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項目 内容
ID J1100108
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔越後国地震一件写〕柳河藩政史料・福岡県立文化会館
本文
[未校訂]古哥(歌)に
 あす有とおもふ心のあた桜夜るハ嵐の吹ぬものかハ
霜月十一日の夜八頃迄酒のみ、十二日朝迄折臥居候所、
みし〳〵と地震ゆり初め候へ共少しも驚不申、折臥候所
二階の家根大風ニ而吹まくり雨降こミ、戸障子落五尺計
まかり候故飛起二階ゟおり候、隙も無はりをよけ念仏を
申座し候而漸々地震鎮り、其間草煙弐ふくものミ候間に
御座候、夫ゟ下ニおり候得共壁もぬけ、地は二三尺位わ
れ皆々外ニ出て人の通なし、長く逗留故懇意の者も御座
候故上の町下の町へと歩候ニ家の潰候所多く、殊に嶋町
之大人とも申玉木七郎右衛門といふもの夫婦ともにはり
にしかれて死ス、其外追々死人之しらせに此世の地こく
を初に眼のあたりに見申候、長き逼(逗)留故二三里四角ゟも
多く頼当月の内に目出度帰府と心得候内如此壱里脇児の
木と申所の市右衛門と申名主是も相応の大人故此方江寝
巻のまゝ大小、着類を指置家も潰、まる腰にて壱里の 
をにけ参り候、風流の道かわ酒井胞谷も丸腰ニ而歩行も
被成候得共、夫ハ時ニとりての風流小子の身分武士の心
を忘れ候様ニ候得共
 十分此所ニ而ハ武家を勤候者不参所ニ候得共太小さし
歩行致候ヘハ懇意の者も心を置候故大小を預町人のも
ちいもよき事也
扨十二日燕町ゟ拾丁も過小高村と申ニ来ル、此所名主并
徳蓮寺と申寺も懇意ニ候得とも、家半潰壱夜も明しかた
く児木迄趣(赴)申候、当村家かず廿軒の余、高弐百石程一軒
も損候家無之候、扨十三日明かたゟ雪降申候、寒き中を
大きなるむすひ飯此程ねたり児木ゟ二里程御座候三条と
申所江昼後ゟ趣候
此三条と申ハ、家数千四五百軒続申候町、又裏館と申
所弐三百軒、又一の木戸と申処千軒ちかく皆のこらす
潰申候、まして三条ハ潰ると脇ばたきの内三四ヶ所ゟ
出火、つふれる上ニ焼失、死人三条計三百人位、裏館・
一ノ木戸百四五十人も有へく候、三条の御方と申候ハ
三百六十ケ寺の本坊ニて御座候、小子文通を請一宿致
候寺ニ御座候、浅草門跡ゟハ四歩一位ニも候得共相応
の寺ニ御座候、潰候と直ニ丸焼、其前の通[飯盛|めら]げいし
や共百人も可有之、飯盛計二三十人も死申候
扨二里之道を越る道に渡し場二つ有、道筋の土のわれ五
寸壱尺又ハ土手ハ廿軒(間)程もきれ候所も御座候、やかて三
条の焼場一覧御坊のまへ江参り候所夕刻ニ御さ候、死人
の残り弐十人計も見へ候得共人間の姿と相分り候者ハ三
人計、外ハ木の焼折候様ニ而人間のかたち見へ不申候、
三人のかたち其儘したゝめ候
 死人の近所焼残り候、道具もへ居候、手足服真黒ニ而
左のことし(図略)
三人共首わかり不申候、白骨もなし不思儀成ことなり
斯て御坊のまヘニ六十に相成候親父此位のかぶ(図略)
五六本持て大声ニ而啼て申けるハ、妻ハ左の手おれ、子
壱人有昨朝より飯壱膳もたへ不申候かぶをひろい焚三人
の命をたすかり候、是に焼飯五ツをあたへ候得ハ金百両
を請候歓ニ御座候
古楠正成公之死骸をひろわんと松本佐兵衛かなき候と
違ひ殊かハリ候
其外ハむすひ壱つ宛あたへ申候、彼是致候内夜更候得共
一宿致所も無御座候、夜の四ツ時頃裏館と申名主方へ尋
候へ共二軒の名主壱軒ハ千両も家ニかゝり候趣、弐軒共
潰此村ニ夜を明シ候所も無之、道場あしく、村役人ニお
くらせ再々三条御坊の前ニ出申候、村の送り者ニ死人何
程有哉と尋候に今日迄出候死人三拾七人と申候、又潰家
よりハ将棊たをし同様其中に釘を家業ニ致候者も候よ
し、弐十二三才のおんな家のうへになく声有、其ゆヘハ
夫ハ身をいためうごけず、子供も多く有、米なく喰事不
叶、御坊へ参り一舛の米の無心致十人余りニ而たへ候得
とも明日ゟ如何可致哉と申候、其節むすひ三ツ残り候を
妻ニあたへ申候、是ハ親父ゟハ別而歓申候、小子ハすい
づゝに酒五合を入候得共呑しまひ酒を求めんとおもひ一
の木戸に折々休候山城屋と申酒屋有、此家迄半道ニは参
り候所家潰れ多く、たまニ人の居候所ハ家根の上の住居
也や、わか此世の有様とハおもわれす夢のごとし(図略)
