[未校訂] 安政二年の大地震 江戸時代二百六十余年のうちで、最も
大きな地震として記録されているのは安政二年(一八五五)
の地震である。
十月二日夜四ツ刻(新暦にあてはめると十一月十一日午後
十時頃)、江戸近郊一帯に何の前兆もなく、突然鳴動と共に
激しい震動が起り、江戸の市中はもとより江戸城の内外が損
破し、諸侯、旗本の屋敷及び市民の家屋の大半が相ついで倒
壊した。しかも三十余カ所から火災が発生したので江戸の市
中は大混乱におちいり、かつてみない大きな被害をもたらし
た。
この地震の規模について『東京の震災』(東京消防庁)で
は「マグニチュード六・九、震源の深さは三〇キロメートル、
震度六の分布の中心は現在の足立区の千住付近で、江戸直下
に発生した代表的な地震」と言い、『理料年表』(昭和五十年)
では「江戸とその東、径二〇キロメートルの範囲に被害大、
山手で被害少なく、下町被害大」としている。
「町方書上」(『安政の江戸地震災害誌』東京都)によると江
戸の被害は死者三八九五人(四六二六人とも算出されてい
る)、重傷者千九百余人、家屋の倒壊一万四三四六軒(一七
二四棟)、土蔵の倒壊一四〇四カ所とあり、しかもこれには
武家の分が含まれていないので、これを加えた死者は約七千
人ないし一万人といわれている。「震災予防調査会報告」で
は、「江戸の内にて震害の甚しかりし地方は深川、本所、下
谷、浅草等にして、名主よりの届出によれば、深川にては変
死者八百六十八人、本所にては三百八十五人、下谷にては三
百七十六人、浅草にては五百六十六人なりき」とあり、土地
の堅硬な山手方面や、日本橋、京橋、新橋方面は比較的軽少
な損害ですんだが、浅草、下谷から本所、深川のいわゆる墨
東地域の被害は非常に甚大であった。このように被害の中心
は町家が密集していた深川、本所、日本堤であるが、例えば
亀有付近では「田畑の内小山の如き物一時に出き、側に大な
る沼の如きものを生じたり」、あるいは「逆井辺にて土中裂
け、七石余の麦土中へ落入て出事あたわず」(「武江地動上」)
と記録され、この付近の震動の激しさをうかがい知ることが
出きる。また余震は八〇回にも達し、十一月初旬になってよ
うやくおさまったという。
この地震における当地方の被害の模様は、前述したように
当時桑川村の名主であった宇田川保章が地震の直後、現に見
聞した出来事を克明に綴った「震災記雑話草」の中の「安政
二乙卯歳地震之記」によって知ることが出来る。これは地震
より一カ月後の十一月に記されたものであるが、その全貌を
巧みに、余すところなく表現しているので、貴重な郷土資料
の一つとなっている。(注〔震災記雑話草〕の原文は「安政
江戸地震災害誌(上)」S45ころ、東京都発行を参照のこと)
標題には「震災記雑話草」とあり、初めに「安政二乙卯歳
地震之記」を記し、ついで地震の前兆について触れ、更に
「子孫に付言を為す」という家屋の建築や修理に関する一説
をかかげている。
なお本書は漢文で書かれているが、ここでは意訳してかか
げることとしよう。
安政二乙卯歳地震之記
(桑川町・宇田川高太郎氏所蔵)
冬十月二日壬辰、朝小雨、昼午時(午前十二時頃)[歇|や]む。
夕時[霽|は]れ、同夜空に叢雲旋転して纏い甚だ[暗黮|あんたん]たるもので
あった。その雲影は怪異で[懼|おそろ]しく、亥の時(午後十時頃)
過ぎ突如大地震が襲い、大地の沸騰する事三、四度、まさ
に獅子の[奮迅|ふんじん]するが如く、亦波濤の激するに似ていた。
時に予は未だ寝に就かず書見中であったので、[起|た]って灯
火を囲み護ったが、容易に足が定まらなかった。而して[終|つい]
に灯火を保つことが出来ず、暗黒の中に家族は小座から裏
庭に[遁|のが]れた。瞬時にして東隣七左衛門宅が[摧壊|さいかい]し、西隣の
