[未校訂](表紙)
「
中越大変地震録 全
」
爰に文政十一壬子(戊の誤り)年十一月十二日五ツ時大地震ニて大
変出来、昔より老人も不及聞も老人方の咄し聞しに、其
昔、宝暦年中三月の節句に雪多ク有之に、大地震ニて雪
ありなから田畑山林大崩れいたし、命限りに年寄子供等
ハ竹藪を目掛ケに逃込ミ、竹藪に小屋を作り、我等か家
〳〵詠メぬれは、今は崩れけるかと見ひけれ共、潰れし
家はさらになし、しかれ共、七日中時々地震ニて竹藪江
逃込し儘ニて七日の日数を送りける抔と聞伝ひしに、此
度の地震と申ハ誠に地震とも名付かたし、西の方より南
の方に当り、どゞんと云ふより早く片時の間に数万軒の
家を潰せし事、秋の木葉の散る如し、将碁(棋)倒しに潰しけ
るこそ前代未聞のありさま恐敷次第申計なし、扨又、上
保内村と申ハ、昔明和年中柳沢弾正少弼様へ分郷地に相
成、高は八百余石は右弾正少弼様御領分に成居、残八百
七拾余石ハ御料所ニて暫ク石瀬御代官御支配所、夫より
出雲崎御陣屋比留間助左衛門様御代官御支配所、其後白
川の城主松平越中守様江御預所と相成、松平越中守様御
立身被遊、伊勢の国桑名江御国替被遊、今ハ桑名の大守
となり給ふ、則御陣屋ハ柏崎に有之、文政十一子年の大
震の頃ニて上保内村ハ家数百九拾余軒の村方、爰にまた
上保内村の山江入込し里村拾四ケ村有之、依之、右村々
の親村ニて繁昌いたし繁花の村方ニて、家作旁々迄も立
派の家々共も夢の間に弐拾余軒震キ潰し、其の内に氏神
八幡宮の神主播磨と云ふ社人壱軒、扨又、浄土真宗寺に
長泉寺と申寺あり、是ハ庫裏計りへた潰れ、本堂・太子
堂・鐘堂に至まて潰れ不申候得共、潰れ候も同断ニて痛
ミ剛し、扨又、村中に死たるもの老人三人、子供弐人外
に女馬壱疋死ス、扨も不思議のあれハ有るもの哉、むか
し語り伝ひに聞しに滝の沢と申聊の小沢なるに、螺の貝
大水の砌りつなかりて水諸共に海江落し抔と老人咄しけ
るを聞伝ひし折に、此度の地震ニて八郎と申百姓の家の
横山片岨崩れ落、暫らく水を湛ひ堤ミ見る如し、地震後
十日余り過て、村役人数多の人足を召連れ堀切り落せし
に、底にほらの貝弐ツありしを是者誠に生貝なられは、
村用の貝にいたさんと評議決談いたし、しからハ中実を
退ひて吸物酢貝にして一盃ひ呑まんと料理に取掛りし
に、貝蓋を聢といたし、中々蓋を取事不能、貝を痛メて
ハ村の宝にならす、尚いたして蓋を刎んと思安に(ママ)及し処
江老人壱人来て、螺と申貝は甚々酒を好むものと承る、
夫れ酒と云ふて上酒を口より弐合もつけハ吸込ミ、また
三合もつけハ吸込メ共口あけす、是ハ酒呑せ様たらす故
歟、今五合も呑せよ迚て呑せし処、漸々口を明し故、蓋
刎実をとりあけ、吸物・酢貝種々料理をいたし、村役人
始人足のものまて悦ひ呑し上ニて、此貝を今日の内に細
工人方江遣し、口を附させ、明日より普請貝にいたさん
と云ふ、俄に口を附させ吹き見るに、少も音を出し不申、
此貝は[瘖|ヲシ]貝なりと人足のもの共替る〳〵吹き見れ共音を
いたさす、夫より同村に貝吹きの名人に太五七と申百姓
有之、此上ハ太五七呼寄せ吹かせ可申抔と多五七方江人
足を遣し太五七に吹かせ見るに、少しも音をいたさす、
