[未校訂]一 文政の大地震と天保の大饑饉
事無き世が打ち続き、商人の活動も目ざましく、好況
を想わしめた天明の中期頃から三条町住民の生活状態は
次第に裕福の様相を呈して来た。それが、文化 文政の
年代に至ると、伝承にも有る文化興隆、庶民鼓腹時代で、
一般の懐中工合も概してよく、風俗に娯楽に、また趣味
に、まさに爛熟期の頂上にあった。その時、文政十一年
(一八二八年)霜月十一月十二日朝五ツ時(八時)に、
突如襲え来た大地震の災禍は、中越地方の一帯、即ち十
一藩領地に跨って猛威をふるい、全郷人を呆然、自失、
奈落の底へ突き落とした。就中、震源地といわれた三条
の被害は最も酷く、倒潰の家屋四四八、土蔵、板倉二七
四、次いで起こった大火災で、焼失家屋七六三、死者一
ノ木戸陣屋下、一四四人 村上藩領分二六三人(中、三
条一一四)傷者算無しと云われた惨状には、目を蔽わし
めるものあり、世上、一部には三条の滅亡説さえ、流布
されたというが、生存の町民は廃墟の中から奮いたって、
復興の働きに懸命となった。殊に鞴(フイゴ)と金床、
二三丁の鎚に浮沈の運命を託して、惨苦を極めた生活の
中から、鍛冶工が目の色変えて叩き出す金物が、災後の
家庭必用品として八方から買いとられたのは勿論、当然
の結果として次々に新規の金物が造り出されていった。
後年、雲山何百里、全国を股にかける健脚に、労れを知
らぬ行商といわれた三条人の活躍は、俄然目立って来た。
必死に叩く鍛冶工の腕と、懸命に売捌く金物商の脚、地
味ではあったが三条金物の販路拡張は、この時以後一段
と真剣に考えられるようになったといわれている。
附記、文政の大地震……世に謂う三条地震の被害地は、
中越地方一帯で倒潰家屋は長岡附近最も多くして
三六〇〇棟、即死四四二人だが焼失家屋は極めて
少く九棟、新発田領内では潰家一七七〇棟、焼失
一五〇棟、即死二〇七人、焼死一八人、村上領内
の潰家一三〇〇棟、即死二六三人その他全部で全
潰家屋一二、八三〇棟、焼失一、 一五五棟、死者
一八九八人であった。(附記の大要、大日本地名辞
書)
大地震後の三条には、後世に謂う、区画整理など無か
ったにしても、災後、町々の様相が多分に変更されたと
は、伝承に残るところであるが、この災害には三条に比
較して一ノ木戸の方が、より凄惨を極め、即死も多く、
滅失、没影の家財、什器も少くなく、特に記録資料も多
く失われたといわれる。この震災に際し、平素郷民から
慈父と仰がれていた一ノ木戸村の庄屋、小林氏八代の主、
九右衛門勝清は、罹災民救恤に縦横の快腕を振ったが、
勝清当時の活躍振りにつき、一ノ木戸天満宮由来記中に
次の一節がある。
文政非常の震災にかゝり、三条、一ノ木戸悉皆□潰し
有名の三条町だに一時は離散せしもの少しはありしに
一ノ木戸村はもとより薄力なる故全く死地におちいり
食物も支へしかば勝清日夜奔走し災かろき村々より炊
出をさせ又新潟川下げの収納米船一ノ木戸河岸に繫ぎ
ありしを即日炊出し出米に願おろし高崎へ両問の飛脚
往来一日もたゆみなく、一ノ木戸、裏館、其外へも米
を分ち、寒きをりなるに凍餓のものもなく、高崎より
用人菅谷次兵衛(属吏数人)江戸より用人土方弥次右
衛門(属吏数人)を遣はされ一ノ木戸詰、郡奉行堤新
八郎とはかり先の炊出米は皆下されて更に人別日数三
十日間の飯米を賜り家作るべきの料、毎戸金一両二分、
半潰には其の半を手当あり、手医師桑原秀辿を下だし
内外の治療夥しき薬代を施され、寺社及修験者へは米
俵被下庄屋十俵同半潰の者へ三俵宛何れも年賦返済、
勝清へは二十五俵被下、年賦返済の拝借に仰付られ人
民の歓声四境に達し、気勢益々相加はり一層稼方を励
み……下略
臨機、果断の措置、恩恵全郷を潤おした庄屋勝清必死
の活動思うべしである。一ノ木戸林町に、今は総て他人
の有に帰したが、旧小林邸址の一隅に祀られてある天満
宮は、実に小林庄屋由縁の神社だといわれている。
この災後に俄然増えたのは一ノ木戸郷の釘鍛冶であっ
たが、三条の鍛冶屋街の復興も活発であった。即ち翌十
二年秋に町年寄、目黒源之助の調査になる「軒数調」に
は、鍛冶町の表屋五十八軒、半五郎小路(裏鍛冶町)二
十一軒、隣接部落砂原は十九軒中、地所持久次郎一人を
除き他は全部長家住居……と書かれてあり、砂原がその
日暮しの人々の多かったことを窺わしめてある。
土手の三軒茶屋……むかし、荒町の城町渡船場より数
十年遅れて、五ノ町丑池土堤の中程にも渡船場が出来た
が、文政の末期既にその名を謳われた新渡船場口の三軒
茶屋は、松助、六右衛門、長蔵の人々であった(「軒数調」
旧町会所文書)。