[未校訂](前略)
三 三条地震の被害状況
さて、今検討しようとする三条地震は、今から一三三年前の文政十一年十一月十二日晨五ツ時(午前八時)、三
条一之木戸辺を震源地とし、中越一帯に災禍を及ぼした
烈震であった。当時は通信機関も未発達であり、かつ、
その被害地域が越後十一藩、天領、旗本領などの最も交
錯している地域であったため、諸藩の報告もまち〳〵で
全体的被害状況の把握も困難を極める。
現在、⑷三条市史資料や県地震調査書などに引用されて
いる全体的被害統計は筆者の知る限りでは、吉田東伍博
士の大日本地名事典(書)に引用されている北越雑記の記録
であるようである。しかし、現在再版されている⑸北越雑
記三巻中には同記録は見あたらず、この続きがあったも
のか、或は別の北越雑記があるのか不明で、その原典に
接することが出来ないのは遺感である。
今、吉田博士の地名事書による各藩別の被害状況を要
約表示して見ると第二表の如くである。(注、〔文政の三
条地震について〕参照)
即ち、当時の越後十一藩のうち関係なかったのは高田
藩のみで、他の諸藩領は大なり小なり被害を受けたわけ
である。詳しい内容は明らかでないが、全潰、焼失家屋
が一・四万戸、死者一六〇〇余人を出したというのであ
るから、局部地震としては善光寺地震に次ぐ大規模のも
のである。
諸藩領の中最も災害のひどかったのは、古志・三島・
西蒲に領地を持つ長岡藩で、これに次いで三条近くの中
ノ口川左岸に領地を持つ村上藩・桑名・高崎藩が村数に
比例して損害が大きかったようである。中ノ口川右岸や
刈谷田川辺に主要領地を有した新発田藩や村松藩が、村
数に比例して案外少いのは如何なる理由によるものだろ
うか。
大体この記録は、十位以下の数が切捨ててあったり、
全潰、死者のみを書いたりした処を見ると、当時の風聞
的大要を書いたもので、諸藩の調査報告書にもとづいた
ものではなさそうである。
そこで、より確実な実状を確めるために、筆者の最も
多く接せられた長岡藩関係文書によって、三条地震の性
格を量的に検討して見たいと思う。
三条地震に関する長岡藩の最も詳細な記録は、北方文
化博物館所蔵の「⑹長岡懐旧雑誌」に載る「大地震一件」
(注、本書四一七頁参照)で、これは藩の幕府への報告
書にもとづいた記録のようで、かなり信頼性がある。原
典出所は明らかにされていないが、長岡市史⑺や越の寄
文、温古栞などに載る地震記録は、皆これを引用したも
ののようである。
この記録の発頭には、
「文政十一年子十一月十二日辰の上刻、大地震にて御城
内其外破損所並御領分潰家、田畑破損山崩等之進達」……
とあって、明らかに当時幕府に報告した進達内容である
ことを示している。
その内容は、御城内、城下町、郷中に関する被害状況
書(進達書)に始まり、続いて郷中七ケ組よりの書上ゲ
事項、及び御近領の景況を掲げて、最後に地震余録的事
項が書かれている。つまり領内のことは調査命令による
資料で書かれ、他藩のものは参考として風聞的記録を纏
めたもののようである。
今、その前半をなす幕府への進達内容を要約表示して
見ると第三表の如くなる。
この記録の特色は城地、城下町関係の被害が明確に記
されていることにある。城の修覆は幕府の許可を必要と
したので、克明に報告したものと思われる。逆にわれわ
れがこれを利用する立場からいえば、当時震央から二十
粁圏内にあった地震の震度が明らかになる。
即ち、一般報告の中に城下町の潰家一五~一八戸程度
とあっても、長岡町全体では民家、非住家を含めると約
二九〇戸の全潰家屋と七一〇戸近くの大破戸数があり、
当時の戸数二九五〇戸の三二%の被害を受けたことにな
る。かつ、寺社の鳥居、石塔が倒れ、本丸、二の丸内で
は二~三寸の幅の地割れが生じ、また中島辺では幅二
~三尺、長さ数丈に及ぶ地裂を生じ、青粘土を露出した
