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項目 内容
ID J1300003
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原〕
書名 〔地震紀類〕○小田原国学院大学図書館
本文
[未校訂](地震日記)
二月二日の日例のことく起出て朝飯たうべはてゝ書よみ物
かきなどせしに巳の刻はやゝ過る頃そこともなく物恐ろし
き響しけるを何やらんと思ふひまもなく地震ふるひ出てそ
こらなりはためく妻なる者は南のすのこに居たるが地震な
りいてたまへといふいふいはげなき女の子の遊ひ居つる脊
戸の方へゆきぬ己もいそかはしく障子あけんとするにとみ
に得あかざりしを辛うして庭に下り立ぬれと火の事の心に
かかればふたゝび内に入て遠つ祖より持伝へたる刀になき
父信基に故侍従の君の賜りたる宗光の脇差はきそへてかね
てかゝる時持のくべき心かまへし置たる九折を負ひ火桶を
諸手に持て出る程そこらの鴨居などの落るさま恐ろしふ
たゝび庭の外に立出る頃女の子に附き添ひ居たる家の侍野
辺池次郎がかしづきてうらの竹藪にありしとて妻と伴ひて
来あひぬ程なく板倉理右衛門とひきてともに畑中にあるを
ふたゝび強くふるひ出あたりふりはためき土けむり立のぼ
りて此程打つゞき晴わたりたるみ空もくらくなるまてに覚
へけるがしばらくして軽くなりぬうひこ幾世も板くらの子
もけさより大城の内なる稽古所に手習ひに出居れば共にか
しこのこと思はぬとにはなけれども此あたりは家つぶるゝ
までもあらざればそに思ひくらべてむかい人やらむとし思
はさりけるに外を見出したれば永岡某か来かゝりて稽古所
は潰にたれど二人とも駒場に出居たりと告るそともによろ
こびあふをりから足袋ながらに土をふみつゝ人もぐせずし
て帰り来ていへらくかしこはことに甚しくてからくして出
る折から倒るゝ柱に腕を打せつれどもさせることにはあら
ずかやうのきづはたれもうけ侍り五人六人は生死のわかぬ
もあり誰はとありこれはかゝりなどかたるに打おどろかる
後にきけばあるは梁にうたれあるは瓦に埋りなどして鍬も
て掘出したるなどもあれども皆命はつゝがなしとぞ十四五
より八つ九つまでの童百人あまりもつどひゐたるやのなこ
りなく倒れつるに斯つゝかなくものせしこゝの司々の心く
ばりかしこくこそ志ばしありて近藤守衛をいざなひつれて
唐人町なる石原のおば刀自をとはんとて立出るに猶ゆりや
まねば浜伝ひしていたるに砂場に出居る男女のなりわめく
こえ調度持通ふさわきかまびすし明神のみやしろより大手
の堀をはじめ町家は多く潰たれどもかしこはぬりこめそこ
ねつるのみことなることなければかへさに山本有浦をとぶ
らひて家にかへり武具一よろひと鑓一筋長刀一振から船の
来つらん時の品々入置たる長持二棹取出し竹藪の中に幕打
廻し土に畳を敷て夕陰になりて寒さ堪かたければ一よさけ
あたゝめて打のみ人々にものます藪にかくれて盃とるさま
は七賢人に似たれど欲する物はこざけにはなからんかし時
のまもたゆみなく強く軽くゆり動く御目付物頭町奉行は馬
にのり従者を引まとひ廻りありき町々の柏子木の音かまび
すし甲斐国小沼なる高尾親民来とぶらふこは竹花町にをり
あひたるがその家も倒れにたりといふ
三日天気よしけふはなゐもすこしかろくなりたれどもきの
ふのいたみにや多門御櫓を初けふにいたりてつぶれし家も
多くあり北隣なる小川義起か仮家にて浴してありと聞けば
さらばとて畑中に幕引は江て湯をわかし皆々ゆあむ四つ過
