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項目 内容
ID J1300132
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1872/03/14
和暦 明治五年二月六日
綱文 明治五年二月六日(一八七二・三・一四)〔石見・安芸〕⇨津波あり
書名 〔浜田町誌〕
本文
[未校訂]浜田大地震
 明治五申年二月六日申刻の地震は、石見を主とし、出雲
の西部にも及んだ大地震で「地学雑誌」で小藤文次郎博士
は「明五石見地震」と命名し、浜田測候所長石田雅生は「浜
田港」で「浜田大地震」と名づけ、同人編纂浜田測候所発
行の単行本は「浜田地震」と題して居る。地学雑誌のは専
門的で、単行本「浜田地震」は非常に綿密詳細なものだか
ら、あらまし「浜田大地震」の記事に依る。(中略)
 又前に話した測候所の調査とは、方法も違ふし管下も浜
田県内に限つて、多少数に相違もあるが、浜田県の統計は
次の通り。
潰家 四五八八戸 半潰家 八三六五戸
焼失家 二一四戸 土蔵破潰 三一棟
死者 四九八人 負傷者 七五五人
牛馬死傷 一一八頭 耕地荒所 一三九七町九段
堤防崩潰 七四一五所 山崩 五〇八八所
口達覚 (跡市沢津英勝所蔵)
今度中西国 御巡幸ニ付権令佐藤信寛事馬関 行在所エ被
召出当春管下震災之情態 親シク被為 聞召度トノ 勅命
ニ付震災ニ罹リ家屋ノ焼潰田畠ノ壊崩人畜ノ死傷及ヒ庶民
ノ難渋等逐一及言上候処忝クモ侍従長ヲ以別紙写ノ如ク
御口達書幷金三千円御下ケ相成就テハ右御金之内目録ノ通
其村々災ニ罹リ候者共エ為致頂戴候条震災ノ軽重難渋ノ厚
薄相当割合分賦可致候実ニ斯ノ如キ 聖意之難有キト御一
新之御政体ヲ奉認シ銘々其業ヲ勉励シ 隆恩万分ノ一ヲモ
奉報候様村内普ク可告示事
壬申七月
浜田大震災の実況 殿町 清水善吉
明治五年二月六日(新暦無し当日は俗に土が降ると云ふ極
めて濃厚の曇天なり)昼七つ時申の刻(午後四時なり)
浜田県権令佐藤寛作(長州萩の人現今の知事)渡辺参事(津
和野の人現今の書記官)高岡典事・中村権典事(長州萩の
人現今の理事官)私善吉は其当時中村権典事の若党にて年
齢十七歳の時なり。中村権典事の官宅は現今浜田警察署の
後の長家にして、其官宅には中村権典事と私と外に高木と
云ふ賄方と三人なり。其当日午後より中村権典事は、佐藤
権令の官宅(現今坂根惣太氏の地中)に囲碁に往かれて不
在なり。然るに、当日八つ時頃(午後二時)微震あり、尚
七つ時前凡三時半頃より数回震動せしも、微震故、高木賄
方は夕食の仕度を済し膳飯櫃等棚に揚げ置きたるに、七つ
時前に至るや強震となりしに就き、高木は火を消せといひ、
其の火を消し戸外に飛出したるも、大橋通り出る道の家は
崩れ、止むなく其官宅の前に大なる柿木あり、私は其柿木
の中央迄攀登り、一生懸命に柿木に抱き附き居りしに、極
強震の時は烏雀等は地上に落ち、私が登り居る柿木の枝が
東西の地に附着せり。然るに柿木に抱き附き居りし故安全
なるも、又危懼の念を生ず。而て震動も少し止み柿木直立
せる故、周囲を視るに、竹藪越に町の方見たれば土煙にて
何物も弁せざる有様なり。然れども其多くの家が崩れたる
音響は更に聞き得ざるなり。震動も止みたる故、柿木より
下り、官宅に帰りしに、家斜めとなり、半崩れにて壁落ち、
戸障子は破損せるも、台所に至り見るに、飯櫃は棚より落
ち、壁土と飯と混合して食する能はず。幸ひ権典事に出す
飯櫃は、冠せ蓋にて少し明け難き故、土砂混入せざるに付、
