[未校訂]安政二己卯年十月二日夜亥刻過頃より
江戸大地震荒増記之
一亥の刻過震ひ出し暫時に相止む、夫ゟ日々度々ふるひ候事
十一月頃迄也、其夜地震跡所々に出火有之場所分
御城御内外を始め神田橋内は酒井左衛門尉様・小笠原左京
大夫様御屋舗大損、酒井雅楽頭様御向ふ屋敷共焼る、森川
出羽守様やけて、常盤橋内は松平越前守様大損、太田摂津
守様そんじ、夫ゟ和田倉御門内外大地大にわれ、松平肥後
守様御添屋舗・松平下総守様やける、内藤紀伊守様・松平
伊賀守様・松平玄蕃頭様そんじ、西丸下牧野備前守様・本
庄安芸守様・本多越中守様・酒井右京亮様并御厩大損、馬
場先御門大番所焼る、夫ゟ大名小路は織田様・増山様・松
平内蔵頭様、此辺大損じ、遠藤但馬守様焼る、小笠原左衛
門佐様長屋損少しやける、又火消屋舗并因州様添屋敷焼
る、松平相模守様東北長屋焼る、表門より御殿向南の方残
る、夫ゟ松平阿波守様表門損る、松平土佐守様損、夫ゟ松
平右京亮様おもて御門損し、南の角少々やける、永井遠江
守様・本多中務大輔様焼る、土井大炊頭様南の方少々やけ
る、松平主殿頭様・牧野備後守様大損し、夫ゟ外桜田通り
は上杉弾正大弼様・板倉周防守様・芸州様・筑州様表長屋
大損し、虎の御門内通り霞ケ関辺諸家様皆々大にそんじ、
松平市正様・戸田鈴次郎様・阿部因幡守様・相馬大膳亮様・
西尾隠岐守様・水野出羽守様・大久保するか守様・朽木近
江守様・亀井様表長屋焼る、又松平時之助様・伊東様・北
条様・南部美濃守様・有馬備後守様焼る、薩州様装束屋敷
西長屋焼る、土手鍋嶋様損る、夫ゟ小笠原佐渡守様・真田
信濃守様・石川重之助様・大岡越前守様、此辺大に損る、
又日比谷御門外松平肥前守様焼る、長州様少々やける、夫
ゟ虎御門外は京極様・稲葉様・木下主計頭様やぶ加藤様・
秋田様・松平隠岐守様其外此辺愛宕下通り大小名とも少々
つゞのそんじなり、又永田馬場は九鬼様・丹羽様・大村様・
細川様・井伊掃部頭様此辺大小名とも少々の損じなり、山
王御宮障りなし、夫より又々久保町辺は兼房町・本郷代地
かじ町・備前町・伏見町此辺大にそんじ、烏森稲荷辺大小
名は少々の損也、夫より新橋辺少々損し、柴井町両側残ら
ず焼る、露月町・宇田川町・神明町・三島町大ひにそんじ
増上寺山内は無別条、大門前浜松町四丁此辺少々損、夫ゟ
金杉橋通りそんじ、夫ゟ新銭座・新網・芝浜辺共損し、又
仙台様・脇坂様少々そんじ、夫より又々田町九丁大木戸よ
り品川辺は少々のそんじなり、又日本橋辺は東の方は四日
市ゟ江戸橋辺まで少々の損、小船町辺ゟ小網町辺、夫より
霊巌寺島辺迄土蔵大半損、茅場町辺より新川新堀所々そん
じ、夫ゟ霊巌嶋塩町片側焼る、夫ゟ八町堀辺少々そんじる、
鉄砲洲は湊町・明石町辺大に損、松平淡路守様やける、夫
ゟ築地一円大小名方こと〴〵くそんじ、本願寺地中損、本
堂つゝかなし、夫より又小田原町辺大にそんじ、木挽町辺
は少々の損なり、浜御殿所々損、又々京橋辺は南伝馬町二
丁目・三丁目・畳町・五郎兵衛町・具足町・柳町・常盤町・
かぢ町・南大工町・因幡町中通り・鈴木町・竹川岸迄焼る、
夫ゟ南の方は銀座町辺ゟ尾張町辺迄所々そんじ、又日本橋
ゟ北の方は宝町ゟ今川橋辺迄所々損、又神田通りは立横十