る頃より稽古所に掘出たる幾世の手習ふ具うけとりにこよ
とあればかれともなひて箱根口にかゝるにそこらの築地長
家ども潰れつれは二の丸まで一目に見渡さるゝに家を潰さ
れたる町家のものらこゝ人たまいに戸障子もて打かこひ
つゝ出居るさまあわれ也幾世をは稽古所にゐなして己は小
峯に往て見るに大地のさけ渡りたる広さ三寸もあるへく見
ゆめのさとなる服部寿太郎をとふ母家は半かたふきて外構
の塀皆倒れにたり門につゝきて己が姑の住居ある方は一き
わあれにたり孝太郎が伯父隣之助はこゝの高どのより飛た
りたれどもあやまりなかりしは幸なりきなど語る夫より母
刀自のさとなる里見弾正右衛門をとふこは門よりして堀(ママ)長
屋は半倒れたれども母屋はさせることもなしこゝを立出る
頃幾世も来あひたり伴ふて孕石求馬がり(ママ)とふこは外構こと
ごとく倒れて門と家居も半崩れにたりあるじ云へらくおの
れはもやのすのこにありしにいつこともなくひゞくおとす
やいなや家居と共に一丈ばかりも高く上りぬと覚えてそが
まゝ庭にまろびたりとぞ此家を出て幾世をばそが伯母をと
へとて小幡かりゆかしておのれは板橋村なる常光寺の墓所
に詣づ十が九つわゆり倒したる中にわが二柱のみはかはわ
きへよりしのみかはらざりしもうれし高祖父のみはかは立
てるまゝに真横に向ひたるもありし寺を出て此村の吉左衛
門と云が許へ此頃馬を預け置つれば立よりてきくかわれる
ふしもなしすべて此わたりはいたくゆりたりと見ゆるも多
し夕かたつきて南の方畑中に仮屋を移しぬ申過るころ寛治
岩原村より帰りたりこはその村の者なればかしこのさまを
見てかへさに竹の花法授寺の墓を直しこよとてけさ早くや
りたるが法授寺の墓は皆倒れて彼のわたりはまち家も多く
潰れにたりかれが宿なる里は四十あまりの家数なるが軒ば
の土をはなれたるは只一のみなればかれが家も潰れぬとぞ
そが隣なる塚原村は家数も多きがことごとく潰れて死せる
人もありそが中に何かし院とかやうばその口より下は土に
埋りて鼻のいきのみ通ひ居たるをけふの昼過る頃掘出たる
が手足は得きかざれとも命は助りたり又吉田嶋にては馬と
口とりと家あるじと三人一つに埋られて死せりなど見聞事
等を語るもいとあはれなり
四日天気よしなかのさまきのふにかはるふしもなし夜に入
てはあしから箱根の山になりひゞけば山や崩れんなど人々
いぶかる後にきけばこゝらの山には大石共のなかにゆるみ
たるが落るなりとぞ暁方門の前に馬の蹄のをとしてのれる
はかねて聞しける江戸の大目付なる松下元治がこえなれば
やがて御馬やなる富岡かり行てみるに元治がとみの公事に
よりて供人もくせず今日午過る比かしこを出て来れるなり
先づ殿の御前の御上をとひ奉るにかしこはなゐかろくて御
館の内かはれる事なしと云に心をちゐぬ此わたり人に聞伝
へて来つどふ嶋田大助がいへらく今日千度小路の魚商人が
いひしは二日には例の漁すとてこゝの海に船にのりていで
しにいづの国伊東の山動き出し高くなりひきくなりしする
と見る内海原に一筋の道を立て同じさまにゆり出し早川の
流に入て小田原より雨降山の方へと動き出しつ此筋におり
あふ船はふなはだをやぶられなどしてからふじて陸につく
にこをはづれ居たれば常にかわりたる事もなかりしといひ
しとぞあやしの物語なりけり
五日天気よしなひのさまきのふにかわる事なし入生田の紹
太寺の昭寮とふよふ方丈は芦の湯に浴しありて道ふたがり
たればあるかたちを知らず我遠祖の墓二つ倒れにたりと云
ふ松下元治朝とくとく己が衣はかまなととり着て大城に登
