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項目 内容
ID J1300131
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1872/03/14
和暦 明治五年二月六日
綱文 明治五年二月六日(一八七二・三・一四)〔石見・安芸〕⇨津波あり
書名 〔浜田市誌 下〕
本文
[未校訂](前略)
 地震の被害状況 明治五年二月六日午後四時四十分ごろ
に起こった本震以前には、大社町にて二~三日前から毎日
一~二回の微震を感じており、当日は那賀郡美又村(現金
城町美又)で午前八時ころ、やや大きい震動が二回、午前
十一時ころには、益田市高島、江津、川越、大田地方で微
震があり、午後になってからは二時五十分ころには美濃郡
(益田市)以東七十七カ所に微震、三時十分ころ石見村(浜
田市)に微震、大震、八分前には二十カ所で鳴動があり、
四時三十九分から四時四十分ころに最大の地震となったと
伝えられ、大震四十五分前には国分(浜田市)、浜田浦の海
岸は約六〇~七〇㍍、海水が減退し、その他、石見地方の
海岸の水位は震前震後を通じて激しい減退と上昇をくりか
えし、一日内外でおさまったが、福光では五日間も変動が
あったという。地上においては地われ、隆起陥没がおこり、
地われでは南北の方向を示すものが多く、浜田では片庭、
原井、新町、工町(現京町)、蛭子町等の道路がわれ、幅一
㍍、深さ二㍍あまり、長さは二〇~三〇㍍に達するものも
あった。これ等の亀裂からは水や砂を吹き出し、田町の低
地には、わき水のため、深さ二〇㌢におよぶ水たまりがで
きたという。
 土地の隆起陥没状況は、簸川郡遙堪村入南部落の耕地約
五㌶、園村一・三㌶、久村砂子高さ約七㍍の丘が陥没、荒
木村荒木が一部隆起、久村砂子の陥没地周辺が隆起、石見
地方では海岸線の沈降隆起が多く、黒松西方約二㍍沈下、
渡津、江津沿岸がやや隆起、久代海岸、松島金周布、畳ケ
浦、唐鐘海岸は、いずれも約一㍍から二㍍隆起、下府海岸
は五〇~六〇㍍にわたって陥没、浜田川以東およぶ(ママ)瀬戸ケ
島付近は陥没、青川付近から福井海岸は隆起、長浜海岸は
一㍍あまり沈下、折居海岸約一㍍沈下という状況であった。
 家屋、住民の被災は浜田町が最も激しく、全壊戸数は六
三〇戸で浜田町全戸数一八八〇戸の三四%になっており、
大内村(美川)、祖式村(邇摩郡)の二〇%がこれにつぎ、
石見村(浜田)は一八%、漁山(美川)は一〇%、長浜、
周布は七%、大麻、伊南(後野)は六%となっており、浜
田町内でも片庭町、琵琶町、牛市町が最も大きな被害を受
けている。死者は五三七人といわれているが地震に伴う火
災による焼死も多かったことと思われ、浜田県報告では浜
田町九七名となっているが、一方古老の記憶では一五五名
となっている。この数の相違は、浜田町に石見村等を加え
た数かとも思われる。
(中略)
 浜田町の統計において、浜田県届出と浜田町区別の全壊、
半壊家屋数の相違については詳細はわからないが、焼失、
倒壊を合わせて全壊とすれば六三五という数になる。
 浜田における明治の碩学藤井宗雄は当時のもようを、「震
譜」において次のように書き残している。(中略)
 なお、「震譜」ではこの災害について損害額三十万円とみ
ており、政府は死亡者の葬送料として二円ずつ下付、飢餓
に対しては男に米三合、老小婦女に二合ずつ数日にわたっ
て救助し、仮屋を建てる者には竹木やなわを給し、大橋河
原に仮長屋を建てて避難民を収容し、三名の医師を派遣し
て病院を設けてけが人の治療にあたらせ、土木関係では、
溝、水除、堤、街道の修復のために夫役の扶持米を給付し
て事態の収拾と復興の方策を取ったと述べているが、さら
に、この地震の余震は翌年十月ころまで続いたという。
 余震 この震災当時は、観測施設の不備によって詳細
なる記録は残されていないが、後野における震動状況は岡
本甚左衛門の筆記によると、(中略)
 このほかに正確な記録は見いだせないが、藤井宗雄の「震
譜」には翌年十月頃まで続いたとあり、このような余震の
