[未校訂]第三節 災害史
一、地 震
1 申年の大地震(浜田地震より)
明治五年旧二月六日午後四時四十分頃、浜田附近を惨害
の中心として石見は勿論、殆んど中国全体に亘りて震動し
たる大地は、明治年間に入り最初の大地震であつて、其の
強烈であつた事は明治二十四年の濃美地震に次ぎ、酒田地
震及陸羽地震と伯仲するものであるけれども、当時幕府瓦
解して万 (ママ)未だ其の緒に就かざつ(ママ)た時であるので、其の惨
害の状況の如きは、却つて幕府時代に起りたるものゝ記録
よりも不備であつて、年所を閲するに随つて其の事実湮滅
せんとするものがあつたから、浜田測候所長大いに之を患
ひ、鋭意之が研究に従事し、大正元年十一月「浜田地震」
と称する具体的研究を発表して、暗黒裡に葬られんとした
事実を闡明ならしめられたのは、郷土のため特筆すべき事
である。今左に同書によつて該地震の梗概を述べて見よう。
(中略)
井原村
二月六日(旧)午後四時頃俄然震動を始め、一時間後最
も強烈を極め、終夜動揺止まざりき。各戸の竈先づ倒壊し、
山野は轟々として鳴動を続け、一時凄愴を極めたり。藤田
の土蔵倒れ、獺越の岩山崩る。又所々に亀裂を生じて泥水
を噴出せるあり、水源の涸渇するあり、人々家屋に留る能
はず。凡そ一週間は屋外に小屋を建てゝ住みたりき。震動
は其後も時々起りて容易に止まず、前後一ケ月に亘れり。
吾郷村
火打谷[奥|ザル]山西方に崩壊し、長さ百間余のザル淵をつくつ
た。奥郷 オクタツ山の頂上に大きな亀裂を生じた。民家
の土壁は落ちるやら、物凄いそのものであつた。
口羽村
本村に於てはさしたる事はなく、引城上ケ畑に多少の山
崩があり、江平坂谷間でも岩石の崩れ落ちた位のものであ
る。
浜原村
百日間の震動で、家に寝る事を得ない期間が二十四五日
であつたと。
長谷村
倒壊家屋三戸(清見小屋ケ谷、井沢半田、八戸小屋)死
者二名(嘉戸六太郎、井沢半田のおぢさん)津浪が来ると
いふ風評があつたので、各戸は仏さんをおふて山に登つて
避難したさうである。処々に亀裂を生じ、水源は涸渇、人々
家に居る事が出来ないので、一週間は屋外に小屋を立てゝ
住んで居た。
矢上村
其の日午後四時頃にもありしか、地唸を伴ひ一大激動あ
り、誰しも戸外に飛び出す。稍々ありて我にかへりて火元
の注意貴重品整理をなす。されども地動地唸り尚止まず。
不安に不安を重ね其の夜は皆戸外に休む。翌日も尚止まず。
殆んど二夜をまどろまずに戸外に明す。屋根瓦は落ち壁は
割れ、石垣は崩れ、地唸はする、真に悲壮其のものなりき。
安楽寺の鐘楼の石垣崩れ、大鐘は下の田に墜落せりと。
大貫の峯破(浜田地震の遺蹟)
川越村大字大貫は山麓の狭長な平地続きであるが、略中央
和田の上に岩石累々とした小高い所があり、路は為めに小
さな峠となつて居る頂上に地蔵堂と二軒の家がある。此所
は浜田地震災禍の遺物で、当時和田の山口医師の寺小屋に
通つてゐた後の村長岩城庫一郎氏を始め、二人の寺子は此
所まで帰つた時、大揺れに揺れたと思ふと身は対岸である
べき田中の正泉寺の前に居り、不思議と顧みれば江川がな
い。山崩れの為めに麓の畑地が押し出されて、江川をせき
とめたのであると気がつくと大急ぎに帰つた。見ると今朝
まで畑であつた所が満々たる湖水である。仕方がないから
着物を脱ぎ頭に戴いて入つた。少し行くとこれは又不思議、
水は干上つて畑になつたので、裸の儘茫然と立つて居た。
蓋しせきとめられし土砂が押流された為であつた。頂上の
地蔵尊は当時麓にあつた家が人流共に埋れたので、其の冥
福を祈る為めに建てたのである。