いよ〳〵此貝は瘖貝なりと投けれハ、此貝起キ上り我れ
は瘖貝ニてハなしと申ける故、村役人中人足一同申ける
ハ、我等替〳〵吹け共音をいたさす、依てきんか貝なり
と申けれハ、此貝申けるハ各々方ハほらハ甚々酒好物と
云ながら能クも思召て被下酒好もの酒五合哉七合ニてぶ
う〴〵出るものか能々思召被下抔と申ける、誠に生貝と
ハ如斯しと皆人驚きにけるとなり、扨又、枝郷に成沢ま
た二ツ山抔と申枝村ハ地高の所故歟、左程の痛ミなし、
其外の家共潰れすと云ふ計ニて、柱を折られ、梁木を折
られ、転び不申まてニて中々住居なりがたき当惑の体、
暫クの内外ニ地震小屋と名附日数廿日余り、地震止事ヲ
いす、村中のもの共小家に住居いたし居ル、其の内三拾
日余り、少々宛毎日毎夜南の方より、どゞんと云ふて地
を震わし、筆さきに書顕し、また咄しにいたし候より恐
敷事語尽しがたく、夫より隣村柳沢村には六、七軒も潰
れ家あり、死たるものには老人壱人、盲人壱人、其の隣
村上野原村ニは潰れ家壱軒もなし、死たるものも壱人も
なし、夫より東大崎村ニハ潰れ家数三拾余軒、死たる人
八、九人、また下田口浅(麻)布・中新田・籠場抔と云ふ村々
過分の痛ミもなし、五十嵐川を越ひ高岡村より村々の内、
鹿峠村と申ハ町家作りにして百五拾軒余りの家作りの所
ニて、弐、三軒も潰れ家有之由、夫より下田の内外谷と
申て、谷の内に曲谷村抔と云ふ村の家々ハ左程の痛ミな
し、しかれ共、山〳〵の崩れハ恐敷次第と承る、且又、
村松の城主様御領分にして、江戸表江登り降りの御往来
なれは、人馬の通行被成候往来なれ共、馬足差留り、所
〳〵江山を震キ崩し沢々俄に堤何ケ所ト云ふ数多ク出
来、扨又、黒水村より鹿峠村まて二里半余り有之所に、
殿様の御往来[赤|アカ]海道と申松原有之、昔より有来し松木故、
古木大木地震ニて往来江十文字〳〵に倒れし故、人馬の
足も留りけり、咄しより見てハ大きなる痛ミなり、同御
領分に大浦村ニも右の如ク山沢に俄堤何ケ所と申限りな
く出来、夫より堀丹波の守様御領分村々ハ壱万石と申な
らわせけれとも、弐万六千石も御物成上り候、村数ハ書
尽がたく、壱万石の所に大庄屋三本有之、鹿峠に大庄屋
壱人、長沢と申所に大庄屋壱本、森町と申所に大庄屋壱
本、右三組支配村数合百四拾四ケ村と及聞申候、下田の
内山〳〵谷〳〵より流れ落し川を名附五十嵐川と云ふ
ハ、其昔し五十嵐古文治(小豊治)と申、国土に誠に剛力武勇の大
名勇士の住荒せし古跡今に有之とかや、其後通船のため
迚三条裏信濃川江おとしけり、扨又、西大崎村江立帰り
見れは、町家作りにして家別百余軒の家并不残潰れて有
りければ、驚き其儘と見ゆる家五、六軒も有之、其家に
覗き見れは、今崩れかと思う計ニて中々住居なりがたし、
尤西大崎村より三竹村・坂井村・入蔵村・田嶋村・一ノ
木戸村・西裏館村・東裏館村・右村々不残高崎の城主松
平錫様御領分の内ニて有之候得共、入蔵村と申ハ家数六
拾余軒の所ニて小家三軒潰れ残り、死たるもの九人、三
竹村潰れ家九軒と承る、坂井村ニハ家数四拾軒計の村方
拾八軒も潰れ家有之、死たる人男女合七人死ス。扨又、
跡へ残し家も潰れ不申家迚も右に准シ住居難成し、田嶋