握飯とし、権典事に供する為め、高木が佐藤権令の官宅に
持参せり。同人帰宅するや共に飯を食したるに、少々飯残
りし故、私は其飯櫃を携へ大橋通りへ出たるに、大橋の上
より私を呼ぶ者あり。誰ならんやと思ふに、大森町熊谷三
十郎方の手代にて、私大森町出張中、知合の人にて、来浜
の故を問ひたるに、県庁に納税金六百両を持参し、石見屋
に宿泊入浴して上りたる儘飛出でたるも、納金と懐中時計
は床の上に置きし儘、未だ食事もせざる故空腹なる由申に
依り、私の携へし飯櫃を同人に渡し、私は片庭に祖母一人
居るに付、自宅に帰り、大声にて祖母を呼ぶも、自宅は全
崩にて、居処不明なる故、止むなく又大橋河原に帰り見れ
ば、佐藤権令は、属官其他を指揮し、罹災者に炊出しの準
備中なり。渡辺参事は刀を抜き、竹垣を切りて薪の用意を
為せり。高岡・中村両典事幷に他の大属・小属の人々も竈
を作り、平釜を運ぶもあり、等外出仕若党共は城内の米倉
より米を運搬すべしと命令あり。依て私も他の人と共に米
倉に至り、四斗四升入の俵一俵を担ぎ大橋河原(現在の実
践女学校の地内)迄持来りしも、運搬中の難易は更に不覚
にて無中なり。吾も吾もと俵を運搬し来るも、私が一番先
着にて、佐藤権令は私の持来りたる俵に腰を掛けて、諸事
の指揮し居られたり。追追準備整ひ炊出せんとせるも清水
更に無之、各井戸は底より土砂を吹き上げ水は更になし、
浜田川は濁水且増水にて使用し難きも、川水を使用するよ
り他に途無之に付、高岡典事は若党に命じ、自分新調の袷
を持参せよと命じ、其袷にて水を漉し、黒米飯を炊き、水
担荷の取手を除き縄を通し、背負往く様相成在りしに付、
私も是を受取玄米飯を入れ背負ひて、自宅片庭方面に向ひ
しは、夜四つ時頃(夜十時)にて、自宅に帰り見れば、祖
母は家の下に敷かれ居りしを、野原親戚来りて掘出し呉れ
し趣きにて、簞笥の前にて糸を紡き居りし為め、箒が簞笥
にたながり、首程が自由に動かす事が出来たとの由なるも、
胸痛むと云ふに果して筋骨が二本折れ居れり。其際治療は
勿論手当も出来ざる状態なり。医師も居らず病院も無けれ
ばなり。私は夫より原井方面に向ひたり。山崎寛治氏は老
母の手を引き出られたるに、老母の左額に負傷し居られた
り。然而山崎前の空地(現在町営住宅の処)に新道・工町・
蛭子町辺の人多く集合し、念仏題目等を唱する声、蜂の巣
を破りし如くにて、ワンワンワンワン囂き程なり。是皆死
を決し居るものなればなり。此人等に玄米飯の握飯を与へ
しに、飯不足なるに付、直ちに大橋河原に引返へさんとす
るに、新町に火災起り、大橋を通行する能はざる故、川を
渡り大橋河原に帰り、又玄米飯を背負ひ田町方向に向ひた
るに、堀町(現在中学校前通り)に出たれば、上より水流
れ来るに、深さ道路の上五寸位有之、其水は何れより流れ
出るやと見るに、道路の割目より水吹出づるなり。漸く田
町浅井川橋迄往き、其近辺の避難者に握飯を与へしも、人
少きに付、尚田町の先きに往かんとするや、牛市方向に於
て、生ながら火葬せらるる如き人の叫び声は何とも言ふ能
はず。其有様は阿鼻叫喚の声、身の毛もよだつ様なる凄惨
であり、為めに先きに往かずに引返したり。其悲鳴は尤も
にて牛市煙草屋に来客の婦人八人、蕎麦屋に三人、並に現
在の宇野清太郎氏家にては、主人は不在中に家は崩れ、妻
は下敷となり居るを以て、主人帰て屋根を破り、妻を救助
せんとせしも、足を大なる木材に狭まれ引出す事能はざる
に付、妻は既に火が足迄来りし故、最早遁れ難し是を自分
の遺物と思ひ呉れとて櫛笄を主人に渡し、海嘯と云ふ故早
