怪我人斃死牛馬備考
左古一四八九一四二番所全潰
跡津川二二一四八三(流失一)一六二
大多和六三五三三
土四二九四
鹿間九六七九
割石一六九一一六
吉ケ原一三一一
二ツ屋二一二二
東漆山一二九二一二
牧五三三一四一
西漆山二八一五六一三㊀(一)一五五一
杉山一〇六八一〇
横山一四八七一〇番所半潰
茂住三九二七一二三四(一)一番所全潰
中山一九一〇〇一一(一)
谷六四〇一(一)
計 一六二〇七一三二一三八一三七九二二
4 白川方面の被害
村名区分家数人別全潰半潰死者怪我人斃死牛馬備考
保木脇六五二六
野谷三二六二(一)一
大牧一三一一〇一三
荻町九二六二〇三七(二)四四
嶋七六四一四
牛首五五一一四
鳩谷一八一〇九四
飯嶋四九三六七一〇
大窪二二六一
馬狩五六三二三(一)
長瀬一三二三七一〇(一)
木谷七一四九三
計 一二二二〇一八七四六〇(三)八六(二)〇〇〇
合計 四〇七三一五二四一二三一二九九一三一三六五一
備考 合計は表2、3、4の合計で『県百科辞典』と合わないところがある。
以下安政五年の大地震資料を一括して掲げることにする。
飛州村々地震ニ付相続拝借、年賦返納の義伺書
潰・焼失・流失家三百十五軒

十一軒 潰家人別不残圧死、相続人無之分除之
四軒 村役人、並身分宜分除之
残潰・焼失・流失家三百三軒
私代官所
飛州吉城郡稲越村外三十五ケ村
一金二百二十七両一分 但一戸ニ付金三分ツツ
地震相続御手当拝借

去午当未二ケ年延、翌申より子迄五ケ年賦
一ケ年金四十五両一分、永二百文ツツ返納の積
外金七百七十二両三分
地震ニ付、国中余荷普請御取替金、
年賦返納の積別件を以相伺候分
右ハ、私御代官所飛驒国の儀、去午二月廿六日暁地震ニて国
中一体とは乍申、就中越中国え隣候場所最甚敷、一円ニ山
崩・洞抜いたし、巌石震落し、田畑損地・潰家・焼失家・圧
死・怪我人等夥敷、或ハ川押埋・水湛・家居入水・流失等い
たし、住還破損隣村えの通路も容易ニ難出来、然ル処飛州
ハ山国ニて、長三十里余、横二十里余有之候得共、高ハ纔
五万石余ニて、田畑ハ谷間・川添等ニ少々ツツ有之候迄ニ付、
国民の夫食六、七分ハ隣国より買入、別て右変災村々ハ極山
中、土地出生之穀物ハ十分之一ニ而、其余ハ不残越中国より
買入、相続仕候義ニ御座候処、前書の次第ニて、 一切入来
無之、自然数万の人民及飢候もの出来候てハ、不容易義
ニ付、其砌私義郡代被仰付未郡村を不請取候得共、不
取敢手附・手代差出、私儀も罷越、通路切開窮民救方取計
候様仕度旨相伺候処、伺の通御下知相済、去午四月中当国え
相越、手附・手代・地役人等附置、直様普請為取掛、飢民
共えハ、天保十二丑年中豊田藤之進伺の上、村々高掛出金を
以、年々買入相囲有之候、飛州一国凶年手当囲籾の内、割
渡飢渇ハ相凌候得共、家作を始、家財農具とも悉破損焼失・
流失等いたし、小屋手段も無之段申立、御手当相続拝借相
願、事実相違無御座候間、先て(ママ)伺之上、窮民救方手当通
筋切開入用等の内え、大積金千両御金蔵より請取候内を以、
書面の通貸渡、返納の義吟味仕候処、去午より戌迄五ケ年
延、翌亥より卯迄五ケ年賦被仰付度段、相願候得共、御時
節柄右体長年季申上候ハ恐入候儀ニ付、年季引縮返納可仕
旨再応利害申聞候処、然ル上ハ去午・当未二ケ年延、翌申よ
り子迄五ケ年賦返納被仰付候様仕度旨申立、実ニ稀成変災
ニて、前文の通家財農具ニ至迄、悉破損焼失・流失等いた
し、剰田畑過半、山崩石砂入等の損地ニ相成候間、急々返納
難仕段無余儀筋ニ御座候間、願の通返納被仰付候様仕
度奉存候、於然ハ前書金二百二十七両一分御蔵え手形入直
し、去午年御金蔵御勘定元払ニ相立、来申年以来年賦割合の
通取立相納、其年々御金蔵御勘定元ニ組仕上、返納皆済の節
納札を以、此度の入手形引出候様、御証文可被下候、依
之此段奉伺候 以上
安政六未年二月
増田作右衛門㊞
御勘定所
(指令)
表書の飛州吉城郡村々地震ニ付、相続御手当拝借年賦返納の
儀、伺の通令承知候、於然ハ書面金二百二十七両一分、
御金蔵え手形入直し、去午年御金蔵御勘定元払ニ相立、返納
の義ハ去午より二ケ年延、申より来ル子迄五ケ年賦書面割合
の通取立之相納、其年々御金蔵御勘定元ニ組仕上、返納皆
済の節納札を以、手形可被引出候、断ハ本文ニ有之候
以上
押切
登一郎 未四月

 余荷普請の伺い金七七二両三分は、当未一か年延申より戌
迄一五か年賦を、当未より申迄一〇か年賦に訂正指令した。
困窮村々御手当御仕法金拝借証文の事
飛州吉城郡種蔵組
丸山村
一元金弐拾九両 種蔵村
此利金四両壱分永百文 巣之内村
合金三拾三両壱分永百文
当午年ハ無利息、来未年・申弐ケ年ハ元金弐拾九
両へ掛候
年五分利金相納、来ル酉より元利五ケ年割済ノ積

外金弐両三分永百五拾文
未申弐ケ年御貸居利金ノ内
此納訳
未年分
利金壱両壱分永弐百文
申年分
利金壱両壱分永弐百文
酉年分
金六両弐分永百七拾文

元金五両三分永五拾文
利金三分永百弐拾文
戌年分
金六両弐分永百七拾文

元金五両三分永五拾文
利金三分永百弐拾文
亥年分
金六両弐分永百七拾文

元金五両三分永五拾文
利金三分永百弐拾文
子年分
金六両弐分永百七拾文

元金五両三分永五拾文
利金三分永百弐拾文
丑年分
金六両弐分永百七拾文

元金五両三分永五拾文
利金三分永百弐拾文

右ハ、飛州一国困窮村々御手当御仕方金拝借奉願候処、書
面の通被遊御貸渡、難有[慥|たしか]ニ奉請取候処実正御座候、
返納の義ハ年々十二月十日限、書面割合の通急度上納可仕
候為後日拝借証文奉差上候処、仍て如件
安政五午年八月
飛州吉城郡丸山村
百姓代
忠兵衛 ㊞
巣之内村百姓代
孫十郎 ㊞
与頭
孫七郎 ㊞
兼帯
同村名主
弥右衛門 ㊞
高山
御役所
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻4
ページ 92
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岐阜
市区町村 宮川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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