村と申ハ町家作りにして、其所を新田と名附置し、其家
数ハ百五拾軒も可有歟、不残潰れけり、本村と申所ニも
潰れ家拾軒余り、死たる人男女共合弐拾七人、夫より一
ノ木戸村ニハ前に書顕わせし村々此一ノ木戸ニハ高崎の
城主松平錫様弐万石の御陣屋有之、三条ニもおとらぬ繁
花の町家ニて、小路〳〵裏家共四百余軒も可有之、町家
作りも惣潰れ、残し家弐軒にたらす、死たるもの七拾人
余り、西裏館村・東裏館村両村合して弐百五拾余軒も有
之、是ハ百五拾軒も潰れ、死たるものハ書起に暇まあら
す、是を略す、松平錫様より前に書顕す御領分中、百姓
町人江日数三十日の内、男壱人ニ付一日に黒米五合、女
子子供江一日に四合夫持、家数人別江右之御夫持米被下
置候、其外金銭の御手宛被下置難有頂戴仕、夫より村上
の城主内藤紀伊守様御領内三条町、則三条町に御陣屋有
之、御高弐万石と申せ共、五万石余も御物成の御上納辻
有之、其の内三条町ハ殿様江金光有之三条町なれは、三
条の町人ハ格別御大事ニ被遊、三条町家別六千四百余軒
有之処、然ルに子四月廿二日の夜より廿三日四ツ時まて
六千四百軒の所弐千百余軒焼失、三条ニおゐても金持計
有之二ノ丁、三ノ丁目貫の町人裏表共に焼失いたし、し
かれ共分限共故歟、同七月七日前まて残らす普請出来上
り、賑々敷七月七日市繁昌いたし候処、同年の十一月十
二日五ツ時上刻に六千四百余軒の町家不残将碁(棋)倒しに
潰しける、尤も十二日ハ市日なれハ朝起いたし[竈釜|ヘツツイ]に鍋
を仕掛ケ火を焼付し処に、地震故其儘ニて逃けさりしか
ハ、煮売店ゟ火を余し、五の町に三ケ所火余る、また四
ノ丁より壱ケ所、三ノ丁より壱ケ所、大町より弐ケ所、
裏館町より弐ケ所、都合拾三ケ所より一同に焼上り、町
中の火事故歟、一分の身仕廻ひにして、誰れ有て手伝ひ
に参る人壱人もなし、殊にまた近辺の在々も地震の大変
に三条に親あり子を遣し置候而も、三条の火事ニハ目も
つけす、一分の魂ひを失ひ放心の類ひに相見ひ、中々手
伝ひの志しさらになし、爰に京都東本願寺の掛所ありし
所を名附て本寺小路しと(ママ)申、此の小路より煮売竈釜の火
を余まし、此所よりも弐ケ所焼上り、さらに町中四方八
面火となりし処に、掛ケ所の御坊も地震ニて潰れし大伽
藍の本堂弐拾三間四面并飯堂拾三間四面、御庫裏、御台
所八間弐拾九間、其外役場々多有しに、地震ニて一同に
[瓦落|ガラ]〳〵と潰れける、坊中の役僧、諸役人、中間に至ま
て肝も心も失ひ驚き、只忙然として居る内に、裏館町よ
り悪火飛ひ来て作り並し仏閣不残す焼失、本尊様始仏一
ツ体も不残焼失いたし、誠に娑婆のありさま浅間敷次第
なり、扨又、三条町におゐて地震に潰れし寺数拾三ケ寺、
其の内潰れて焼失せたる寺五ケ寺、三条ニ焼死たる人凡
八百六拾四人と帳面に起すと云へとも、是は地震の砌り
の沙汰として、其後爰に五人、彼しに(ママ)七人、追〳〵帳面
に起る(ママ)せし人数語も恐敷ク、夫より村上の御城下江早や
飛脚、村上の御城下ニもなりしかハ、地震の大変の書附
差上けれは、村上の大守様ニも驚せ給ひて早速御検使御
降し被遊、潰れ家壱軒ニ付金弐百疋、御米壱俵つゝ、死
たるもの江ハ外ニ金弐百疋宛、人壱人江被下置候、其後