両屋亦斜に倒れ、医王山の[庫裡|くり]も西に傾き、[向拝|こうはい]・廊下顚
倒し、瓦壁破落して其の響き[凄冷|せいれい]を極めた。
自宅庭前の地[裂|さ]け、東西へ九通り幅五、六寸より壱寸(ママ)、
広きは足を踏込み、深さ測り難く、台所の方二筋は赤砂泥
水が湧出して、[恰|あたか]も荒[砥|と]で錆を[研|と]いだ水の如く、夫より南
は青砂[潢潦|こうりよう](水たまり)沸騰して、しかも庭中さながら雨
後の如くであった。
しかしながら居宅に破壊の患なく、地形小裂し、宅の中
央で牀下南北へ開く事壱寸五、六分、門の東柱南に傾き、
薪小屋が破損したが、其の余は[庇|ひさし]・物置等に[恙|つつが]なく、家族
は梨園に退き、樹下に古幕を垂れ、[菰莚|こえん](菰や莚)を以て終
夜風霜を凌ぎ、隣家の婦女子も[奔走|ほんそう]し来って倶に[蹲踞|そんきよ](う
ずくまる)する有様であった。
西の方江都を[顧望|こぼう]すると猛火炎々天を[覆|おお]い、ひたすら災
患を[恐懼|きようく]して、唯東方の白み明くるを待った。隣家の井水
は[湧盈|ようえい](湧きあふれる)したが、自己の井水の増すことが
少い等一様でないことは、地裂の有る故かと思われる。そ
の夜更に震うこと大小二十一度、中頃に至って一度強く震
い、その後は徐々にして数多かった。以後引続いて日々動
揺すること昼夜概して四、五度、その中七日酉の刻(午後
六時頃)、十二日未の刻(午後二時頃)の両度は余程甚し
く、十三日頃から隔日、若しくは両日無事の日が有った。
しかし月を越すも余震は時々有った。且、翌三日宅に宿し
ても[危殆|きたい](あやういこと)を感じ不安であった。因って稲
荷明神の社地に[苫藁|せんこう](苫や藁)を以て仮小屋を覆い、[卜居|ぼくきよ]
すること半月余、十七日夜に至って漸く居宅に還り、はじ
めて枕を高くし、安んじて寝食をしたが、同夜風雨雷鳴が
あった。鎮守本社(第六天社・現桑川神社)并神明社が[翻|ほん]
[覆|ぷく]し、村家に[挫潰|ざかい]七軒、斜倒数三十余屋を出したが、幸に
して人数に恙無きを得た。同じく当所生産の男女で、江戸
へ嫁し、或は他に住する者も有って、挫潰焼亡の天災に遭
ったが、しかもよく苦難を遁れ、身体皆猶村住の者と同様
に無事であったことは、是正に鎮守尊神が出現して、[擁護|ようご]
成し給いし事[顕然|けんぜん]である。洵に深く尊信致すべきである。
社頭の翻覆も[異|あや]しむべきでない。凡意を以て、神慮を書す
るは畏れ有りと[雖|いえど]も、[庸人|ようじん]愚人をして迷うこと無からしめ
んと欲して、[敬|つつし]んでこれを欽書するものである。成人の記
して云うに「赫たり乎、神威[里閭|りりよ](村里)を鎮め、[巍然|きぜん]たる
霊徳は生民を育つ」と、[宜|むべ]なる哉、この言を[崇|とうと]ぶべきであ
る。
当村は格別の変地はなく、昔年鎮守の社地に井水を求め
ようとして、両三度試みたが成らないまま[意|つい]に埋めてその
場処も不明であったが、当地震の後に至り、その地上に自
ら水溢れ井と成った。先に井を求めて地を[穿|うが]ってから歳を
数えると三十年前、即ち文政九丙戌の春のことである。
畑地・道路等低く窪み、田地の堆く成った所が数処あっ
て、高低共[概|およ]そ五、六寸程度である。称宣寺境内、権左衛
門屋敷の両処は地裂が強く、養水路は境ノ宮から西百歩の
堀中に泥砂が震出して清水となった。特に梵音寺脇[圯|い]橋か
ら西百三十歩の同堀中は小堤を築いた如くであって、満潮
に及ぶと水は細流する位である。而してその外川河溝堀共
一般に高低と成った。予が庭前も地裂の筋に因って地が窪
み、高低一、二寸を生じた。
或家の婦人等両三名湯屋からの帰途、予が梨園の東で此
の地震に遭い、[裳|も]をかかげて奔走しようと欲したが、足を
