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項目 内容
ID J1600145
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔三重県多度町史〕S38・10・15饗庭義門編・多度町教育委員会発行
本文
[未校訂] 次に安政元年の地震は六月と十一月の二回であったが、十
一月には二日続いている。
 六月十四日は丑の刻(夜二時)及び午の刻(昼十二時)に
起り、伊勢、伊賀、大和を中心にして近畿の各地に及んでい
る。被害の最も激しかったのは伊勢では北勢地方で、桑名町
は少かったが桑名、員弁、三重の三郡で、家屋の全壊百三十
七戸、半壊二百五十一戸、死者二十六人を出している。多度
では福永の万伝寺の本堂が倒潰し、民家の被害も多かった模
様である。
 此の時四日市では倒壊家屋三百四十二戸、焼失六十二戸、
寺院が十一ケ寺倒れ、死者百五十七名、また北町遊廓では遊
女達が逃げおくれて多数圧死したことも記録にある。
 此の地震で最も悲惨であったのは、伊賀の北部で、山崩
れ、土地の陥没や隆起などが随所にあり、上野城内の東西大
手門、本丸など悉く崩れたため城内で圧死した家中の士女は
約二百名、上野やその附近村落の倒潰家屋二千七百戸、半潰
約四千六百名、負傷者一千名で、更に火災も各所に起ってい
る。まことに生地獄を現出して悽惨を極めたことであったろ
う。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 144
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 多度【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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