文字に所々そんじ、筋違見附はつゝがなく、又駿河台より
御茶水辺所々そんじ、小川町通りは土屋采女正様・稲葉長
門守様・松平備中守様大にそんじ、夫ゟ堀田備中守様・□
□□内藤様御火消屋敷焼る、岡部様・戸田大炊頭様・高家
の戸田様・本郷丹後守様・松平豊前守様大にやける、榊原
式部大輔様半焼け、小出様大そんじ、此辺御屋舗方焼る、
又雉子橋通り・一ツ橋通り御屋敷方所々損る、夫ゟ飯田町
辺損、又九段坂上番町辺は御武家方格別のそんじなし、又
々両国辺は馬喰町・横山町・浜町・冨沢町辺、又本町・石
町・白銀町辺少々のそんじ、又御府内北の方は千住宿大に
損、小塚原遊女屋不残焼る、又新吉原五丁町とも不残焼て、
大門外五十軒程西側残る、夫より田町・竹川(カ)・田中・三谷
此辺大にそんじ、山の宿・聖天町大に潰、馬道・芝居町三
丁共残らず焼て、尾上菊治郎家より一とかわ十軒斗り残る、
夫ゟ花川戸辺大に損じ、浅草寺本堂はつゝがなく、地内は
所々損、金竜山餅屋の所より二三軒潰れ、五重の塔はかし
らばかり少々かたむく、伝法院少々損、又並木町所々そん
じ、駒形より出火して黒船町・三好町河岸通り迄焼るなり、
又御蔵前通り少々そんじ、夫ゟ浅草阿部川町辺寺々大に損
じ、菊屋橋角新堀端少々やける、又々東本願寺地中所々大
に損、東西の門倒、本堂はつゝがなく、又々夫ゟ下谷は広
徳寺通り寺院・武家方・町家所々大にそんじ、又藤堂様立
花様其外大小名方御屋舗所々そんじ、三味線堀佐竹様格別
の事なし、又々上野辺は坂本二丁目少々焼る、三の輪・金
杉・上野・車坂通り所々土蔵等其外大に損る、又下谷三枚
橋通りは井の口の側より伊藤松坂屋迄焼る、右松坂屋は土
蔵十二戸前落す、夫ゟ御徒士町并井上筑後守様は半分焼、
石川主殿頭様大に焼る、黒田様半やけ、小笠原左京大夫様
御中屋舗大に潰れ、堀様御殿向そんじ、長者町・上野町辺
不残焼る、又大門町焼、御成海道は和泉橋通り迄やける、
又々池の端茅町通りむえん坂迄焼、松平出雲守様并榊原様
御中屋敷残る也、霊雲寺前此辺糀の室われて大通三尺程穴
あく、夫ゟ湯島天神社少々損、門番は黒門町・三組町迄所
所大にそんじる、又妻恋坂稲荷本社土蔵少々損、町内一軒
も別条なし、夫ゟ神田昌平橋通り伊賀様・建部様大損、溝
口様半潰、内藤様表長屋大ひにそんじる、又同朋町・御台
所町・金沢町・旅籠町より東は 御成海道、西は本郷、南
は昌平橋迄所々損る、本郷通りは格別の事なく、加州様御屋
敷辺所々そんじ、丸山駒込辺所々そんじ、根津は二町共損、
谷中団子坂通り善光寺坂辺所々損候得共格別の事なく、又
王子辺・稲付・十条迄少々損じるなり、又々東橋向は松平
越前守様御下屋敷御殿焼て、本所石原ゟ出火して、弁天小
路より法おん寺橋ゟ同所割下水津軽越中守様大にそんじ、
此辺小屋敷大に損、夫より亀井戸辺迄所々そんじる也、又
立川通りは相生町二丁目より出火して、緑町より花町迄焼
る、小梅所々そんじ、少々出火あり、又々深川は御船蔵前
町辺大に損、其上出火して西光寺少々残り、大久保様御屋
敷半やけ、もみ蔵半分焼、又八名川町より六間堀・中の橋・
森下町より高橋迄焼爰にて留る、又一口は相川町より一の
橋通り・大嶋町・はまぐり町・黒江町東側半分残り、八幡
宮社は別条なく、表門并鳥居損し、三十三間堂別条なし、