とあるから震度は5~6の強震であったことを示す。
郷中は一括総数しか報告されていないが、地名事書に
のる三六〇〇戸の被害というのも、詳しくは非住家を含
第3表長岡藩の被害状況進達書内訳
被害
場所
潰家
大破
死者
備考
城内
御城内
家中
足軽・中間
寺社
長屋
(
牢・番所
役所・高札場
)
蔵所
(籾蔵1棟)
27軒
(外土蔵2棟)
163棟
35棟
5棟
(外土蔵20)
4棟
10棟
{
住居向全部
役所8
隅櫓6
門15ヶ所
120軒
(他土蔵16)
36軒
80軒
一
16軒
8棟
一
一
一
一
一
一
本丸・二の丸・三の丸
内で7~8寸の地割れ
土居・石垣・破損
鳥居28大破
社家・焼失1ヶ寺を含む
小計
244軒
(外土蔵39)
266軒
(外土蔵23)
一
外中島辺巾2~3尺長
さ数丈の地裂所あり。
領内
城下町
郷中
組内蔵所
15軒
3452軒
(内8軒焼失)
45軒
44軒
(外土蔵380)
4439軒
173軒
一
442人
(
男198
女219
僧29
)
一
外怪我人552人
斃馬16疋
合計
3699軒
(外土蔵32)
4755軒
(外土蔵614)
442人
外
{
○田畑荒所955.7町
○山崩 665ヶ所
○用水溜大破43ヶ所
第4表長岡藩七ケ組の被害書上げ数
被害
組名
潰家
半潰
死者
怪我人
総戸数
(安政5年)
長岡町
18
20戸
(外土蔵380)
4人
一
2947戸
上組
15
20
1
一
3495
西組
36
77
2
一
2839
北組
1096
(外寺2ヶ寺)
423
(外寺8ヶ寺)
183
127
2724
栃尾組
637
(外土蔵1)
一
2
127
4198
河根川組
221
(外蔵1)
154
31
一
1203
蒲原両組
171
253
7
15
6144
合計
2194
(外寺2,蔵2)
935
(外蔵 380)
230
269
23550
めると全潰三七二一戸になり、そのうえ四八〇〇戸の大
破戸数があり、死者四四二人の外に五五二人の怪我人と
九五五町歩の田畑破損、六六五ケ所の山崩を与えた被害
であったことがわかる。これらの資料によっても、前述
の諸藩別統計は大要報告であることが推定出来よう。
さて、郷中七ケ組の被害内訳は、各組からの書上げ報
告数を掲げているが、その内容を要約して見ると第四表
の如くである。
この記録は、藩の命令で各村から書上げさせた資料の
集計らしく、前述の各村に残る地震記録も、この報告書
の下書か写しに地震余録を書添えたものと思われる。
第三表の長岡町の被害数に比べて見てもわかる如く、
全潰、半潰、大破の集計の仕方が違うし、七ケ組総計に
おいても全潰、半潰を合計しても三二〇〇戸前後にしか
ならず、大部内輪報告のようで、当時の書上げ報告は相
当まち〳〵のものであったことを示す。
何れにしても、次ぎの一部被害甚大の村の報告と合せ
て、当時の地域別被害状況を知る手掛りとしては貴重な
資料となろう。
即ち、震源地との位置的関係から、長岡の北方に位す
る北組の被害が最も甚大で、全潰、半潰の報告数だけで
も当時の北組総戸数の六〇%の損害を受けており、死者
も一八三人と最大である。
次ぎが今度の震源地を含む河根川組で、全戸数の三〇
%、栃尾組が刈谷田川の谷口辺を中心に一五%、蒲原二
ケ組が六%などの順になっている。しかし、部分的には
特に被害の甚だしかった処もあったらしく、栃尾組に属
する刈谷田川の谷口辺の村々は、見附町と共に殆ど全滅
的打撃を受け、世の注目を引いたものと見え、特に次ぎ
の如き村別の報告があり、「越の寄文」などにも引用され
ている。
「文政十一年十一月十二日朝五ツ時、当国に大地震あ
り。古志郡椿沢村家数一三〇軒の内残六軒、死者二二
人、田井村一二〇軒の内三軒残り、死者二七人、山崎
村九軒皆潰れ、死者三人、名木野村一三四軒の内一軒
