[未校訂] 明治五年三月十四日午後四時三十分すぎに起つたいわゆ
る浜田地震は震源地那賀郡の被害が一番ひどく、邇摩・邑
智・安濃としだいに少くなつているが、当地方は東乃至南
の方向の激震動を示し大きな損害を受けた。地盤の上下を
見るに遙堪村の南部では五町歩の地が十二米も低くなり、
荒木村では反対に高くなつており、園村では一町三反の地
が沈み、「高松村誌」には松寄下村で田地を免租した所が多
くできたと記している。那賀郡国分村や波子海岸では〇・
七乃至二米も隆起して畳ケ浦千畳敷のできたのもこの時で
ある。
(頭注)
震源地─浜田西北西方海底
浜田地方をはじめ全被害
死者五百五十余人
家屋全潰 四千三百戸
(市誌「浜田」による)
出雲市地区で全潰六十戸であるから半壊や傾斜家屋、あ
るいは壁土の亀裂剝落などは相当多かつたと見るべく、簸
川出雲の死者一四人とあるがこれは町村別記録がないから
不明ではあるがおそらく大社町が一番多かつたのではある
まいか。道路の亀裂や水泥土の噴出などは各所にあつて、
人々は繰返す余震と伝わり来る流言に恐れおののき、竹藪
へ避難する者もあり、野外に小屋を建ててすごしなどした
という。(後略〔伊波野村誌〕遠藤家文書と同文)