る大磯宿小嶋政業消息す梅沢よりあなたは軽かりしとあり
辰刻より安斉町小幡早川をとふさせる事なし三の丸に入て
広小路に出るに大城の堀石垣崩れ落櫓かたぶけるさまは云
ふもさらなり山本内蔵をとふ母屋半つぶる幸田町に出で岩
瀬をとふこは棟行十五六間もあるぬべき母屋の一尺ばがり(ママ)
東にゆりのきたり松山をとふ母屋潰たり辻磯田をとふ半潰
関名をとふ門も母屋も立る物なし飯田をとふ半潰なり捨が
たき物なれば物とらせて帰へるに仁科片桐をとふさせる事
もなし八幡山にて加藤吉野をとふいたくゆりたりとゆふ揚
土にて蜂屋をとふ母屋潰れたり伊田大山をとふ門倒れ母屋
もいたくあれたり嶋村をとふ半潰このわたりの士家潰るゝ
者多けれどしたしからぬはとはず半幸町岡をとふこもいた
くあれたり竹花町須藤町の町家潰家いと多くえゆきがたき
所さへあり大新馬場三浦をとふ此わたりはやゝかろきかた
なり義方歌やよみしととひければ初のいたくゆりて家崩ぬ
へん覚えければ「ゆるくとて持さゝえてよ久方の天つ御柱
国の御柱」とよみ侍しかば家のゆらぎやゝしづまりつとこ
たふれば義方わらふこのわたりの亡やしき潰たるは見へず
組の長屋には潰家も多くあり夕へになりてわ雨つよくふり
て仮やの中に雫たれいといとたへかたければ「人のよに思
ひくらべてたふる哉あさゆふ露のかゝるやどりも」
六日今日も猶ゆりやまざれどもきのふの雨にてすこし心な
ちゐし上に大風ふきて仮屋に堪えかたければ常の家に入し
も多かりしに何神何仏の告ありなどくさぐさのこと言ひ罵
るを無実を伝へて又々魂を飛してもとの仮屋に移りなどす
つれづれなるまゝに人々のいふをきけばきのふ竹の花町山
重といふ商人のつぶれねば調度とりかたつくるとてぬりこ
めに入てなゐもゆらぬ時に梁落て死したりとぞ又芦湯の亀
屋てふゆやどの妻は畑宿の楼にありて幼き子を抱ながら谷
へ落て面半かけとられしかども命は助りたりと云もありま
た片浦の石切共十人ばかり過ちありし中に江浦にて一人岩
村にて二人石のはさまにありて出る事なりかたくわめきて
ありければ竿の先にたうべもの結付て内に入れんなどいひ
あふのみ出すべき手だてなく石工ともあつまりてよるひる
たゆみなく石を切りて五日といふ日数をへて石を切崩せし
に一人死つるのみ残れるはつゝがなかりしなどゝかたるも
ありきくきく肝にこたへぬはなかりけり沼田の西念寺とい
ふ寺はさして家屋もそこねずしてありつるまゝ東の方へ六
尺ばかりよりしとぞあやしともあやし
七日天気よし今日も夜にかけては七度か八度もゆりたるら
んが江戸なる酒井田家より消息す宇野泰助来こは江戸にも
の学びに行たるがこゝのさま見んとて帰れるなり今日は初
午なれども稲荷まつりも心ばかりにて何事もことそぎたり
こたびのあらましを公にてしらべられたる書物司人にこひ
てみる驚かれたる災なり今日は城の下の町家に米をたふ
八日天気よしなゐのさまきのふにかはれることなし今日も
町家に米をたふ
九日天気よし夕へになりて風ふくいづのくに三嶋宿山本義
香来とふらふかのわたりはいとかろかりしといふ早川村の
山道二里斗か間所々埋りて往かたかりしをけふほりあけた
りとぞ又同じ村の油屋てふ家の裏にあたりて大きさ六尺ば
かりもあらん大穴出来て深さはかりがたしといふいかなる
ゆへなりけん
十日晴よるひるにかけて三四度なゐふるみなかろし小川義
起がいへらく此程はなすこともなくさうざうしきを女の子
をいて夕飯たうべにこよといへばかゝる事の後のかたらひ
草ならんとてゆく畳三ひらばかり敷たる仮屋に六人七人入