潰れ家のもの江村上塩引壱本つゝ家壱軒江壱本つゝ御手
宛被遊、難有銘々頂戴仕、且又、三条御陳屋御支配内々
ハ五万石余も有之候得ハ、御支配之内ニハ町計も四町、
五町有之、先三条町、地蔵堂町・燕町・アチカタ町、其
外在々郷村多き潰れ家毎死たる人毎に、前に断いたし置
候通金弐百疋宛、在郷の潰れ家江者籾弐俵、塩引壱本つゝ
被下置候趣、村上の城主内藤紀伊守様御陳屋辺の在々の
村数を爰に出す、三竹村・東大崎村・中新田・浅布・籠
場・上野原村・柳沢村・上鶴田村・谷地村・西潟村・三
ツ柳・牛ケ嶋村、右村々の潰れ家、死たるもの江右に准
シ御手宛被遊、難有次第申す計りなし、此節中越後に御
領地有之御大名、御旗本さまがた過分の御物入被遊候段、
大山の如し、扨又、此度の大変に何れの御地頭さま方ニ
も百姓を厚キ御憐愍何世に此御恩報し奉らんと悦事限り
なし、爰に伊勢国桑名の城主松平越中守さま御本領、御
預所共に地震ニて潰れ候村数凡八拾九ケ村と及承申候、
先ツ御本領道金村、小池村・横田村・熊森村抔と申村方
ニは格別の痛ミ無之、道金村・小池村ニは誠に大変の痛
ミと及承、中々筆紙に書顕しかたし、恐敷次第なり、扨
又、御預所地震ニて痛候村数五拾三ケ村と承る、吉野谷
村・北潟村・小古瀬村・塚野目村此村ニ禅宗寺三ケ寺有
之候所、三ケ寺なから潰れ申候、夫より鶴田村・須戸新
田・白山新田、右村々ニも潰れ家・痛家・死たるものも
多ク有之候得共、此所江は不申出候、御預所上保内村之
儀は分郷地柳沢弾正弼さま(ママ)御領分の外桑名城主さま御陳
屋は柏崎に有之、右痛ミ村々江御手宛として六拾以下の
男江は一日ニ御米五合、女子子供江は三合夫持つゝ、日
数三拾日被下置、尤家内大勢のものハ御米八、九斗余り
頂戴仕、難有キ御手宛被下置、不斜悦事限りなし、八拾
九ケ村の御領中へ如斯御手宛被遊候段、御物入大山の如
し、扨又、館村の城主柳沢弾正弼さま(ママ)より、下条村・天
神林村・井栗村・上保内村、右村々潰れ家江金弐、三分
宛被下置、外ニ極難渋の百姓江は金百疋、百五拾疋と数
多の百姓江被下置、御米抔の御手宛も有之、難有頂戴仕
悦事限りなし、爰にまた高崎の城主松平錫さま御領分に
おゐて潰れ家、死たる人数何千人と承り候得共、慥成事
承り不申候故、委敷事書起し不申候
一、井栗村ハ溝口主膳守さま(ママ)御知行所、柳沢弾正弼さま
(ママ)御領分入交り家数合弐百余軒の村方に、百姓家の潰れ家
七拾余軒、外ニ寺弐ケ寺潰れ寺有之、宗旨ハ真言宗ニて、
本寺ハ江戸表テ真言宗真言院末寺、右弐ケ寺なから同末
寺、壱ケ寺は福楽寺、今壱ケ寺ハ来迎寺、此寺ニハ京都
の鳴合と申所より来り給ひし観音迚あらたなる観音ニ
て、世上の諸願成就の観音ニて、夜籠りの男女老若に至
まて夜毎〳〵参詣群集をなせし、其中に盲人ハ七日七夜
ニは杖を捨て我か家に帰るもあり、色々の難病人医者の
見離せしものも、此観音に三七弐拾壱日断喰ニて一心に
籠りしものハ本腹(ママ)いたさぬものこそさらになし、依て中
越後におゐてハ生如来観世音と名高キ事なれは、何様の
御利生尊き観音も地震に潰れなされし事娑婆のありさま
見せ給ひしもの歟、浅間敷次第なり、此村方前に断いた
