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項目 内容
ID J1600020
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔鈴木平九郎公私日記 十七〕○武蔵国柴崎村(現立川市)S57・3・30立川市教育委員会
本文
[未校訂]七月廿五日
快晴残暑つよし○普済寺方丈鎌倉ゟ帰山之所当春中門前百姓
共訴訟中雑用弐両也天源庵ニ而立替之分壱両ハ普済寺ゟ恵ミ
遣し壱両ハ百姓共ゟ出金早々差越候やう取計ひ可呉旨同庵ゟ
平九郎宛ニ而書状来ル
△当六月中勢州大地震の評判は其砌直ニ承るといえとも遠境
区々の噂に付記録延置候所此節勢州来状之写
当六月十三日昼九ツ時ゟ伊賀上野之城下大地震ニ而人家不残
ゆり潰し同十四日夜八ツ時ゟ伊勢四日市大地震ニ而出火いた
し即死怪我人数不知しかし内越ゟ南は無難是偏ニ 内外之御
宮之御利益かと諸人謁仰□
一勢州四日市七分之荒ニ而人家三千四百五拾軒即死怪我人六百九
拾人
一追分神戸白子石薬師塩(ママ)野亀山坂之下当時往還衆人馬継立な

一奈良七分家数弐千八百軒人数四百人余
一勢州古市九分人家四千五百軒人数六百七拾人
一上野城下家数四千軒人数八百八拾弐人
一初瀬人数四百人余
右之通此外未タ相訳(ママ)との文面ニ而江濃尾州辺之事ハ未タ実事
不相知といえとも松坂辺ハ七月中旬ニ至迄毎日十四五度之大
ゆりニ而家内之住居出来す往来ニ小屋かけいたし仮住居のよ
し冨田氏ゟ申越此地震六ケ国とも又八ケ国共申評せり
(閏七月)
廿四日
○勢州其外地震も殊之外大荒ニ而先年之信州ゟは増り候との
事也
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 52
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 東京
市区町村 立川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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