く立去り賜へとの妻の語に、主人も止むなく、涙ながらに
近傍より濁水を桶に一杯持来り、末期の水なりと妻の頭に
掛け立去りたりと。此十二人は生ながら火死せしものにて、
其他にも是有しならん。道路の割目に足を狭まれ負傷せし
者も有之、其当時は浜田町は一千戸と称せしも連担家屋原
井村分を込め九百戸位にて、七百五六十戸全崩し、町の周
囲・山の麓の家は半崩にて全崩なし、其戸数百四十戸計り
なり。其震災にて負傷者の数は多きも、取調なきに付不明
なり。死亡者、各官吏より中村権典事に報告に因り、総数
は浜田町原井村を通して、弐百三十六人、此内には他郡他
村人にて浜田町宿泊中の人も含み居る由なり。而て其際火
災の起りたる場所は新町・牛市・真光町・浜田浦上小路の
四ケ所なり。其内牛市が一番被害多く、次が新町・上小路・
真光町の順序なり。翌七日、私は新町に出たるに道具屋に
五人の死体あり、石見屋に三人の死体あり、皆焼死せしも
のなり。亦八日に牛市に到りたれば未だ蕎麦屋の焼死者は
始末し無之、主人松治は蕎麦のこね鉢に手を掛け焼死し居
れり、其妻は一間離れたる処に、母親は二間位離れたる西
側に焼死し居りたり。夫れより三重の石橋に来りたれば、
浜田浦の鶴島が一目に見える故、驚き暫く石橋の上に立ち
居たるに、牛市の徳田半四郎通り掛けし故、鶴島が見える
事を知せたれば同人も驚き、浜田は全部家は崩潰せしなら
んと語り合へり。其震災中、何者か海嘯なりと大声し、町
内疾走せしものあり。是式は盗人にはなきやとの疑ひより、
捕防吏(現今の巡査)飯田一氏は彼れを追跡し、七日午後
浅井村万灯山にて逮捕せしも、其際賊は脇差を抜き、飯田
一氏に投付けしを、飯田氏は棒にて受け止めたる由、権典
事に復命あり。然し各罹災者に対しては、倉庫内玄米を分
配あり、小屋掛材料は籔町の竹を切り、藁を屋根用として
渡され、追々石見国各村より漬物を贈り越したるに付之を
町内に分配し渡されたり。其震災の当時は浜田浦の海水は
鶴島辺迄干潮し、又満潮の時は浜田浦の町迄潮来たる趣き
なり。現に外ノ浦・田ノ尻の二段目・上の田中に三十石の
船が上り居たるは私目撃せしものにて、全く海嘯徴なきに
あらず。又川端池溝端等の道路は皆亀裂したり。尚震動は
三ケ月位微震ありたり。大森町熊谷三十郎より納税金六百
両は石見屋にて焼失せしに付、係官吏は七日に実地検査せ
られたれば、十両札が重りて焼けあり、事相違なき旨権典
事に報告あり。黒川村三宮社の上、猿猴淵に、上の山より
四間角位の大石転落し川中にあり。
又長浜・熱田・浜田・原井田・松原の各海浜土地は沈み、
下府・国分・畳ケ浦は浮き上りたり。
震災当日川水の濁流増水せしは、七条村大堤の堤防破壊し
一時に水流出せし故なりと、七条村より報告あり。又震災
当日前二日位前より、海底の鳴動あり、其当時浜田沖より
北に当り海上に火の柱立ちし趣きなり。
震災のありし年日時は、申年申の月申の刻なりと。
浜田震災の話 玉置啓太
私は、浜田大震災紀念祭を町の事業として執行相成度事を、
町長始め町会議員諸士へお願したるに、全会一致御快諾相
成り、盛大なる此追弔会を執行せらるる事は、被弔者たる
亡霊各位に於ても、さぞ喜ばるる事と存じます。本日又私
所感を述ることを得ましたることは、私に於て無上の光栄
と存じます。扨本年は壬申の年で、今より六十一年前即壬
申年二月六日申の刻、我浜田は、石見国開闢以来未曾有の
大震災にて、浜田約三千戸の戸数中、焼けざる家は倒れ、
倒れざる家は傾き又は破損し、一戸として完全なる家なく、
寺院とても、光西寺・観音寺・洞泉寺・宝福寺・地久寺・