踏むことが出来ず、翻倒して起てないので、[匍匐|ほふく](這うこ
と)して漸く薛垣(垣根)に執り付き、屈居して万歳楽を
唱したが、地震はいやが上に強く、溝堀は激して肩から頭
上に注ぎかかることが甚しく、全く驚嘆して死地に入る思
いで、一心に念仏を唱しているうち、辛じて地震はやんだ
が、更に生きた気もしなかったという。
当地震は東西に厳しかった故に、河溝の南北に通ってい
るものは、泥水が激して道路に揚ることが[夥|おびただ]しかった。
尤も処によって一様でなく、小島十五面は震軽く、宇喜田
辺も同じく軽かった。松葉前津等は地裂の幅尺余も有って、
又堤外は場所によって地の窪むこと五、六寸、潮の満干に
よって之を計るに、海面高く地は低くなった。新川北方二
之江・船堀夫より上郷筋は甚だ強く、即死怪我人等も多数
有り、平井辺は場所によって地裂の幅二、三尺、水の沸騰
すること道路で膝に及び、津浪かと疑い、奥戸・新宿駅(共
に葛飾区)最寄は特に強く、挫潰死亡も多かったという。
この条は下平井村正田口氏の話である。
領中寺院の破壊多く、医王・海宝両山の宝塔・経筒より
皆震落し、台石は無事。近里の寺々石塔も皆倒れ、この土
地[開闢|かいびやく]以来の大地震であった。しかし幸に予の親族・知己
の者倶に聊も恙無きを得た。その夜海中・川筋等も穏かで
津浪の[患|うれい]も無かった。
往時田場であったものを埋め、[地形|ちぎよう]を為し、家屋を建て
たものは必ず[摧壊|さいかい]が多かった。尤もこれは地形の[剛柔|ごうじゆう]等に
も因ることであろう。
御府内和田倉御門内、その外桜田内馬場先内外辺諸侯方
の長屋向は勿論、御殿等も覆倒し、その上焼失の諸侯方も
数十家あった。北は吉原・猿若街辺一帯も挫壊焼失し、本
所深川も同断で特に甚しく、両国橋向・日本橋辺は軽く、
又下谷小川街辺は強かった。其の余の街々も震の軽重それ
ぞれであるが、書する暇なく、わずかにその一、二を[撮|と]っ
た次第で、火災も処々に燃起り其の数三十許りであった。
江戸死亡の人数は、諸宗本寺から書上げた数が拾壱万九
千八百余人とある。武家御屋敷方は右の数に入れてない。
尚[紛擾|ふんじよう](ごたつきさわぐこと)の際とて[棺槨|かんかく](棺おけ)の
売買ができず、天水桶或は砂糖桶の類からその外[葛|つずら]籠又は
菰を以て覆い、貴賤の差別も無く寺院へ送って埋め、或は
御屋敷方には焼死者数百人をそのまま寺へ数車積送るとい
う有様であった。
当地震は実に俄かに地沸騰して、夫れ地震というや否や
[頃刻|けいこく](しばらくの間)にして家覆倒し、外へ出ることも成
らずして潰れたにもかかわらず、人数に恙無き者が有った
等は、誠に神仏の擁護というべきである。又自家を走り出
して他屋が倒れ、或は土蔵の壁・庇が破摧し、この為[押挫|おうざ]
する所なくて即死し、又柱梁の挫挾する所となって抜出す
ことが成らず救助を呼叫する声に天地を[冥|くら]くし、自他の急
難は救助したくも人が無く、[須叟|しゆゆ](わずかの間)に猛火の
燃え来って焼死する者の悲嘆[号泣|ごうきゆう]の声凄冷を極め、誠に聞
くに忍びなかった。その子が焼亡するも親は是を救うこと
が出来ず、親が焼亡するも子は是を助けることが出来なか
った。鳴呼、是親子哀戚の情、[固|まこと]に[痛哭|つうこく]を禁じ得なかっ
た。
乙卯仲冬 保章
(注)江戸の死亡者が十一万九千八百余人とあるのは、
地震直後の混乱による流説の一例を物語るものであ
ろう。
これによって桑川村はじめ付近村々の被害の模様や悲惨な
震災の実相を知ることが出来よう。震災記は一応以上で終
っているが、その後に地震の前兆について述べ、更に「子
孫に付言を為す」として家屋の建築と地震について詳細に
書かれているのでそれも併せて左に掲げ参考に供しよう。
私云、地震は暴浪の起つ如く、高低通路がある。地高く
