[未校訂]一 浜田地方地震
明治五年二月六日(太陽暦三月十四日)石見及出雲の一
部を襲った地震は浜田地方地震と名づけられている。当時
浜田県へ報告された安濃、邇摩、邑智、那賀、美濃五郡に
於ける全潰家屋は四千三百二十余戸死者五百五十余人に達
し死者一人に対する傷者は一・一人全潰家屋七・五戸に及ん
で大地震に数えられるものの一として挙げられている。
大正元年編輯の浜田測候所報告と、当町古老の談によっ
て概略するに、該地震時刻は、凡そ二月六日午後四時四十
分頃で、当町では夕食の準備頃、古老の所謂モーモー頃で
あった。地鳴の方向は温泉津町の北西から東方に雷の如き
強音で通過したと云われ地震による転倒墓標及び潰壊家屋
の方向が東方であったのと一致している。感覚による最大
震動の方向は上下動に東西、水平動を伴ったと云われるの
と、倒潰の多かったなどと綜合して、地震としては最も惨
状を伴う烈震に襲われた訳である。震源は比較的近距離内
で、温泉津の北西日本海中に起った、海底地震であったろ
う事は以上の事によって常識的に想像される。
大森博士の計算法によって此地震に於ける全潰家屋の割
合と地震の強度即ち震動の最大加速度との関係を見れば、
石見の全潰家屋範囲の最大加速度は二千六百ミリメートル
以上であると発表されている温泉津の聚落は裂罅の多いの
によったものと思われる。
土地の隆起陥没等の現象は知られていないが、山地の崩
壊は七十坪に及び、大浜村では一町歩と記載されている。
湾口大崎鼻が、大崩壊をした際は、落石による大鳴動を津
波の襲来と思い恟々として浜に避難していた町民達は、倉
皇として日和山等へ場所替えしたなどという話は涙なしに
は聞かれない。又大浜村には東西一町幅三四寸の亀裂を生
じ約一ケ月間温泉が溢出していたと云われ温泉津の新温泉
は従来少量宛溢出していたものが此の地震によって本格的
湧出を見るに至ったのである。新湯という名は旧湯に対す
る名であるが文字に現わす時は震湯とも書かれていると記
録に載っているのは湧出動様を語る名称であると共に「新」
と同一発音で、新の意をも寓意させて興味ある名である。
偽書とされているが、石見風土記に神湯と記載されている
のは恐らく旧湯であったであろう。兎に角両温泉湧出烈罅
に凝結固着している硅酸鉄分即ち硅華を震落せしむる結果
であることはたのもしい限りである。(中略)
而して該報には温泉津の被害を総戸数四百戸の中全潰戸
数五十三戸、百分率一三と挙げている。同書の調査方法は、
大正元年現在六十才以上記憶正確なる古老三人以上に就き
聴取これを綜合して小学校教師及び町村役場より報ずるの
が本体であったが、何処迄此の約束が守られたかは不明で
あるし、今日に於ては、温泉津より報告した被害高と一致
する統計は到底得られなかった。故に昭和五年七十六才で
本図は被害家屋の位置を示すだけに止めた故、
軒別は実際と不一致があるかもしれない。