[未校訂]嘉永五年(一八五二)十一月の石見地方の地震からこ
のかた、毎年のように地震がありましたが、安政五年(一
八五八)十二月二日夜午後八時には、美濃・那賀郡から
鹿足郡はもとより出雲地方まではげしい地震があり、四
日までつづきました。この地震で須川では八幡宮にあっ
た天満宮と稲荷社が倒れ、三カ所ほど[山崩|つえ]がぬけ、家も
五軒ほど柱が折れたり軒のもとがはずれて傾いたりして
住むことができなくなりました。また滝谷の庄屋下作嘉
八のところは、地震によって出火し全焼しました。これ
について須川庄屋児玉貞助に出した口上覚には次のよう
に書いてあります。
私儀昨日昼時分日原へ用向きに出た留守に女房が三つ
と一つの子供をつれておったところ、暮合い前に地震
がはげしくゆったので、驚いてよくよく火をとめて近
所へ出ておったところ、地震がやまず、女房も留守の
こと一向気がつかず、夜になって凡そ五ツすぎ(八時)
帰りかけたところ又々地震がはげしくなって、間もな
く家の方から火の手が見えたので走って帰って見る
と、本屋駄屋とも一面燃えあがっていて家へ入ること
ができず、丸焼けになりまことに恐れ入り心痛してお
ります。
これについて、庄屋は火の元の儀はかねて厳重に注意
するようお示しがあるのに麁相とはいいながら相すまぬ
ことだから、嘉八に「慎しみ」を申しつけ、代官へ届け
出ましたが、郡奉行からそれには及ばぬといって来まし
た。