沸騰する処は顚倒が多く恐れねばならぬ。低所は破壊が少
なく、又横に動く場合は摧破も少ない。大地の沸騰する場
合は亦破壊が多く戒めねばならない。夫れ大空に浅黒い雲
が四方から起り、その雲旋転して畳々、その雲形怪異にし
て懼しく、日月明星等を[纏繞|てんじよう](からみつく)し、[竟|つい]にこれ
を覆う時は地震の心得を致すべきである。
当乙卯歳夏秋の季に雨数々あって利根川(江戸川のこと)
の大出水が五、六度あった。
子孫に付言を為す
自宅は先祖が補い[繕|つくろ]ったものである。此の土地の家作り
は、往古は一体に土中へ柱を掘込んで建てる風土の処で慶
長年中(元年―一五九六)、当家が此処に柱礎(家を建てる
時その下に敷く石)を置いた初めであって、其の節隣里人
人が、果してよく保つだろうかと見物が群集したといい伝
えている。
其の頃颶風数々起り、家屋を倒し、樹木を抜く災患があ
った。此のため寛永年間(元年―一六二四)に軒丈弐尺を
切下げた旨の記録がある。猶颶風のため延宝(元年―一六
七三)・天和(元年―一六八一)の頃、数々凶歳があった。
此のため税減納の御割付があった。当時暴風があったと言
っても、古の風勢の如く激しいものではなかった。従って
減税に相当する程の災難というには当たらなかった。昔時
を考えて思慮すべきである。
又、元禄(元年―一六八八)・宝永(元年―一七〇四)
両度の大地震も無難であり、ついで当節の震災にも恙なき
を得た。且宝永年中、西家の火災があり、又明和(元年―
一七六四)には東隣の家の火災が両度あったが、両度とも
幸に免れ得た。このように度々の患難を無事に克服したこ
とは、実に堅固の家屋と賞すべきである。今後子孫に至っ
て、間取直し等の場合軽々しく柱を抜取ることがあっては
ならない。旧来の居宅、先規の形相をよく守って修復を加
え大切に住むべきである。
但し、座敷・間取器用を好む時は別棟に補理することが
大切である。数寄屋・書院等は格別として、住宅は柱太く、
軒低く、屋根は厚くしないことで、農家は農家の古風がよ
い。柱細く軒高く華奢なのは好ましくない。厚屋根、二階
造、或は指鴨居の幅広、[蔕|ほぞ]穴の大きいのは、地震に保つに
はよろしくない。此の類の建方は今度も破壊が多かった。
又二階建、瓦屋根、付庇し等は地震の心得を以て入念丈夫
に営むべきである。已むを得ない場合は細柱を数多く建て
るべきである。梁木が太く柱に勝つものはよろしくない。
又とかく屋根の軽いものは破損が少ない。
此条は当節の地震を眼前にして感ずるところを様々に書
き記したものである。
乙卯十一月 保章
(「震災記雑話草」)
以上の記録によっても当地の被害がいかに大きなものであ
ったかがわかるが、次に笹ケ崎村の「地震一件御用留」(北
篠崎町・須原義夫氏所蔵)によって被害を数字の上からみて
みよう。
笹ケ崎村の総家数は四八軒で、人数が二四五人、内男一二
三人、女一二一人、出家一人であったが、このうちで[皆潰家|みなつぶれや]
が八軒、半潰家が一三軒、半潰物置が一二カ所、半潰寺が二
カ寺、怪我人六人、内男四人、女二人という被害を出した。
つまり約半数の家が全半潰したのである。
また「震災ニ付門末届帳」(東小岩二丁目・善養寺所蔵)に
は善養寺及び同門末寺院の被害状況が記されており、他の地
域の被害も推測出きるので次に掲げておこう。(注、〔中茎武
雄氏解読文書〕参照)
安政二年の大地震には、小屋掛補修の手当、つまり家屋修
理費として、一軒につき金壱分から三分を貸与され、その返
済は翌三年から十カ年賦となっている。ちなみに、この時の
笹ケ崎村の拝借高は、金三分の者三名、同弐分の者一一名、
計金七両(「安政二卯年十月地震一件御用留」笹ケ崎村文書)、
また桑川村の場合は金三分の者が八名、同二分の者が一六名、
同一分が四名、村合計一五両三分であった。