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項目 内容
ID J1203288
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1859/01/05
和暦 安政五年十二月二日
綱文 安政五年十二月二日(一八五九・一・五)〔石見〕⇨十八日
書名 〔日原町史 下〕○島根県鹿足郡
本文
[未校訂] この地震に関する津和野領の詳細は判らないが、児玉
家資料によって須川地方の状況をみて置きたい。
 須川八ケ村庄屋児玉貞助の枕瀬代官への届出書類控に
よると、十二月二日夕方より地震があり、八時頃が最も
激しく、翌三日届書執筆中にも「今以て其気味御座候」
と記している程で、次に地震直後の届出と、その後の報
告書を掲げて実情を知ることにしたい。
恐乍ら申上奉る口上覚
一八幡宮本社 須川村
但、右社内に祭来り候、天満宮・稲荷社、此両社
共残らず相倒れ申候
一峯破損 三ケ処 右同村
心覚、深田・五郎介家背戸・観音平
但、目立ち候分に御座候処□□の損しは只今余分
御座なく候
一須川村ゟ須川谷村、奥郡往来筋、峯崩れ幷に谷川水
除損等も所々に出来仕候
右は昨二日夕方ゟ地震仕り、夜に入り五ツ時は至て烈
敷、今以て其気味御座候行掛にて、前件の通り損出来
仕り、苦々敷仕合に存奉り候、右の外人に寄り家敷廻
り、田畠地割れ等も出来仕候に御座候、此段御注進申
上候処此の如くに御座候 以上
(安政五年)午十二月二日 須川庄屋児玉貞助
河村八右衛門殿

御尋に付申上奉る口上覚
一本家壱軒 須川村下作作左衛門
但元来古家に御座候処、大黒柱・梁共に折れ、懸
物等はづれ、住居相成がたく、添柱幷に切はり仕
り、当分相住居申候
一本家壱軒 相撲ケ原村百姓嘉蔵
但、前同断の所、床の下庭共地割れ、敷は雨垂通
りゟ外、三寸程割下り、後ゟ峯破少し出で候分押
候趣にて、大床はづれ柱折れ相なる儀、助柱に当
分相住居申候
一酒蔵壱軒 同村児玉貞助
但、元来古蔵に御座候処、此度柱弐本、懸物壱本
共折れ相傾き申候
一本家壱軒 須川谷村下作定吉
但、元来古家に御座候処、柱折れ敷相傾き、住居
出来仕らず候
一本家壱軒 滝谷村百姓啓蔵
但、駄屋の前の懸(崖)雨垂通り地割れおしひら
き、柱折入り後へ相傾申候、元来屋敷床曾根にて、
前後土地狭く、旁住居出来仕らず候
〆四軒
右は先達て地震に付、損家御尋に付申上奉り候、右の
外家の前石垣崩れ、屋敷床響き入り、岩落ち等にて少々
の損□□、且又背戸山口割れ相見え、此上の所懸念仕
り候類は、書上仕らず候間、此段宜しく仰上げ下さる
べく候、願上け奉り候 以上
午十二月 須川庄屋児玉貞助
河村八右衛門殿
右の被害に対して津和野藩では、特に本家倒壊の百姓
四軒に対して(枕瀬組で他に二軒あり)次のように現米
壱斗五升宛を渡した。

枕瀬組
住居相成らざる家
一米壱斗五升宛 六軒
右は先達て地震に付ては、不慮に損害出来、右の者共
難渋致すべくと御気をつけられ、前段の通り下し置か
れ候条、此旨御承知、早速現米相渡し、来夏御勘定立
に取計候様、御申達これあるべく候 以上
十二月廿八日 地下目附
郡奉行
次に地震によって出火した滝谷村の庄屋下作嘉八は、
次のような仕末書を須川庄屋に差出したが、庄屋児玉貞
助は嘉八には「慎み」を申付け、枕瀬代官には右の状況
を届出て、その指示を仰いだ。
御尋に付申上口上覚
私儀、昨昼時分日原へ用向にて罷出候留守にて、女房
儀三ツと当才の小児連れ罷居候処、暮合前に地震烈敷
御座候に驚き、能々火留仕り、近所へ罷出候処、地震
止み申さず、女房も留守の事は一向気付き申さざる内、
夜に入り帰りがけ、凡そ五ツ過とも存候時、又々地し
ん強く相成候て間もなく、留守に当り火の手相見え仰
天仕り、走り帰り候えば、居宅・駄屋共一面の燃上り、
一向内へも得入り申さず、真に丸焼に相成り、恐入り
心痛仕り候、右御尋に付申上候処、斯の如くに御座候
以上
午十二月三日
滝谷庄屋下作
嘉八
児玉貞助様

