[未校訂]往古は不明近世の震災について記載してみたい。
明治五年旧二月六日午後四時四十分浜田付近を中心とし
て石見は勿論中国全体に亘って大地震があった。天変地位
(ママ)のある時多くの場合何かの型に於て其の前徴があるといわ
れているが、浜田地震もその前徴とみなすべきものがあっ
た。発震一ケ月前に那賀美濃の沿岸及[簸|ヒ]川郡北半に於いて
未曾有の降雹があり、更に一週間前から石見の海陸から鳴
動を発し漸次強大になり発震数分前に至り海陸変動の為退
潮を起し遂に午後四時四十分浜田西北西に当り轟然たる地
鳴りを発して激震を起した。尚明治四年旧十二月二十六日
の夜石見の北方広域に亘りて極光を観望した事も珍らしい
現象として大地震と結びつけて取り沙汰されたものであっ
た。烈震区域は約四十方里に及び死者五五二人負傷者も死
者と略同数あり家屋の全潰するもの四、三二四戸に及び本
県に於いてはそれより約二〇〇年前の津和野地方の大地震
以来の強震であった。震源地は浜田の西北西四五里の海中
で海鳴りの方向と海水の津浪現像(ママ)と震後上下動区域内の海
岸の隆波の実現等で確実に知る事が出来た。そして其の地
帯は主として第三期層に属する石英粗面岸帯を帯状に震動
させたことが明かにされた。本郡は祖式川戸・谷住郷・君
谷の被害が最も大であった。
本村でも古老の話では当日発震前地鳴りあり、その後上
下動の大地震あり一同驚いて戸外へ飛び出し成す処を知ら
ず畜舎の牛は一済に啼き出し人心は恐怖のドン底へ突き落
された。幸い家屋の倒壊人畜の被害は無かったが戸障子は
はずれ道路に亀裂が出来た。人々は余震を恐れ竈の火を消
して万一に備え土地の亀裂による危険を除く為家畜と共に
竹藪に入り地震小屋を急造して夜を徹し恐々として全く生
きた心地もなかったという。