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項目 内容
ID J1500297
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔藤沢―わがまちのあゆみ―〕○藤沢 S58・10・1児玉幸多編・藤沢市文書館発行
本文
[未校訂]〈地震・火事・病気〉
安政二年一〇月二日のいわゆる安政地震は直下型の地震
で、関東では元禄地震と並ぶ、大きな地震の一つに数えられ
る。とくに江戸は震源地でもあり、住宅が密集していたから
家屋の倒壊や火災で亡くなった人も多かった。地震の影響は
相模国にも及んだ、藤沢宿では家が多く倒れ、死者も出た。
遊行寺の日記(藤沢山日鑑)にはこの日夜明まで一八、九回
もゆれたと記されている。熊本藩[預所|あずかりしょ]では、村々に地震の
被害届(家屋倒潰や牛馬の圧死等)を提出させるとともに、
上宮田(現横須賀市)にあった陣屋が倒潰したため、その修
理のための大工や左官職の動員令を出している。当時、熊本
藩の預所であった宮前・小塚・弥勒寺・川名の諸村にはこの
通達が来ている。しかし小塚村より預役所へ提出した被害報
告では大した損害はなかったようである。安政地震により江
戸の旗本の屋敷も相当な被害をうけた。羽鳥村でもこの年一
二月、領主である旗本小笠原氏の要請により、屋敷修理用木
材調達のための御用金を提出させられている。ほかの村々に
おいてもそうした臨時の御用金の提出を命ぜられたであろ
う。幕府側でも、この地震復興対策として、治安維持や物価・
作料手間賃などの抑制令を出し、村々より被災民救済のため
の米麦の供出を命じている。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-2
ページ 1789
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 藤沢【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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