残り、死者三七人、和田時水村五六軒皆潰れ、死者九
七人、太田村六一軒の内三軒残り、死者一六人也。……
(中略)
この節被害の第一は蒲原の南部地方にて、就中三条町
は皆潰れ焼亡せり、次は見附、今町、与板、長岡辺な
り」。(名木野村公用簿)
この最後に述べる本地震の被害順位については、前述の
与板町の「長明寺文書」にも、一つに三条、二に見附、
三に今町、四に燕、五に与板と記載されているといい、
栃堀の⑻庄屋家の植村文書や加津保の⑼鈴木家文書中に残
る地震関係記録にも同様な記録が見られるところから察
すると、本地震の最も特筆すべき被害地であったらしい。
今その内容を、「長岡懐旧雑誌」中の他藩関係記録を中
心に、他文書の統計と合せて表示して見ると第五表の如
くである。
やはり、各文書によって集計の仕方が違うので数値は
多少異なるし、また、各町村の当時の総戸数を知る資料
も手元にないので被害率は不明であるが、被害順位は量
的にもこれによって立証されている。
しかし、震害地全体の被害状況を推定する材料として
は、蒲原諸藩領の同様な記録が不足していて、正確な判
断は下し難く、震源地に近い高崎領や桑名領及び新発田、
村松領には、これ以上の被害を受けた村があったかも知
れない。
特に前述の吉田博士の地名事書に載る諸藩領別統計
で、長岡藩関係資料と対比して見て、そうでたらめの数
値でないことから察すると、右の疑はます〳〵こくなる。
また、一・四万戸の倒潰家屋と一九〇〇人に及ぶ死者の
他に、これに倍する大破戸数と怪我人を出した大地震で
あったことも間違いなかろう。(第三表参照)
四 三条地震の規模
では、以上の記録から判断される三条地震の性格は如
何なるものであっただろうか。
先ず、被害率から見た地震の規模について、第三・四・
五表の資料を図化して見ると、第二図の如くなる。
即ち、震央は三条附近といわれているが、より詳しく
は⑽三条市史の記載の如く、震源地は一ノ木戸辺で、その
第5表他藩領の被害状況
()ハほかの史料
項
町村
潰家
半潰
(大破)
死者
怪我人
備考
三条町
1600戸
(内焼失100)
1485戸
(内土蔵274)
30戸
一
385人
(407人内)
350人
(
一ノ木戸陣
屋114人
村上領三條
114人
その他140人
)
5ケ所より出火
(三条市史記載)
見附
500
(内250戸焼失)
31
118
60
5ケ所より出火
今町
300
(内106戸焼失)
13
60
一
各所より出火
中之島
190
20
30
不明
与板町
267
(内80戸焼失)
263
86(外大破300)
98
(外408大破)
3434
280118
4ケ所より出火
(長明寺文書記載)
脇野町
86
400
5
5
大面
7
11
6
3
加茂町
17
一
一
10
証拠には、三条は当時村上領と高崎領に分れておったが、
その高崎藩領であった一ノ木戸陣屋内で一四四人の死者
を出しているのに、より広範な村上領三条地内では一一
四人の死者しかでていない。また、被害状況を見ても、
一ノ木戸辺は殆ど全潰しているのに、三条町では「長岡
懐旧雑誌」の註記に「上野、一ノ町、二ノ町に少々家残
る」とある如く、中心街の一部でも震災をまぬかれた処
があったらしい。
何れにせよ、今の東三条駅附近を震央として、三条町
全域を一瞬の内に壊滅せしめた烈震で、同時に朝食時で
あったため町内五ケ所から出火し、文字通りの大震災と
化したものようである。
かゝる(ママ)裂震範囲がどの範囲まで及んだものか、明ら
かな記録を欠くが、諸藩領統計や、燕、井栗組などに僅
かに残る記録から判断して、半径四~五粁以内は震度七
の(ママ)裂震であったものと思われる。
次ぎの一二粁~一六粁の範囲は見附、今町、与板など
の災害順位の二~三位を占めている地域が入り、こゝで
は震度六~五の強震で、長岡藩の北組の被害率から判断