し置候御旗本、池ノ端に御屋敷有之、溝口主膳守さま(ママ)御
知行所館村に御役所ありて、柳沢弾正弼さま(ママ)迚壱万石を
領し給ふ御大名の御領地と入り交りの村方故、両御地頭
さまより金銭御米潰れ家数多ク有之、家数江前に断の通
り、銘々江御手宛外ニまた難渋の百姓御慈悲の御手宛被
下置候事夥しき金高と聞伝ひ、難有事申計りなし、夫よ
り北野新田家数三拾弐軒有之、在所弐拾九軒潰れ、此村
方御地頭さま御料所ニて出雲崎野田斧吉さま御代官御支
配所、溝口主膳守さま(ママ)御知行所、右潰れ家江溝口さまよ
り厚キ御手当テ被遊候趣、打続て白山新田家別三拾軒計
も有之村方、主膳守さま(ママ)御知行所、桑名の城主さま、右
両御地頭さまより潰れ家壱軒に金子・御米抔の御手宛
中々不少難有頂戴候趣、其隣村に天神林村の御地頭さま、
御旗本ニ主膳守さま(ママ)、御大名に柳沢弾正弼さま(ママ)御領分入
り交り、家数百六拾軒も有之、村方潰れ家も過分無之、
難渋の百姓江金百五拾疋、弐百疋宛御手宛被遊、難有頂
戴仕候、夫より山嶋村川西、是ハ加茂新田の枝郷右村々
ニは潰れ家三、四軒も有之、過分の痛ミ無之、嘉茂新田
ニは浄土真宗寺ニ覚満寺と申寺ありしに、此寺の本堂御
庫裏に至まて大痛ミ、本堂の庭に地震の砌り見なれぬ毛
物水の内に顕れ、不思儀(ママ)に思ひて能ク見れは、其丈八、
九尺もあらんと思ひし程の毛物水中にを(ママ)狂ひけるにより
鉄炮ニて打留メけるに、大きなる川獺ニて皆人是を驚き、
何様の逞しき川獺ハよもやあるましき抔と申ける、併此
毛物ハ海に住さいかくニても有之哉抔と咄しけり、夫よ
り段々下筋程は地震も弱きと見ひて、小須戸町、新津町
抔ニは少々地震と云ふた計りニて、町家在々ニ至まても
左程の痛ミなく不難と及聞申候、扨又、嘉茂町ニは表町・
裏町・小路〳〵共家数四千軒余も有之中に、漸々立蔵三
ツ、家七、八軒其外少々宛の破損位の家ハ多有之よし、
夫より矢立新田是ハ地高の村方故歟、過分の痛ミ家さら
になし、其隣村下条村ハ大村にして御地頭さまニは池ノ
端御知行所・館村さま御領分入り交り、下条村枝村、長
福寺新田、山新田、福嶋新田抔と云枝郷あり、本村枝村
合四ケ村、家数合三百軒余もありし村方に寺三ケ寺有之、
壱ケ寺ハ禅宗寺法音寺、残り弐ケ寺ハ浄土真宗寺光徳
寺・専照寺、右三ケ寺ながら本堂ハ其儘、御庫裏ハ半潰
れ、其外百姓家両御地頭さま御領地合六拾七軒も潰れ家
有之、右潰れ家壱軒ニ付、頭百姓の潰れ家江は金子壱両
弐分、またハ弐両と御手当テ被遊、難渋のもの百姓江は
御米抔との御手宛中〳〵軽るからす、死たるもの老若合
三拾九人、何れ聞合せしに地震ニて死たる人数幾千万人
か浅間敷次第なり、扨又、爰に御旗本に小浜長五郎さま
御知行所に下保内村と申ハ家数九拾余軒有之、在所に枝
村石川新田と申所に家五軒ありし所を此地震ニて五軒な
がら不残潰れ、五軒のもの共、上保内村の山〳〵より永
雨の折、夕立雨の砌り洪水いたし、悪水の難を遁かれん
と前に土手高ク築あけ置しに、土手よりハ居屋敷ハ七、
八尺も久保地(ママ)の居屋敷を四、五尺も土手より高くはりあ
けし事不思儀なり、はりあけし所を一ト足歩行ハ浮嶋に