こみて飯たらふかくてもすまさるゝものなりけり
十一日晴なゐのさまきのふに同じいぬる朔日の夜より四寸
五寸ばかりに小き星のつどいて形けたになりたれが夜ごと
子の刻にあらはるゝとなんいにし年信濃国になゐのさわき
ありしをりも彼国にては此星見へつと人々いひのゝしれば
こよは出て見たれどもさるものありとも見へず今は出ずな
りにしかあるはあとなしことにや
十二日木の工よひて家のゆがみつくろわす来つとふ人々の
かたるをきけば箱根路は山の頂より日毎に大石崩れ落ちて
二日より往来をとゞめられしが九日より道やひらけにたり
又土肥の方は六日のなゐ強くふるひ川村の方は九日のなゐ
にて山々いたく崩れ湯本はきのふのなゐつよくて戸障子は
づるゝばかりなりしとぞ道の遥かに距れる処々のかくこと
なるは如何なる故にやこたびのなゐは専ら足柄上下の郡の
みにて陶綾大住の二郡伊豆駿河の国々にはいとかろかりし
中に駿河の竹の下のみ足柄郡にかはる事なくつよかりしと
ぞこゝは古歌にも足柄の竹の下道とよめればそのかみは相
模の内なりしにないのさまもて考れば土の厚さなども此国
と等しかりけん
十三日昼一度夜一度なゐふる雨ふりて暮頃に晴る今日も木
工来て家の破れつくろふ今も猶夜毎に廻りあり
十四日晴なゐのさまきのふに同じされど日を経るに従ひて
やゝかろくなりつれば今日は常の家に戻りぬ今日きつどふ
人のいへらく辻甚四郎か家うらなる井の二つこたび潰れつ
るに中よりなめらてふ蛇多く出てたりければとりて捨つる
に水四斗を盛るべき桶に一つ余りありしとぞ其蛇皆眼見へ
ずと云
十五日やゝかろし中沼村のもの云六十あまり家半は潰れ半
はゆかみ破れ有しまゝなるものは何一つなしかのわたりの
村々皆同し様なりとそ
正兄曰苗子のみにて名のなきは皆苗子と記されしなり後
に書入るへき為なるへけれと今はすべなけれは苗子のみ
記せり又遠き方より問ひこしは記されたれど近きわたり
の人のとひたるは記されず煩しければなるべし此事序に
記す
附記
古記曰元禄十二年十一月廿二日夜関東大地震小田原尤患箱
根山崩湖暴溢
陽成天皇元慶三(ママ)年九月諸国地大震相模武蔵特甚数日不止公
和廬舎無一全者百姓多厭死地陥道路不通
おくかき
古き諺におそろしき物の第一に数へ来れるは地震なりおの
れ若き時さる恐ろしき事に二度あひたりそは嘉永五(六カ)年二月
二日の小田原地震と安政二年十月二日の江戸の大地震とな
り安政の時は嘉永に較ぶれば小田原わたりは軽かりきをよ
びをれば三十九年の昔なりけり程へて其折にはかしこに
かゝりし事ありきこゝにもさる事なんありしなと物語れは
若き者は珍しかりけりさるに此程ふと吉岡信之うしの嘉永
五年の日記を見出たるにいとつばらに其事を記されたりい
とも噪かしき中にて物せられたる下かきの物にて読みとり
かたき処の多かるを二月二日より十五日までを辛うして書
き清めてかく物せしは人々にも見せまほしくてなんかしこ
明治廿三年ふくすみ正兄しるす
石原重顕曰く元禄嘉永共に旧藩の調書類あり賛成員古田
元清兄の所蔵にかゝる同兄に乞ふて次号より掲載すへし
且つ余の古老より聞くところもあるべし予め告け置くの
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻1
ページ 10
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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