[未校訂](前文略)
三条大地震十一月十二日五つ時とも、巳の刻とも言われ
ているが、三条を中心に大地震があった。新
暦十二月十八日の八時から十時頃の事である。根雪にも
なろうという寒い時節だった。この地震のため、死者千
四百余名、傷者千七百余名、倒壊家屋九千八百余軒、焼
失千二百余軒、半壊七千三百軒にも及んだ。良寛をはじ
め、当時の識者達は、人心の弛みが招いた惨事だと警世
の詩文を表した。(詩文略)
良寛は右の詩の如く、この災害にはひどく心を痛め、
数編の詩を作っている。歌もいくつか見られ、良寛はそ
の惨状を目で確かめなければじっとして居られずに、三
条まで足を運んでいる。
大地震
もののふの真弓白弓あづさ弓
張りなばなどかゆるむべしやは
三条の市にいでて
ながらへむことや思ひしかくばかり
変はりはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらぬものは涙なり
人の見る目も忍ぶばかりに
目前の地獄絵に、良寛の目から涙が止めどもなく流れ
落ちた。肉親が死亡したというわけではないが、これこ
そ良寛の大いなる慈悲心というのであろう。
人々は太平の世に馴れて、足もとに不況の影が忍び寄
っているのをも知ろうとしなかった。贅沢へと人の心は
走り、易きについた生活は、元へ戻ろうとしても簡単に
は戻り得ない。良寛はこの地震を機に、「其の身を慎みて
非を效ふ莫かれ」と強い口調で警めている。良寛は他の
詩で、貪欲、言行不一致、虚栄、利己心、殺戮などを上
げて、人情の薄くなった事を嘆いている。しかしこの様
に強烈な口調は余りない。七十余の歳になっても、慨世
の気の強烈さに感じさせられる。
(中略)
与板藩主の震災供養さて三条大震災後、与板藩主井伊直経は、
与板町徳昌寺で藩内の死者の法要を営ん
だ。直経はこの時三十一歳で、藩主になって四年目であ
った。良寛は与板から島崎に帰った人より、その仏事の
話を聞き、感激して詩を作った。
恭聴於香積精舎「行無縁 恭しく香積精舎に於て
供養遙有」此作 此有文 無縁供養を行ぜしことを
政十一戊子冬十一月十二 聴き 遙かに此の作あり
日地振後 [此|これ]文政十一戊子冬十一月
十二日地振の後に有り
香積山中有仏事 香積山中仏事有り
預選良晨建刹竿 [預|あらかじ]め良晨を選んで[刹竿|せつかん]を建つ
受風宝鐸丁東鳴 風を受けて宝[鐸|たく]丁東と鳴り
交文憧幡参差懸 交[文|もん]の[憧幡参差|とうばんしんし]と懸かる
梵音哀雅鉦磬起 [梵|ぼん]音哀雅にして[鉦磬|しようけい]起こり
古殿窈窕栴檀薫 古殿[窈窕|ようちよう]として[栴檀|せんだん]薫る
僧侶森々霜雪潔 僧侶森々として霜雪潔く
往来綿々群蟻牽 往来綿々として群蟻を[牽|ひ]く
靉靆法雲覆瓦甍 [靉靆|あいたい]たる法雲[瓦甍|がぼう]を覆ひ
繽紛雨華翻山川 [繽紛|ひんぶん]たる雨華山川に翻る
賛歎声融連底氷 賛歎の声は連底の氷を融かし
歓喜心回艶陽天 歓喜の心は艶陽の天を[回|めぐ]る
昨夜有人与板帰 昨夜人有り与板より帰り
只道今日結良縁 只道ふ今日良縁を結ぶと
借問法会主是誰 [借|しや]問す法[会|え]の主は是誰ぞ
都此供養弁侯門 [都|すべ]て此の供養は侯門より弁ずと
吾聞是語頻落涙 [吾|われ]是の語を聞いて[頻|しきり]に涙を落とす
誠哉当時愷悌君 誠なる[哉|かな]当時の[愷悌|がいてい]の君
同類の詩は数首ある。また漢詩に次の和歌のある遺墨
も見られる。
ももなかのいささむらたけいささめの
いささかのこすみづぐきのあと
徳昌寺で法要がおごそかに行われ、全く美しく感じ入
ったと、与板から帰った人が告げた。主催者はと聞くと、
藩侯だという。誠に当代一番のやさしい明君であると、
良寛は賞賛している。詩の中に「艶陽の天」と記されて
あるから、仏事は春に催されたのだろう。
良寛は権力者を嫌っていたと言われるが、権力を嫌っ
ていたわけで、人自身を避けていたのではない。良寛の
戒語に、上を敬うことが述べてあるが、平和な社会を築
いてくれる統治者は十分認めていた。権力者である領主
にも、その情け深さには随喜の涙を流している。
また文政十二年秋、前年の大災害と同年の凶作のため、
与板藩では同町の富豪である三輪家と山田家に命じ、そ
れぞれ米三百俵を供出させた。藩ではそれに手持ちの資
金を合わせて、窮民を救った。良寛はこの行為にも心を
動かされ、三輪家の若き当主権平に、感謝の歌を書いて
贈っている。
こたびまねくおほみみ(ママ)たからをみめぐみませりと
きゝて
あらたまのとしはふるともさすたけの
きみがこゝろをわがわすれめや
良寛、由之兄弟は同年の頃、二人で歌を詠み合った。
現在残っているこの歌巻には、二人の歌二十八首と、以
南の俳句が二句載せられている。春から秋までの歌が並
べられてある中で、良寛の「てらどまりにをりしときよ
める」の長歌と、それに関する短歌五首がある。すると
この年の夏にも、良寛は寺泊の照明寺境内密蔵院におっ
たものらしい。
その他、先の三輪権平に贈った歌や、次の歌も歌巻に
見える。
うぐひすのこのはるばかりこぬことは
こぞのさわぎにみまかりぬらし
[去年|こぞ]のさわぎとは、三条大地震をさすものである。