足を踏か如し、足の先キ江地をはりあけし事やぶ田に足
を踏如し、此分ニてハ此所ニは住居なりかたし、本村江
引越し本村に住居いたしけり、本村ニは潰れ家四、五軒
有之、死たるもの壱人もなし、此村浄福寺と申て浄土真
宗寺ありけれ共、地高の所に寺ありける哉、本堂其儘、
御庫裏少々破損而已ニて格別痛ミなし、夫より上保内村
の枝郷に本所と申所に円光寺と申禅宗寺あり、寺高き故
歟、破損位の事にして過分の痛ミなし、扨又、前に書顕
し置し村上の城主内藤紀伊守さま御領内燕町、地蔵堂町
の痛ミ三条町の拾ケ一の大破ニも無之、在々村々大田
村・八王寺村・大曲村・杉名村・杉柳村・柳山村六ケ村
合家数弐百八拾余軒有之、是は誠に大変ニて漸四拾六、
七軒も潰れ残り有之よし、死たる人数ハ百三拾六人と承
る、内藤さまより右潰れ家壱軒ニ付籾弐俵、塩引壱本つゝ
被下置、死たる人江は壱人ニ付死払へ金として金弐分宛
大勢の死人江被下置難有頂戴仕候、是まてハ三条御陳屋
御支配ノ村方爰に桑名さま御本領道金村・小池村・横田
むら此三ケ村ハ誠に大変ニて道金村抔と(ママ)ニハ家数七拾余
軒も有之処、六拾六軒潰れ、此潰れ家江人別に男江ハ拾
五歳より六拾以下のもの江は三十日の内御米五合宛男江
被下、女子、子供江は三十日の内三合夫持被下置、小池
村家数百八拾余軒有之、村方半分余の潰れ家、死たる人
夥敷、道金村江御手宛に准、村々江御手宛被遊候取沙汰
有之、死人多有之候由、犬死たる人数ハ及承り不申候故、
書起不申候、横田村・熊森村過分の痛家もなし、死たる
人も及聞不申候、爰に信濃川続き村々大変書起に暇なし、
しかるに小浜長五郎さま御知行所に新飯田町迚纔か三百
五拾軒計り少町あり、三百五拾軒なから不残潰れ、死た
るもの夥しと及承候処、小浜さまより厚キ御手宛被下置
難有頂戴仕、悦事限りなし、此町の近在村々大変の事及
聞し処、一番に鵜森村に不思義有之、順行寺と申寺あり、
宗旨ハ浄土真宗なりしか、此寺の寺内八角に地震ニて割
れて地の下より赤砂を持出し、青砂抔とを(ママ)持出し、しか
る内に庭一ツ盆の水となり、不思義に思ひし内に、其水
次第〳〵に水乾けるに、五、六寸も可有かと見し頭の三
角の鮒壱つ、其外小鮒共幾つか庭ニ顕れ取あけ、[器物|ウツハ]に
入れ置しに、小鮒共ハ次第に落テ今ハ五、六寸の鮒壱牧
達者のよし、往来の旅人立寄り見物いたしけるに、偽り
もなき事ニて、彼辺江用事ありて行人ハ鵜森ニ立寄見物
いたし候もの弥々不思義に思ひけり、其隣郷に代官嶋
抔と(ママ)申村に凡三反余りも可有之竹藪ありしに、女童共竹
藪を力に逃け走り竹藪見れハ、竹藪四角八角に割れてあ
り、竹藪も頼ミにならす抔と(ママ)云ふて帰りけり、是まて書
起せし村々大変ハ申計なし、扨又、白根町の事共、亦其
近辺在々の事新潟まて聞合せしに少々地震と云ふ内計ニ
て何事もなし、新潟より浜山の続村々弥彦山辺まて左程
の痛ミなし、
一、五十嵐川大崎村の渡りして諏訪新田、是ハ新発田御
領分家数弐拾軒計の小村之処故、潰れ家四軒、死たるも
のなし、御地頭さまより御手宛被成下、極難渋のものあ
らハ、新発田まで罷詰候様御申渡し有之、新発田ニは五
間百間の小屋を御掛被遊、御領分難渋もの江米粥を煮テ
