[未校訂] 次に安政元年の地震は六月と十一月の二回であったが、十
一月には二日続いている。
六月十四日は丑の刻(夜二時)及び午の刻(昼十二時)に
起り、伊勢、伊賀、大和を中心にして近畿の各地に及んでい
る。被害の最も激しかったのは伊勢では北勢地方で、桑名町
は少かったが桑名、員弁、三重の三郡で、家屋の全壊百三十
七戸、半壊二百五十一戸、死者二十六人を出している。多度
では福永の万伝寺の本堂が倒潰し、民家の被害も多かった模
様である。
此の時四日市では倒壊家屋三百四十二戸、焼失六十二戸、
寺院が十一ケ寺倒れ、死者百五十七名、また北町遊廓では遊
女達が逃げおくれて多数圧死したことも記録にある。
此の地震で最も悲惨であったのは、伊賀の北部で、山崩
れ、土地の陥没や隆起などが随所にあり、上野城内の東西大
手門、本丸など悉く崩れたため城内で圧死した家中の士女は
約二百名、上野やその附近村落の倒潰家屋二千七百戸、半潰
約四千六百名、負傷者一千名で、更に火災も各所に起ってい
る。まことに生地獄を現出して悽惨を極めたことであったろ
う。