御届申上口上覚
昨二日夜五ツ時過ぎ、東へ当り火の手相見え候処、同
夜中の儀は、始終絶えず地震仕り、一家内寄集り、夜
を明かし候行掛にて、気遣い罷居候処、今朝滝谷村下
作嘉八と申者、居宅・駄屋焼失の趣承り、驚き入り讃
談仕り候処、全く麁相火にて、怪我人・類焼等も御座
なく、作牛は素より所持仕らざる儀にて、委細別紙口
上書御覧に入れ奉り候通に御座候て、何共苦々敷心痛
仕り候、右に付ては火の元の儀、兼て手堅く御示の趣
これあり、麁相と申乍ら甚た相済まざる儀に付、本人
嘉八慎申付仕り、此段御届申上奉り候間、宜しく御執
成し仰上け下さるべく候、願上け奉り候 以上
午十二月三日 須川庄屋
児玉貞助
河村八右衛門様
 しかしこれに対して藩役は、慎しみはその儀に及ばす
と次のような申達を下した。
滝谷村下作嘉八、去る二日夜、居宅ゟ出火焼失、類焼・
怪我人これなく候得共、兼て手堅く御示の火の元麁相
致候に付、庄屋ゟ慎申付置き、届出の書は差出され、
御沙汰に及び候処、慎その儀に及ばず候間、此旨御申
達これあるべく候 以上
十二月十二日 地下目付
郡奉行
 次で津和野藩では注進による地震被害地の検分のた
め、十二月十四日下役人をして、枕瀬組・大屋形組・長
安組にそれぞれ出張させた。枕瀬組では和田村からはじ
めて次々に庄屋の案内で一応現地の被害調査を了った。
 しかしその後も田畠・溝手等の被害は続々届出があり、
わけても須川谷村の水田のうち壱町歩にかゝる溝手は、
地震によって荒石の落込み・石垣・土手の修覆などは、
個人や村の力では及び難く、翌年春の藩直営の御夫掛に
依る他に手段はなかった。その他に往来筋・村内作道・
家廻りの損所にいたっては、その復旧は到底早急には望
めない情況であった。このため須川庄屋児玉貞助は、次
のように枕瀬代官に歎願した。
御内々申上奉る口上覚
先達て地震に付、荒々御注進申上候儀に御座候処、尚
又追々見分仕り見候得は、須川谷村の内、田方壱町余
へ相懸り候溝手、右地震にて荒石余分落込み、幷(ママ)に付
石垣土手等、所々相損し、直し方甚た六ケ敷相見え、
来春に至り、御夫掛願上げ奉らでは、相叶わざる儀に
存奉り候、且又、往来筋、村内作道、幷に家廻り損取
調べ、田面の損等人により捨置難き参り掛りに御座候
処、力に及び内輪に取済し方仕らせ候心得には御座候
得共、必至難渋の参懸りに御座候て、心痛仕り候、彼
是宜しく御含み下し置かれ候様、願上げ奉り候 以上
午十二月 須川庄屋
児玉貞助
河村八右衛門様
 こうして翌安政六年(一八五九)三月に入り苗代ごし
らえの時期となると、須川地方の出水懸り・涌水懸りの
水田は、前年の地震のため水筋の変化等による渇水に不
安を抱きはじめた。須川庄屋の枕瀬代官への報告による
と、次のように田方九石八斗六升蒔の水無田を生じた。
恐れ乍ら申上奉る口上覚
一田方九石八斗六升蒔 頃日水無辻