木場辺所々そんじ、又霊巌寺門前より扇橋辺小名木川辺所
々損しる也、又々山の手は四ツ谷塩町辺所々そんじ、水道
樋口潰れ、水あぶれ出、川の如し、夫ゟ鮫ケ橋辺大損し、
又糀町より赤坂辺一円にそんじ、桐はたけ辺大黒田様御中
屋舗大にそんじ、又青山六道の辻辺大にそんじ、麻布辺格
別の事なし、西久保神谷町辺少々のそんし也葺出町は別条
なく切通し辺至てかるき方なり
右に付て風聞には
新吉原町斗りの死亡人凡三千余人といふ
御府内の人々損る事凡八万余人といふ
損場所三千二十町余といふ
土蔵数凡拾万二千余そんじる
出火類焼の場所三十七ケ所火口也
一御救小屋御場所左の通
幸橋御門外
浅草広小路
深川海辺新田
一上野宮様御救小屋上野山下
右大地震にて取敢ず
浅井てる政
動かざる御代をなお〳〵ゆりすえて
万代祝ふ[天地|アメツチ]の神
一是より世上の風聞取沙汰をしるす
傾きし世をゆりなをす大地震
上はかた〳〵下はゆた〳〵
仏法を鉄砲にするみとつぽう
八方地震て九方びんぼう
寺てらのかねをきびしひ御さいそく
あまりつらさにじしん参上
水神のおしえにいのちたすかりて
六部のうちに入そうれしき
おとろくなこゝがかんじんかなめいし
かしまの神のとめたかすがい
わすれてもくらのきんじよにやどかるな
じしんの時はいのちあやうし
御留守居にひるこの神のましますを
大黒はしらなんでうごかず
冨士筑波一荷にかつく武蔵野を
じしんくらいにこうなきもせぬ
五里八里さつてくりはし古河まま田
あたりましこそ地震さわぎが
いつときにゆるや五ケ国十ケこく
地震つかいの手のまわること
かないでもじしんはじまるよつのころ
いへはがく〳〵にげるはだか身
天智天皇
あきれたよぢしんのあとの火事さわぎ
わが子供らをつれてにげつゝ
持統天皇
はる過てふゆの地震にくらやぶれ
質の出入にことをかく山
柿本人丸
あしよはのかむろをつれてをいらんも
田のあぜ道に一と夜かもねん
山辺赤人
三谷うらうち見れは丁のやけ
土手のたかねに火のこふりつゝ
猿丸太夫
をく山を目あてににける中たんほ
すべつてころび帯をきるかな
中納言家持
かさかきにわたせるくすり鍋をさげ
とやの部屋から夜ぞにげにける
安倍仲麿
火の見からふりさけみれははるかなる
よし原町に出し火事かも
喜撰法師
わが内は御江戸のたつみ深川よ
ようつぶれしと人はいふなり
小野小町
はなのかほくすほりにけりないな女良と
ゆきゝの人がながめせしまに
蟬丸
是やこのゆくもかへるもにげる人
しぬもしなぬもうんにまかせて
参儀篁
小つか原三河島かけてにげ行と
人にはつげよ竹のやふまで
僧正遍昭
あまつ風吹もせぬのにもへいたし
御店火けしでしばしとゞめん
陽成院
つくかねの四つの頃よりゆりいだし
潰れかさなり火事となりぬる
河原左大臣
道もなくしのびかへしをとび越へて
足をいためてわれならなくに
光孝天皇
主の為やけ場に出てはいをかく
我か小遣いに釘をとりつゝ
在原業平朝臣
千早振神の御ばつかこのやうに
からのはだかでにげいづるとは
元良親王
わびもせず今又火事にかけつけて
身をつくしてぞけさんとぞ思ふ
素性法師
今くるといたしばかりに道なかで
有明ぢしんまちあかすかな
文屋康秀
ゆるからに秋の草木もゆりつぶれ