継続は被災者の不安を、いっそうつのらせ家屋の復旧もお
くれ、震後三~四日も仮屋住いをしていた地区もあったと
伝えている。
 浜田大地震以後も幾度かの地震はあったが微震程度のも
のが多く、中震も他地方に震源地を持つものの影響下にあ
り、明治三十八年(一九〇四)十二月八日瀬戸内海中部に
おこった地震は、内海の中部を中心に南北に帯状をなして
広がり器物が倒れ、時計が止まる状況であった。また、大
正十四年五月二十三日の但馬地震では、浜田町民が戸外に
とび出すという程度、昭和二年の北丹後地震、昭和十八年
の鳥取地震とそれぞれ日本海側における地震の余波を受け
ている。
 浜田町民は明治五年の震災を記念して明治二十九年牛市
に次の記念碑を残している。
玄黄之変何時乎不無焉蓋要平生之備耳明治五年二月六
日地大震浜田市街地裂家倒加之祝融四起人畜死傷繁華
之区一日為墟如我牛市最為劇甚戸数八十有三或顚覆或
焼亡其残留者僅三戸人口三百有余或圧死或火傷死者四
十有二名傷者百有余名有死別之鰥有生訣之寡有亡親之
孤有失子之独甚則有一門絶滅之家一閭之人悲鳴哀号住
無地居無家幾多之生命与財産共帰烏有父老曰浜田之地
古来多地震近之則有安政元年十一月五日及六年九月九
日之災当是時棟傾庇落人人避難於野外然而明治五年之
災最惨尤劇是日曇天無風午後有微震至日暮而俄然大震
家屋忽倒蓋如上下動者災後尚有微震数月不止前年之冬
井水涸大雪降東北之海上有赤気瀰天今也家屋櫛比居民
安堵既無惨劇之跡可謂能奏回復之効居治而不忘乱在平
生而不遺災異者其庶幾乎
明治二十九年二月
(裏文)明治五年之災距今二十有五年某等有所感協本碑建設
之議聊尽微力而漸見竣功撰文者大岡哲氏
書之者永生万忠氏建之者牛市人民也
発起者 玉置啓太 田野億次 古井広吉 下浦常太
郎 記
本記念碑移転竣功主唱者 石津平造 櫨山虎市
大正十四年十一月 区長 高橋浅吉
共有金総代 清水升市
 浜田地震 明治五年二月六日(旧暦三月十四日)午後四
時半石見全域を襲った浜田の北西海底を震源とする地震
は、マグニチュード七・一といわれ、焼失家屋二三〇軒、
倒壊家屋四、二五六軒、半壊・大破を合わせると一万二、
一六三軒で、死者五六一人、傷者五七四人と、被害は那賀・
邇摩・邑智・安濃郡に及び、美濃郡では高津村で二軒の全
壊家屋があり、同村北西岸の砂丘が三尺(約一m)陥没し
たといわれている。
当時の状況を二条村誌は次のように記している。
 当地方にあっても、地震脈に当たるところは、西より
東に走って地割となり、震動の度毎にバラバラと四、五
寸位の割口を開閉し、また、地すべりのところもあり、
墓石の如きものは、ことごとく皆倒れた。
 家屋の倒潰は僅少であったが、人心は競々として恐れ
おののいた。
 大地震は夕刻より始まり、同夜から翌朝までは強震が
止まず、殆んど強震動つづきで村民は寝もやらず所々の
氏神社頭に集まって、祈願の通夜をなし、いろいろ避難
の協議などをしたが、次第に震動は緩やかになり、微動
が時々おこる程度となった。
 震動は、次第に東に強くなり、高津地方よりは家屋の
倒潰するもの、また、傾斜するものが多く、被害は東に
すすむにつれ激しくなり、浜田に至っては全滅の形であ
った。
 この救援のため、当地方の村々から戸割残らず鍋、莚
などを出し、また役目にでて高津の海岸(川尻蠟座のと
ころ)まで運送した。
(註) 川尻蠟座とは、津和野藩直営製蠟工場で、所在地は
高津浜にあり、宝暦十二年(一七六二)津和野藩はこの
地に役所・建物・紛部屋を施設し、以来業務が盛んであ
ったが、廃藩とともに廃止された。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻1
ページ 255
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 島根
市区町村 浜田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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