三石八斗弐升蒔 須川村
三石壱斗七升蒔 相撲ケ原村
六斗蒔 岩倉村
三斗八升蒔 笹ケ峠村
壱石八斗九升蒔 滝谷村

右田方の儀、先年ゟ出水懸り、尚又涌水等にて作方仕
居候処、去冬以来地震に付、追々渇水に相成り、只今
にては地面水口迄も旱場、差掛る苗代の儀も調方出来
仕らず、一統何共苦々敷仕合に存奉り候、右に付ては、
未た梅雨中迄の日数少なからざる儀に付、此上穂野記
により、出水御座あるべき哉にも存奉り候得共、此段
申上奉り候間、宜しく仰上げ下さるべく様願上奉り候
以上
未三月須川庄屋児玉貞助
河村八右衛門様
 こうした水田植付期を控えて、水に対する不安が解消
しないまゝに、五月十六日にいたり大降雨があった。そ
してその夜のうちに、地震による地割れその他の場所か
ら、続々と峯破が抜けはじめ、その数は六五ケ所に及ん
だ。須川地方では各村を挙げて、とりあえず植付可能な
水田への溝手をはじめ、埋没河川の掘明けなどに全力を
尽した。その須川庄屋の詳細報告をみると次の通りであ
る。
恐れ乍ら申上奉る口上覚
一田方拾六ケ所
此畝数凡そ八反七畝弐拾歩
但、弐反八畝弐拾歩植付相済、五反拾弐歩未だ
植付仕らざる分共
一楮畠三拾三ケ所
此楮凡そ五拾弐釜
一溝手拾六ケ所
一落井手壱ケ所
一川築埋四ケ所
右の内 須川村
田方五ケ所 此畝数凡そ三反八畝歩
楮畠五ケ所 此楮凡そ弐釜弐束伐
溝手三ケ所
落井手壱ケ所
川築埋三ケ所

大倉谷村
楮畠八ケ所 此楮凡そ九釜三束伐
溝手弐ケ所

相撲ケ原村
田方八ケ所 此畝数凡そ三反六畝歩
楮畠拾壱ケ所 此楮凡そ拾五釜四束伐
溝手五ケ所
川築埋壱ケ所

岩倉村
田方壱ケ所 此畝数凡そ壱畝弐拾歩
楮畠壱ケ所 此楮凡そ五束伐

須川谷村
楮畠五ケ所 此楮凡そ九釜伐
溝手五ケ所

滝谷村
田方弐ケ所 此畝数凡そ壱反弐畝歩
楮畠三ケ所 此楮凡そ拾六釜伐
溝手壱ケ所

右は去冬地震の節、地割れの場所其他共、過る十六日
の大雨にて、同夜中ゟ所々峯破出で候、内六拾五ケ所
にて前件の通り損出来仕り、苦々敷心痛仕り候、右に
付ては早速より人別相□植付出来の所、水掛り溝手損
はじめ、川埋等に力を及ぼし掘明け心遣仕り候儀に御
座候処、右の段荒々御届申上奉り候、極々差詰り候得
ば、近々取調べ申上奉るべく候間、彼是宜しく仰上げ
下さるべく候、願上奉り候 以上
(安政六年)未五月廿日
須川庄屋
児玉貞助
河村八右衛門様
 右によると小倉谷・笹ケ峠の二ケ村が被害がなく、田
方の被害では須川・相撲ケ原の二ケ村が最も多く、楮畠
は相撲ケ原・滝谷村が最も多くうけている。
 しかしこの峯破抜けは最も重要な田植時期だけに、そ
の復旧に努力を払ったことは、庄屋の須川八ケ村の田方
植付注進をみても、第一回の五月十日に一町二反、第二
回の五月廿日すなわち峯破抜け直後に三六町と例年に比
べて非常に少いが、兎に角最後の六月九日の注進による
と、五一町余を植えて、八ケ村の植付生畝八八町二段三
畝を完了していることが判り、恐らく涙ぐましい努力を
払ったものであろう。(「農業」―「生産技術」―「植付
報告」参照)
 以上の努力と共に、已に三月の報告にみた渇水田の植
付不安の九石八斗六升蒔も、梅雨期の濶(ママ・潤カ)いによって解消
し、須川庄屋は枕瀬代官に次のように植付皆済を報告し
ている。
恐れ乍ら申上奉る口上覚
当村方の内、去冬地震に付、出水払底に相成、植付の
処千万覚束なく、田方九石八斗六升蒔、当春御届申上
奉り候処、其後追々存の外、潤い継ぎ宜敷、頃日迄に
右穂野記残らず、一応の植付皆済仕り候、此段御届申
上奉り候間、宜敷仰上げ下さるべく候、願上奉り候 以

未六月
須川庄屋
児玉貞助
河村八右衛門様
出典 新収日本地震史料 第5巻
ページ 375
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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