被下候、一日〳〵の米三石余りつゝ毎日〳〵御救ひ被遊、
諏訪新田よりも五、六人も新発田江相詰申候趣ニて難有
御手宛と悦事限りなし、扨又、月岡村ハ出雲崎御支配野
田斧吉さま月岡村の家数人別帳を御糺被遊、其村方の身
元厚き暦々(ママ)の百姓を御呼出しありて、潰れ家難渋もの救
ひとして米銭をいださせ御手宛有之し趣、且又、代官支
配ハ左様のものと及承申候、夫より妙法寺村格別の痛ミ
無之由、是ハ地高の村方故歟、吉田村・長峰村も過分の
痛家さらになし、夫より段々南山岸村ニは格別痛ミ村方
及聞ひ不申、大面町と申ハ見附町まて[合|アイ]の駅大面町の里
村々の事及聞しに、大変ハ恐敷取沙汰承りし内にも、猪
子場新田ハ家数ハ五拾七軒の村方不残潰れけり、家財雑
具ニ至まて破損いたし、目もあてられぬみじ目の次第な
り、其節死たるもの外ニ翌年の正月ニもなりけれ共、大
雪殊に寒風強きに凌きがたく、年寄子共(ママ)追々幾人歟死た
ると承る、此辺の村里如(ママ)しと沙汰いたしける、前に断の
通、村松の城主堀丹後守さま御領分見附町の大変ハ三条
ニもおとらぬ大変と承る、爰に方所と申て見附町より半
道計り、長岡の方によりて家数四拾軒も有之村有り、此
村の囲ひ土手ハ拾間計り平地の如く土中江沈ミし故、丑
の春ニもなりしかハ、雪解の水に恐れて御領主さま江人
足を弐千人も御願申上候処、願之通人足被仰付、則普請
に取掛り二、三日も普請相はしまり、土中に水音歟、ま
た風の音歟、けしからぬ体に相聞へ、普請奉行より村役
人江申付、此所を五、六尺も掘らせ様子を見んとありて、
人足に掘らせ見るに、唯土中より青砂の如しニて水ニて
も風ニてもなし、彼の土中より壱尺余りの〓(たら)耳の生ひ
たるか飛上り、色〳〵の音を出し、人間の詞に似たる音
を出たし候故、左候得ハ此の〓かの仕事なるへしと漸々
安堵いたしける、扨又、長岡町ニは七万三千石の大守さ
ま牧野浚河守さま(ママ)御在城御家中より御当町ニ至まて軽か
らす大変大破と相なり、御領分の内栃尾谷の壱万石を始
メ御領中に潰れ家弐千軒余と承る、また死たる人は老若
子供合四千六百八拾四人と承る、此度の御物入ハ不少、
其後承たるに井戸水を釣あけけるに、釣瓶に色々の海草
浜菜[類ひ|タクイ]またハ[栄螺|ササイ]・蛤抔と日々種々のもの釣揚ける事
不思義なりける次第なり、扨又、中野村と申ハ大村にし
て家数弐百六拾余軒も有之、村方に不難の家は五軒歟、
七軒の事ニて、大変ハ咄しより見てハ大きなる事共ニて、
恐敷書顕しかたし、与板の御城下御家中御当町共大変の
事承りてハ恐敷次第なり、夫より見附町の里に猪子場新
田の事委敷前に出し置けれ共、また〳〵哀れなる事聞し
に此所江書顕すものなり、家数五拾七軒有之在所に壱軒
も不残潰れ、誠に哀れ至極のありさま目も当られぬ次第、
子年も暮て新玉の元日ニもわらにをの[抜口|ノキクチ]ニて一夜を明
かし、哀れの事共ハ書尽かたく、此里の村数また何程あ
りしか、また、潰れ家死人幾百人歟有之哉伝ひ承り不申
候得共、大変の義ハ恐敷次第故、渡世の人々江見せ申度
聞伝ひし村計飛々荒増し書顕し置しものと思召さるへ