たつたる家はあらじといふらん
大江千里
やけみれは日々にものこそたらぬなり
我身ひとつのやけにはあらねど
菅家
此度ははじもとりあへずにぎりめし
みそたくあんでさいのまね〳〵
凡河内躬恒
心あてにふしんのかねをかりに行
もつたるやつはしらきくの花
清原深養父
冬の夜はまだ四つじふんにけいだし
いづれの道に[嚊|かか]やとるらん
右近
わすらるゝものではないぞこの地震
われが命のおしくもあるかな
謙徳公
あわれともいふべきものは五丁町
みななさけなくなりぬへき哉
藤原道信
あけぬれはくれるもしらずかせぎため
この大やけでもとのもくあみ
和泉式部
あらざらんしんせうやいてけがをして
このやうなめにあふこともがな
赤染衛門
大[道|どう]へねなまぢものを夜はふけて
かたづくまでのみじめみしかな
伊勢大輔
いにしへのならぬしんせうまたやいて
けふこゝの地をはなれぬるかな
小式部内侍
吉原へゆく野の道はとふけれは
まだたつねみぬあまのゆきがた
相模
おもひわびさてもしなづにいたものを
あんじすごしてなみだなりけり
大僧正行尊
もろともにあわれとをもへ諸商人
くらのやけたでうりものもなし
後徳大寺左大臣
ほどすぎてゆりたるあとをなかむれは
くらかべをちてほねぞのこれる
入道前太政大臣
花さそふあらしのをとゝ思ひしに
ゆりだすものは地震なりけり
西行法師
なくなとて子ともをだますぜにもなし
かわいそうなるわがなみだかな
順徳院
もゝ引やふるききるいもやきすてゝ
なおうらめしき地しんやけかな
落し噺しに
公方様大地震に付紅葉山え御立退被為遊候御道筋にて何か
おひろひ被遊、四角にして一より六迄星有之候ては何とい
ふものぞと御意有之候得は、御側衆夫は賽と申ものに御座
候と申上けれは、さいと斗申ては不相分、委しく申べしと
の 御意ゆへ、御側衆奉畏り候とて、則四角なるは天地八
角を形取り申候、又一の星は乍恐 君にて御座候、二は是
尾張殿・紀伊殿に御座候、三は御三郷方、四は四天王井伊・
本多・酒井・榊原に御座候、五は老中共、六は若年寄共に
御座候旨申上候処、成程随分尤には聞へるが、尾張紀州を
申て水戸無之は如何そと御意ありけれは、御側衆水戸を入
升と寺がつぶれ升
一此度大地震に付諸家様ゟ為御知御奉札の内書抜左に記之
薩州様ゟ
以手紙致啓上候、然は此節地震にて薩摩守様芝御屋敷御玄
関向其外御屋舗内外大破に付、此頃渋谷御下屋敷え御住居
被成候間、御客様方御使者等御断との儀也
仙台様ゟ
前略然は過日二日夜稀成地震にて陸奥守様御居屋舗を始御
中屋敷御下屋敷共大破損、潰家且即死拾弐人怪我人四十七
人有之候段、御用番様え御届被成候との為御知也
長州様ゟ
然は大膳大夫為参勤今日被致着府候処、昨夜の地震にて桜
田上屋舗及大破、住居難相成、依之麻布竜土下屋敷え被致
着候との為御知
因州様ゟ
然は相模守居屋敷去る二日夜地震にて半潰且類焼に付、大
崎屋舗え当分の内住居被致候、且八代州川岸上屋舗・同所
添屋舗・新大橋際浜町中屋舗・大崎下屋敷共、住居向を始、
長屋土蔵厩其外共潰の上類焼・半潰等破損所夥敷、即死人
七拾九人有之候段、御届御用番様え被差出候、右為御知と
の事
保科弾正忠様ゟ
去る二日夜地震強、弾正忠居屋敷并下渋谷村下屋敷住居向