注、図の注に左の項あり
○家根ハ土間に附、木障(ママ)子ハはづれ、柱も外ニ有、
家根つたいニむすひを遣す
○三条ハ出火故家なし
○朝より雪七ツ頃ゟ雨
○道ハ両かハゟ家崩れ家根の上を越道と歩行)
斯て夜の九ツ頃雨もあかり月出候得共夜を明し候所も無
御座酒を売候家一軒もなし、扨三条の町家ニ米蔵焼、山
のことくニ火有り、是に立より土足をあぶり寒さをしの
き候へとも、米計の火と承り候ヘハ心なき故土足をと、
まりける、十二日五ツ頃の出火、同十三日夜の九ツ頃迄
上のことくもへ候も出火なれざる事とハ存候得共大変の
中に差図も致兼候
米直段平日壱俵百疋位の所二百疋ニも相成候得ハ、喰
事相成難き者もミえ候、中に米計の火ニ土足をあぶり
候者多く御座候是も恐敷候
長き夜ニ立て計居候事も難渋、九ツ半ころ渡舟を求十町
程も越し、少々家のいたみ候茶屋を頼一宿を明し申候、
地震ハ十二日夜の九ツ迄十二三度、十三日四五度、今日
迄も少々御座候、御連共最早つふれ候事とハ存不申候間、
逗留致居候、何れ少しも当地おたやかニ相成候内五日と
十日も居候ハゝ高田江罷越、夫ゟ帰府仕度心得ニ御座候、
命をひろい候所計御安心被下候
一当所ニ新敷肴又宜敷酒も御さ候ゆへつい久しく逗留仕
候、治ニ乱をしれす乱ニ治をしれすと古人の申候、昔
の地震は乱世故と覚又当八月九日鍋嶋様御領分肥前国
地震・雷・大かせ・大火・大水ニ而公儀御届之写之趣
書附左之通
一水下ニ相成候田畑 四千四百十丁八反
一砂下ニ相成候田畑 六百拾丁一反
一人家破損之分 三万三千四百六十軒
一同半破損之分 壱万四千五百六十五軒
一焼失之家 弐千百七十三軒
一死人 八千五百六十八人
一怪我人 八千六百六十五人
一牛馬 七百五十三疋
一落橋 弐百五十ケ所
一石垣壊 七百間余
一山抜ケ 二千八百二十八ケ所
一顚木 三千弐百九十五本
一堤切込 弐百九十四ケ所
一難舟 百五拾艘
右之書附一覧いたし候得共恐敷事と思ひ候のミ、眼前ニ
かゝる事を一覧致候小子の命も神仏おそろ敷ともいふへ
き、よふなし神国なれハ江戸ニハかゝる大変ハ有間敷と
覚候得ハ、孫彦の代迄も申伝度候、是眼のあたりの大変
なるへし
大地震の里村拙者居候燕町家百軒餘つふれ、外ハ弐三
百軒も有へく候へとも、皆横ニ成戸のしまりの家一軒
もなし、少しはなれ小高村壱里はなれ、三条町・一ノ
木戸・裏館ともつゝき候村町也、ヨイタ城下七里程是
も大地震大火人多く死ス、見附町是ハ六里程是も大地
震つふれ候のミ大事なし
新田村一里余、是も死人のミ、其外少しの村町凡つふ
れ家一万の余可有、死人之弐三千も有へく、けか人半
潰の家ハ何程に候哉難計、名主の家ニ居候ヘハ日々
所々ゟ参り候者直の咄シを爰に認申候
十六日夜五ツ過当国村上城主内藤紀伊守様御家来御領分
ニ付児来ニ、夜ニ入被越候幸に此状四ツ過ゟ急々認申候、
直ニ役人出立致され候ゟ少しの内ニ認候ヘハ、落字又ハ
わからぬ処宜敷御よみわけ可被下候、かくしたゝめ候内
ニも平日のつよき地震ニ御座候、命有てこそと丸はだか
ニ而も地震のなき所江可参と存候
一あわれの咄しハかす〳〵候得共、其中ニ三十位の女家
つふれ火ニ而足ゟ尻迄首計道中江出し、かなしき声を
上ケ、とふそ首を切てた(給)へ、尻も足も焼て不叶はやく
死たし首を切てくれよとさけぶ、是を聞て首を切居候
所江通り懸り候と直の咄に承り申候、たすけてくれと
申なきさけび候者ハ数知れす、百ニ壱ツ認申候、御察
可被成候
一七月中出雲崎と申所ゟ鳥渡口上書差上申候、此所へと
少々着類道具等さし置燕の町江画認ニ参り居候、つは
めゟ八九里も御さ候間出雲崎辺地震いか様ニ哉難計
候、され共私ハ少しのけかも不仕候事金子ニもかへか
たく候、何も貴面を楽しミ山之御物語可申上候
右一通り御一覧の上母方江御届被下候、佐之カナツケ抔
の失敬御用捨不備
右は高はし様江相勤居候者の子母江差越候文の写
但画書諸国遊歴いたし候もの
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 365
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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