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項目 内容
ID J1400111
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔新発田市史 上〕S55・11・10新発田市史編纂委員会編・新発田市発行
本文
[未校訂]安政江戸大地 安政二年(一八五五)十月二日、夜戌の下刻
震と安政改革 (今の午後九時ころ)、江戸に大地震がおこっ
た。震源地は江戸川下流、圧死者焼死者は、公式発表で七〇
○〇名を数えた。この地震で、水戸藩の藤田東湖、戸田蓬軒
等も死亡した。『御記録』には、「御府内七八分潰る」とある。
当時、新発田藩は江戸に上屋敷、御抱屋敷、木挽町御中屋
表1 新発田藩邸の安政大地震による被害
被害箇所
状況
御上屋敷
御玄関・御広間・御書院・御居間書院・時計
の間・表御取次御内玄関中ノ口
全潰
御居間向・奥住居向・長局向・奥御住居門
半潰
諸役所・稽古所・長屋・用心門
全潰
北手表長屋・同所続長屋
大破
表御門・同所続長屋並内長屋
破潰
土蔵
全潰 2カ所
大破 5カ所
辻番所
大破
外囲・堀
全潰
御抱屋敷
御門・門番所内長屋 3棟
大破
練塀
全潰
土蔵 2カ所
大破
圧死人
8人
木挽町御中屋敷
御住居向表奥
少々破損
表長屋・門 1棟
破損
内長屋 8棟
1棟 大破
7棟 破損
御預所役所
破損
土蔵 10カ所
大破
外囲練塀
全損
本所御下屋敷
表御門・御玄関・表向御座敷
全損
御住居向
半潰
裏御門
大破
表長屋 7棟
4棟 全損
3棟 半損
土蔵
大破
圧死人
3人
(注) 『御記録』
敷、本所御下屋敷を有していたが、これらの屋敷も被害が甚
大であった。上屋敷は、死者こそ出なかったものの、玄関・
広間・書院等が全壊、奥住居及び奥住居門が半壊、長屋一棟
が大破した。このほか、土蔵全壊二カ所・大破五カ所、さら
に屋敷を囲む堤は、残らず崩れてしまった。そのほか、被害
を表1にまとめた。
 このような被害による多大の出資に加え、海防に対する支
出、さらには領内の不作も手伝って藩財政は破綻に向う。同
年十月十七日、従来の財政規模ではやりくりがつかぬとし
て、財政縮小を旨とした御趣法を仰付けるのである。具体的
には、寺社奉行・郡奉行・勘定奉行に、御趣法替取掛りを申
付け、諸役人諸支配へは、従来の政務規模及び実績にかかわ
らず、なるべく事を省くよう命じている。
 以上のようなわけで江戸屋敷の改築も遅れがちであった
が、同年十一月一日、御上屋敷建替のため赤沢九十九を御用
掛に命じて、国元から作事所下役棟梁及び大工三〇人を派遣
した。そして、この財政的裏付けは、やはり領内からの才覚
金に頼らなければならなかった。安政二年(一八五五)十一
月十一日、地震より一カ月後、領内検断・庄屋とも石掛才覚
金の申し渡しがあった。その中に、才覚金申し渡しの理由と
して、次の点をあげている。
① 財政縮小を主体とした趣法替の効果があがらずに、恒
常的赤字が増加する一方である。
② 幕府の公務や不時臨時の出資がかさんでいる。
③ 海防軍備のための出資が特に多い。
④ 江戸・大坂の商人には、これ以上の借財は望み得ない。
⑤ 今度の江戸表の大地震により、多くの藩屋敷が倒壊し、
その修理費が必要。
 安政の才覚金は、三万両と決められたが、まずその年に一
万八〇〇〇両を上納させ、残りの一万二〇〇〇両は翌三年暮
までに上納させることとした。なお、返済は二〇カ年賦とい
うものであった。才覚金は、町奉行・郡奉行を通じて割当ら
れたが、藩側では領内の当惑を察して、年頭及び殿様御帰城
の時の御礼金等は、差し上げなくともよいと申し付けた。
 才覚金仰付けと並行して、何度となく倹約令が出された。
まず、嘉永六年(一八五三)十二月十六日には、海防に多大
の費用がかかり、さらに外国との戦争になる恐れもあるので
藩主みずから倹約を率先実行することにした。例えば、参勤
交代の際の土産物や寒暑の御進物の停止、あるいは表向きの
来客への接待でも、二汁五菜御吸物に、御菓子一御肴三種と
定められ、さらに客数をなるべく減らすように申し付けてい
る。藩士の服装についても、江戸御供方でも、式日に羽織等
着る必要はなく、常に紋付のみ着用し、なるべくならば木綿
紬、棧留、裏付袴を着るように、また、冠婚葬祭についても、
それぞれ分限に応じて簡単にとりはかるようにと申し渡して
いる。
 また、安政元年(一八五四)十二月二十六日、「嘉永三年
の倹約による財政再建五カ年計画を立てたが、その最終年度
になっても収支状況は悪化するばかりで、特に昨年は江戸城
西丸御手伝普請や異国船渡来に対する防備の出費のため、財
政が思わしくない。また不作により二万石もの損毛を生じ
た。よって倹約令をさらに五年間延長する」と申し付けてい
る。そして、翌二年(一八五五)四月十六日には、家中へ次の
内容の倹約令を出している。「婚礼については、分限より大
げさにせず、特に衣装や嫁入り道具を身分不相応にかざりた
てること等はもってのほかである。聞くところによると武具
等にはさっぱり金をかけず、婚礼の仕度だけは金をかける者
がいるというが、そのようなことはあってはいけない」
 このようにして再延長倹約令がスタートしたところに同年
十月安政の江戸大地震が生じて、藩邸の再建に多額の経費を
要することになり、倹約のしめつけは一段と厳しくなる。す
なわち藩士が昇進した場合、従来は披露と称して祝宴をして
いたが、今後は一切やめるように、厳しく申し渡した。また
次の城中年中行事も省略することを達した。
① 御盃の御流れ頂戴はやめる。
② 三日御礼小役人諸職人まで惣御礼停止。
③ 町在の独御礼の者まで惣御礼及び御下賜品の廃止。
④ 具足御祝の際の御下賜品の廃止。
⑤ 御謡初の式停止。節分には掛り役人だけ出仕し他の者
は出仕不要。
⑥ 御年越祝いの停止。
 このように、藩財政及び家臣の家計の倹約に勤めるほか、
藩として積極的に財政収入の増加も計画された。すなわち特
産物の奨励である。万延元年(一八六〇)三月三日、藩は宮
北勇五郎・七里門之助・遠藤勇三郎・富樫万吉の四名を国産
係に命じ、特産物の奨励について申し渡した。「前々から漆
楮の増産計画が立てられてきたが、どうもうまくいかぬ。藩
財政は悪化し、このままでは軍備にもさしつかえる状況であ
り、飢饉がおきたら目も当てられぬであろう。そこで、桐漆
の両木を堤その他の空地へ植えさせるように」と言うので
ある。このようにして新発田藩の国産品計画は動きはじめた。
しかし、同じ日、江戸城桜田門外では、大老井伊直弼が水戸
・薩摩浪士により惨殺されて幕府の最後の到来を告げ、薩長
等の西南雄藩は、すでに国産品の専売制度による財政強化に
成功し、政治勢力の拡大に狂奔していた。新発田藩の遅すぎ
た政策の転換であった。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-1
ページ 745
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 新発田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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