玉林寺等皆倒れ、其他完全なる寺院一個もなく、今日現に
生存し居る新橋附近に住める清水善吉氏は、其当時浜田町
大字黒川字三重の橋の上より、浜田浦海中に在る鶴島を、
其所より一直線に望見したりとのこと、然云はば、如何に
浜田町の家屋倒潰したるものかを想像するに価あり。火も
数ケ所より起り、最も劇甚なる所は牛市・田町、続ては新
町・真光町又浜田浦上小路の一部なりき。又漁山の藤井宗
雄翁の、其当時筆記せられし震譜と申書に依れば(浜田県
管内としての事ならんも)田畑荒所千三百九十七町九反五
畝十歩、潰家四千五百八十八軒、半潰八千三百六十五軒、
焼失家屋二百十四軒、郷蔵並に土蔵三十二棟、死者四百九
十八人、怪我人七百五十五人、死牛馬百十三頭、同怪我七
十五頭、堤防破損七千四百十五ケ所、道路橋梁三百四十四
ケ所、山崩八千八十八ケ所とあり。所に依ては、大地に高
低凸凹を生じ、或又地中より噴水泥砂を吹出し、城御堀前
の道抔は、大亀裂を生じ、大小数十条あるも、其大なるも
のは幅三四尺長さ数十間深さ数尺。新町辺も大火災に罹り、
佐々木庄次郎氏如きは、一家六人家族五人までも焼死した
り。就中牛市田町は最も劇甚にして、一門絶滅の家あり。
一例を挙れば、牛市の尾田甚助氏の宅の如きは、其日七夜
の客あり、我等も其客に招かれ、圧に打たれ、火起るに及
んで、九死に一生を得たるものなるが、大震直に四方に叫
喚の声起り、翌朝其跡の尚焼けつゝある中に、白骨及生焼
の死体十二あり。予は圧に打たれ掘出されたる際には、腰
部麻痺して其所に休み居たるが、我が前を左手に釵を持、
右手に水桶を提げ、猛火の辺より泣々出て来りたる人あり
しが、之れぞ牛市の来原貞助と云ふ人にて、其妻ちいの圧
に打たれつゝ、生ながら焼かるるに当り、之を助けんとあ
せり、助くること能はず、末期の水を打掛け、妻より形見
に釵を受取り、泣々去りたる者なり。鼠糞位の艾に火を点
して灸を据るすら、忍び難きに、生ながら漸々猛火に焼か
るとは、如何に酸鼻の極と云はざるを得ませんことでしや
う。如斯類例枚挙に遑あらず。抑も、地震なるものは如何
なる所より発するものなりやといふに、三世相などにある、
地下に大鯰の地を載せ居るなど書きあることは、三歳の児
童も信ぜざる妄説なれども、地辷り或は断層地震・陥没地
震等の説も信じ難し。如何となれば無量無辺の重量たる山
岳を載き、数十里乃至百里を震動せしむるに至るとは、地
上に於て雷となり、地下に於て震となり、光を発して電と
成、皆是同一気のものか。千七百年代に英国にスタツケレー
と云ふ者並にフリストリトと云ふ人あり、共に地震の原因
は電気なりと唱道したる由、之亦有力なる説と私は考へま
す。而して、浜田の大震に就ては、其前年冬より春に係け
て、大雪ありて家根を壊はし庇を落したることあり。又前
年の十二月二十六日の夜半に至り、北天大火色を呈し空の
照れたること、古老も前代未聞なりと云ふ。之亦電気の所
為乎。凡天地の間に何れの時か天災地震なからん。治に居
て乱を忘れず。将来非常の警戒を喚起するは、我々人生の
義務なり。当時の亡霊を追弔し、之を慰むるは、民徳厚に
帰し、人情の尤も然らしむる処ならんと存じます。
震 譜(省略)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻1
ページ 257
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 島根
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