して、全戸数の六〇%前後の被害を受けたものと思う。
第五表を見ると、この圏内に入る大面村や中之島村が
たいした被害を受けていないのに、より遠方の見附、今
町、与板が代表的被害地域になっているのは、町並をな
していて各所から火災を起した震災のためらしい。
それにしても、この圏内でも場所的には震源地と同じ
く、殆ど壊滅に頻した部落が相当あったことは、栃尾組
の名木野辺の村々の記録から窺える。
地質構成の相違は地震波の伝播の仕方に深い関係のあ
ることは、近代地震学の常識であるが、同一地質構造内
でも沖積層などの若い地層においては、地震波の伝わり
方の微妙な変化が震害に大きな関係をもつものらしい。
今度の長岡地震においても、同一部落内で、南北方向の
第1図 長岡地震の被害率図
大きさは戸数率
棟の家が殆ど倒潰しているのに、東西方向の家は小破で
すんでいたり、震央から南東の部落が被害が大きいのに、
北西に余り被害を与えていなかったりしている。(第一図
参照)
更に、二〇粁~二四粁圏内は長岡町の記録で見られる
ように三〇%程度の被害地域で、震度は四~五であった
が、前述の如く部分的には地裂を生ずる強震地域もあっ
た。
同 じ長岡藩でも、二八~三二粁圏内に当る上組、川西
組南部などでは、被害率も微々たるもので、震度も三~四
の弱震地域となる。
蒲原地方の記録が不明なので正確のことはわからない
が、新潟などでは強い地震に驚かされた程度で、被害は
なかったらしいから、震害は四〇粁圏には及ばなかった
ことになる。
すると、一四・万の倒潰家屋と、一九〇〇人の死者を
出す程の大地震も、その範囲はせいぜい三五粁圏内に影
響を及ぼしたのみで、案外小範囲の浅発性局部地震であ
ったことになる。
そして、この三条地震にしても、今度の長岡地震にし
ても、かゝる局部地震は震央附近の小範囲には徹底的の
破壊力を示し、かつ、三条地震程度になると、単に家屋
や人畜に被害を与えるのみならず、田畑の被害も大きく、
更に山崩、地辷りを誘発したり、破堤、溜池などの崩壊
による水害の危険もともなっていることは銘記すべき現
象であろう。(第三表参照)
猶、三条地震も食事時に起きたために、震害のみなら
ず災害が非常な惨禍を起していることも、関東大震災の
如く地震と火災の関係の恐ろしさの好例となろう。
(後略)
註
1 前波善学「三条地震」(日報三六、二、一一夕刊)
の報告によると「長明寺文書」中の地震記録には「過
去帖」によるものと「災害古地図」(与板町)が残る
という。
2 新潟測候所「新潟県地震調査報告」(大正五年)
3 長岡藩の自然的災害史は今泉鐸次郎氏の「長岡三
百年の回顧」に詳しい年表が載っている。(明治四三
年)
4 三条市史資料 ⑴
5 長沼寛之助藤原重光編「北越雑記」一巻~三巻迄(昭和十一
年復版)
6 小川当知著「長岡懐旧雑誌」(明治十二年)は長岡
藩関係の故事を纏めた記録で、上中下三巻からなる。
7 「越の寄文」(明治二六年)の一号、十八号に三条
地震に関する記録が載る。
8 「植村文書」は栃尾市栃堀の庄屋であった植村家
に残る近世文書で、近世末から明治初年の記録が多
い。
地震関係では「文政十一年大地震一件」がある。
9 「鈴木文書」長岡市加津保町の庄屋家文書
10 三条市史には「震源地は一ノ木戸辺と称せられる」
と当地のいい伝えを記している。
11 「長岡懐旧雑誌」の記録だが、これと同じものが「越
の寄文」十八号にも載る、また、三条市史には「一
ノ木戸天満宮由来記」の詳しい引用がある。
12 「越の寄ぶみ」一号(明治二六・二)より三号迄続
く長文で、以下は幕末の世の末世的姿をなげいてい
る。
13 この宣伝は、諸国に伝播されたものとみえて、「津
川町覚書」帖などにこの内容のものが見られる。
(注、資料名が掲げられているので、本文は省略した
が註記は載せる)