[未校訂](永出永壽坊徳歡手記)
大地震大塩(汐)入控
安政三丙辰歳七月廿三日九時、始には但(ママ)々地斗ゆつくと
相ゆ(震)り申候が、中頃には人々うごがされほどに相成、す
でに壱時半斗相ゆり申候、其時山よりかへりがけに御座
候間、そのまゝにてかいがん(海岸)を見たくおもへ、尚又其年
拙者子共女の三ばんめ福恵と申むすめ沢村千蔵と申舟大
工の所へよめにつかはし置申候間、其子共行江(衛)は不及
申に、外に村方親類中へも見舞幷に諸万事為きゞ申候
ニはせ参り、所々見わたし申候は、先鈴子鳥居のかさ迄
塩水参り、其の頃盛岡あいだのかつて山々罷越、甲子洞
泉六兵衛殿山を切、材木相さげ、松原すか前へ都合八九
百本も、さんにつみ置申候しが、其材木さんにつみ置候
通り鳥居の根迄水にのりて参る也、又鈴子家の下わきに
は、いわし(鰯)かごなど其の下り小舟二そう松原にしづみ、
山の根は三百五十石上下の大や舟、場所金丁の舟と、か
しの権治郎舟とにそう山きは迄参る也、万用其の通りな
がれ申候、松原・嬉石家々の義は家の中へ塩水五尺位づゝ
はいる也、こく(穀)物諸道具は不及申也、釜石は上ノ沢の
石垣のね迄上る、かし前などは、すでにのぎ(軒)の根迄上る
也、沢村は三徳屋のはし(橋)の根迄上る也、せい(制)札は[上|かみ]の喜
代八殿前迄なかれる也、小かる(小軽米)前酒屋みのあるこが三本、
まがるかべ板かぎ迄みな打くだけおちる也、場所は
こんやか(紺屋の別家)まどながれる也、只越通りは勘兵衛家幷に家数
十四五けんもながれ也、外にばんた家もながれ申候、上
只越の義は大下の家の前迄、十二神前迄田畑みなしたり
に相成申候、十二神前ゟ大渡迄によいだ(与板)小舟迄、からなみ
(唐浪)前平石迄よ板どう舟(胴舟)まで十二そうほどながれきたり、又
家財の物はいろ〳〵の物うしなうと申なり、水のあがり
たる事は河まゝのぼる事なら、水のほど〳〵にて鳥ケ沢
かりばの下出迄のぼる(中略)、右の地しん大塩に付、其
年本家様を始として、御湯立御祭の義は、正一位大天場
権現初て村々内神〳〵〳〵様御祭之其数十七所斗、湯立
御祭これあり申候、なきむらは平田村と奥才子に無之相
済候、其年の地しんの義は秋迄ゆる、又正月七日まで少々
づゝ相ゆれ申候、先さびしき年に御座候