其外共大破、即死人三人怪我人十四人馬怪我無之との事
芸州様ゟ
然は去る二日夜地震にて、安芸守居屋敷内外及大破候付、
修復中御客御断の旨為御知
宗 対馬守様ゟ
右同断の旨為御知候事
石川主殿頭様ゟ
然は去る二日夜稀成地震にて主殿頭様御居屋敷御住居向其
外御長屋共不残震潰、其上出火にて御住居始御長屋向過半
御焼失、尤表御門裏御門は相残候段、御届被差出候段為御
知の事
寺社御奉行
松平豊前守様ゟ
然は去る二日夜地震にて豊前守居屋敷震潰候上出火にて、
住居向不残焼失、即死人六拾五人怪我人廿五人馬二拾壱疋
焼死の旨為御知の事
松平伊賀守様ゟ
然は西丸下屋敷御用に付被差上、小川町堀田備中守様御屋
敷五千三百三拾四坪被下之との為御知
真田信濃守様ゟ
然は去る二日夜地震にて、信濃守様御居屋舗内御長屋壱棟
潰、其外御住居向初一統大破并御土蔵不残土震落、南の方
土塀崩御中屋敷所々破損、赤坂南部坂御下屋敷御長屋壱棟
潰、其外御住居向御長屋等一統并御土蔵不残大破、南の方
崖所々欠崩、深川小松町御下屋舗御住居向・表御門并裏御
門二ケ所初、所々并御土蔵四棟潰、其外大破相成、御居屋
敷御住居向并御長屋共住居相成兼候大破御座候段、御用番
様え御届の旨為御知
但追々地震にて御住居難相成、当分の内南部坂御屋敷御
住居の旨も為御知也
水野大監物様ゟ
然は昨二日夜地震にて大監物様御居屋敷、潰家其外所々大
破に付、御客様方御断の旨為御知也
稲葉長門守様ゟ
然は長門守様御居屋敷、此度の地震にて御玄関并御住居向
等及大破候に付、御客様方御使者等御断の旨為御知也
立花飛驒守様ゟ
然は飛驒守居屋敷・中屋敷・下屋敷共地震にて及大破、住
居難相成、依之無余儀御暇の儀被相願候処、無余儀筋に付
願の通御暇被下旨御用番様於御宅被 仰渡、難有仕合被奉
存候、依之来る十六日御当地発途候筈に御座候右為御知也
鍋島加賀守様ゟ
然は去る二日夜の大地震にて加賀守居屋敷住居向皆潰、長
屋向過半震潰候に付、御客様并御使者等御断の事
丹羽長門守様ゟ
然は長門守居屋敷去る二日夜地震にて大破に付、千駄ケ谷
下屋敷え被致住居候
松平左兵衛督様ゟ
然は此度地震にて左兵衛督居屋敷住居向不残大破、依之御
客様御使者等御断也
山田遠江守様・石川重之助様・本多肥後守様・安部摂津守様・
嶋津淡路守様・渡辺備中守様・稲葉伊予守様・松平近江守様・
松平日向守様・織田豊前守様
右の方々何れも御居屋敷御大破御客様御断の事
松平周防守様木挽町五丁目御中屋敷ゟ御住居戸田鈴次郎様小
日向茗荷谷下屋敷え御住居
右は御居屋敷御大破にて御住居不相成候由の事
地震に付ての御触面記之
(注、〔地震一件〕の各廻状を記したものにつき省略)
是ゟ風聞を記す
一此度の地震并出火にては松平肥後守様一番の御破損の
由、其上出火に相成即死人凡三百人程、怪我人数不知、
御馬廿七疋死亡の由也、同夜にお預りの御台場も出火に
相成、勤番の衆中壱人も不残死亡の由也、御同所様和田
倉御門内の御屋舗より俵詰の死人拾壱車引出し候を見請
候もの有之、此外は松平時之助様・大南部様等即死人怪
我人等夥しく有之候由風聞也
一十一月朔日二日両山を始め江戸中本寺分の寺々え此度の
死亡人為供養の施我鬼法事等 公儀ゟ被 仰付有之候の
事