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項目 内容
ID J1100158
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔良寛書簡集〕
本文
[未校訂](前文略)
さむさハいかゝ御凌被遊候や さて今日はおほえなき
大なゐにて此辺も大さわきに御さ候 去なから内は難
なく候まゝ御案事被下ましく候 便りにうけ玉ハり候
へは其方ハまして大さわきのよし不安心ゆゑ長屋の者
共をたのミ鳥渡御きけんうかゝひ奉候 私も当時内に
居候 近比少し気分あしく候処二三日ハよろしく候
恐々
十二日
良寛様 由 之
 これは例の文政十一年十一月十二日三条地震当日の書
簡である。「大なゐ」は大地震のことである。この頃由之
は病気がちで出雲崎の実家に身を寄せていたらしい。そ
うでなければ「内に居」とか「長屋の者共をたのミ」と
は言わなかったと思われる。良寛は病気がちで不遇な弟
由之の身を案じて先に便りを出したようである。地震に
関しては十一月二十一日付三条の宝塔院住職宛、十二月
八日付渡部の阿部定珍宛、同日付与板の山田杜皐宛の三
通が良寛に見られるが、当日付のものは由之宛しか推測
できない。気の毒な弟に対する限りない愛情が感じられ
る。
(中略)
先日大地振世間一同の大変に候 野僧草庵ハ何事もな
く候
うちつけにしなハしなすてなからへてかゝるうきめ
を見るかわひしさ
来春寛々御めにかけ申上度候 かしこ
臘八 良寛
定珍老 良寛
○文政十一年十一月十二日の歴史的な三条地震の折の書
簡である。辰の刻というから今の午前八時か九時頃、
三条を中心にした大地震である。潰家、焼失家屋一七
四二、死者一七一人という惨事であった。寒気も厳し
くなる今の十二月半ば、それも朝食が終ろうかという
時刻である。焼失も多くなったはずである。良寛はそ
の詩歌の中で多くを語り、人心の退廃ときめつけてい
る。地震後良寛は三条の街へ行き、惨状を目の当りに
して次の歌を作っている。「三条の市にいでて ながら
へむことや思ひしかくばかり変り果てぬる世とは知ら
ずて」定珍と同日、与板の山田杜皐にも地震の見舞状
を良寛は送っている。
(中略)
三輪権平老 良寛
与板
こたひまねくおほみみたからをみめくみませりときゝて
あらたまのとしはふるともさすたけのきみかこゝろ
をわかわすれめや
良寛
○文政十一年十一月十二日の三条地震については先に触
れたが、与板地方もひどい災害であった。与板藩では
急場をしのぐために、与板の豪商たちへ命令して金や
財物を供出させた。それが文政十二年である。当時越
後はおろか、近国、江戸にまで知られていた大坂屋三
輪家は、最も多くの供出を命ぜられたらしい。この行
為に感激した良寛は、三輪権平に感謝の歌を贈ったの
である。「こたひ」は此のたびのこと、「まねく」は多
く、度重なるの意味である。また「おほみみたから」
は「み」が一字多いような気がする。
(中略)
地しんは信に大変に候 野僧草庵ハ何事なく親るい中死
人もなくめて度存候
うちつけにしなはしなすてなからへてかゝるうきめ
を見るかはひしさ
しかし災難に逢時節には災難に逢かよく候 死ぬ時節に
は死ぬかよく候 是ハこれ災難のかるゝ妙法にて候かし

臘八 良寛
山田杜皐老 良寛
与板
○地震は文政十一年十一月十二日の三条地震である。定
珍宛78書簡と同日付けである。恐らく良寛の所へ多く
の見舞い状が行ったものと思われる。これはそれに対
する返事の一つであろう。「うちつけに」はだしぬけに、
突然にの意味で見るにかかる。「はひしさ」は「わびし
さ」でつらく悲しいの意味である。「災難に逢……」の
部分は良寛の自然順応の思想がよくあらわれている。
また良寛の人生観というべきものである。
先比は帽子たまはり恭納受仕候
しはす廿八日 良寛
杜皐老 良寛
○良寛晩年の手紙か。老年の冬の寒さを気づかって杜皐
が贈ったものであろう。当時の帽子は布で作った、か
ぶり物をすべていい、頭布のことである。
(中略)
此度三条の大変承信に恐入候 御尊体如何被遊候や 宝
〓院御住寺如何被遊候や 三浦屋如何成候や もし命有
候ハゝ宜しく御伝言御懶上申候 其他[一一|いちいち]筆紙ニ難尽候
此方大ニいたみ候へとも野僧か草庵ハ無事ニ御坐候 御
心安くおほしめし被下度候 早々頓首
霜月廿一日
宝〓院御隠居様 良寛
○これは前にも記した文政十一年十一月十二日の三条大
地震の折の安否を気づかった手紙である。三浦屋は三
条の茶屋である。78・147の書簡でも三条地震を気づか
っているが、これは地震の中心地三条の隆全に宛てた
ものであるため、十日程早く出されている。良寛は宛
名の宝塔院の塔を石篇にしている。文中「もし命有之
候ハゝ」とあるから、隆全より三浦屋の安否は知らさ
れなかったので、悪くすると死亡したのではないかと
考えていたことであろう。なお頼とすべき所を「懶」
と書いている。
(後略)
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 572
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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