し、爰にまた地震ニて大変の町在共聞糺し書顕わせし内
に、三条町其在々程の大破なし、地震ニて震潰れし家の
下になりし其の内に死たるもの世間町在共数多あれ共、
三条町程之大変ハ、外のものハ潰れたる家の下になりな
がら四方八面より陰〳〵たる火陰に追れ、火陰の中に叫
ひ声、子ハ親を助けんと走り寄ル跡江、火は追イ来ル、
親助けんとすれハ、我身も供に死するより外なし、其場
を命限りに逃け走り、漸々遁れし故、見て居て親を焼き
殺し、また親は子を見て居て焼殺せし事娑婆のありさま
ハ浅間敷次第なり、昔物語りに聞し丸橋忠弥か (妻カ)子共
火[灸|アフリ]の罪に行われしも斯あらんと聞伝ひし程の他人も
袂を絞りけり、此度三条町ニて死たる人ハ八百六拾四人
とハあれ共千何百人ニて歟数しれす、能々思ふて見れハ
哀れなり、桁木梁木に足壱本押ひ付られ、其の内に早や
火ハ[責来て形|セメキタソテカラ]たに火の移りし其時の苦ルしさは、地獄の
苦るしミも斯あらんと一心に念仏の声、親ニても子ニて
力不及す、頼ミしものハ念仏計ニて叫ぶ声の下タより念
仏の声へ(ママ)哀なる事共云ふも哀れ、語るもあわれ、扨また
其頃三条の方より吹キ来ル風の臭き事鼻をつらぬきむせ
かへりけり、左もありさふの事一日一夜に幾百人の夥敷
人数の死人を焼きける故、近郷江二、三日ハ臭き香は鼻
に付キ、叫ぶ声ハ耳元にあり、生残る人々も念仏の声止
む時なし、南無阿弥陀仏〳〵と唱ひけり
文政十一子年十一月の末
作者附目録
此世界始まりて地震と云ふものも絶ひすあれ共、何様の
大変ハ日本国々嶋国なる片タ端じなる国に地震ニて、山
を海江突出し、四、五千も家数ありし宿町一ト町海江押
し出し、また在郷三ケ村を山崩れて山のしたと相成、此
国ニは人[実|タネ]さらになし抔と(ママ)老人の物語りニキゝ伝ひし
に、当国抔と(ママ)には夢〳〵可様の事ハそんじ不申、誠に日
本に此世はしまりて始テ何様の大変、殊にまた越後国と
申ても国の真中拾五、六里四面の痛ニて、余り不思義な
るか故に、書残すものなり、能く思安を廻らし見れは、
此辺の人々邪けん歟、また神〳〵の御罰ニてもありしも
のか、余り不思義なる事、扨また此度痛ミ場所に御領地
有之、御地頭さま方の御慈悲の御手宛等をも書残し置度
儘に、老人狂心の胸より書顕わすものなり、扨また是ま
てハ有時ハ殿様と申ものハ御無利(ママ)なるもの抔と(ママ)陰雑談い
たせし事ま〳〵ありしをも、今大変に殿さま方も百姓町
人江御憐愍の御慈悲を以厚キ御手宛被下置候御物入不
少、此御恩ハ賤敷百姓の身分ニては報しがたく、唯々難
有御地頭さまを崇ひ奉る事限りなし、爰にまた我等も此
時節に生れ合せ、生延し故、可様の恐敷時節に逢ふ事未
来まて忘する事ある間敷、地震より此かた邪けんの胸も
少しハ打解けて、時々精名念仏不廃す唱ひけり、我等も
また七十歳の暮れの十一月なれハ、あすの請合ひならぬ
命とそんし、あわた〳〵しも老人の筆ニて書残すもの
なり、
一、地震ニて大変ハ当国の真中拾五、六里四方の事なれ
ハ、村数ハ何程有之哉、其村々に不思儀も多有之哉、ま
た拾五、六里四面側なる山里ニは左程の大変ハなし、三
条を真中にして三条辺程の大破痛ミさらになし 以上