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西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

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項目 内容
ID J1100103
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔文政の三条地震について〕「三条史研究三」
本文
[未校訂](前略)
一 三条地震の概要
 いわゆる三条地震は、文政十一年(一八二八)十一月
十二日の朝五ツ時上刻に発生した。現行の太陽暦で十二
月十八日の午前八時ころのことである。地震の規模は、
マグニチュード六・九⑴であった。震源は北緯三十七度六
分、東経百三十八度九分。同じ信濃川地震帯で起きた、
昭和三十九年六月十六日の新潟地震がマグニチュード
七・五であったことを想うと、震央となった三条での烈
震ぶりはいかばかりだったことだろう。
 この地震の悲惨さを唄った「瞽女口説 地震の身の上」
では、住民のぜいたく三昧な日常生活のむくいがこの地
震であったと戒めている。しかし、この年の農作物の出
来⑵が七分の作であった。前年が五分の作、地震の翌年が
七分の作と、飢饉が重なっていた。しかも、地震の年の
四月二十二日の夜から翌朝四ツ時(午前十時ころ)にか
けて、三条では二千百余軒を焼失する大火があった。そ
して、ようやくその夏七夕に三条の町並が復興⑶をみた矢
先きの惨事だった。
この地震での被害を「浮世の有様⑷」では、
 「此日、越後国三条・見附・長岡・与板・和木野町十
里ばかり四方大地震、其時出火ありて、横死者三万余人、
牛馬六千計り、神社・仏閣・大廈(たいか)・民家の破壊
其数算ふべからず(後略)」
としている。被害地域が十一藩におよび、天領や旗本領
などが複雑に交錯した地域だったため、諸藩の報告もま
ちまちで、全体的な被害を知ることが困難である。しか
し、「大日本地名辞書⑸」によると、藩別の被害状況は(表
1)のようになっている。
表1 三条地震の被害
領分
潰家
焼失
死失
高崎藩(一ノ木戸陣屋)



1,180
136
144
長岡藩
3,600
442
村松藩
1,030
153
228
沢海藩
140
與板藩
590
76
館村領分井栗組
余130
出雲崎陣屋支配
1,000
102
池之端藩
余90
7
新発田藩
1,770
115
225
村上藩
1,300
757
263
桑名藩(柏崎陣屋)
2,000
120

12,830
1,161
1,607
吉田東伍編『大日本地名辞書』北国・東国編
の被害状況
藩領別
町村名
家数
潰家
半潰
小破
焼失
即死人
怪我人
新発田領
五明村









大島新田
16
6
4
1

荻島 新田
11
16
11

代官島
15
9
8

井戸場新田
10
4
5
桑名領
鶴田新田
28
25
3
4
3

鶴田村
18
13
5

塚野目村
116
97
19
33
3
6

塚野目古料
3
1
2

白山新田
25
17
4
4
1

吉田村古料
6
1
5

袋村
46
31
12
5
7

西鱈田村
21
21
5

東鱈田村
50
41
9
5

長嶺村
47
21
26
1

如法寺村
25
4
5
16

吉田村
552
22
19
11
5

東保内村
43
8
2
33
2
2

西保内村
48
14
2
31
上川替地之内
曲渕村
9
6
池之端知行所
栗林村
3
2
1
1

須戸新田
25
18
6

柳場新田
22
16
幕府領
北野新田
13
13
1

月岡村
134
102
35
8

片口村
18
16
2
5

新保村
48
48
9
舘村御領分
井栗村六力村
136
34
15
小浜健次郎様知行所
井栗村
56
9
5

西保内村
14
6
4
沢海知行所
保内村
7
8
37
御公辺迄願書」ほか
表2藩領別・町村別
藩領別
町村名
家数
潰家
半潰
小破
焼失
即死人
怪我人
村上領
三条町
1,742

439

90


763

205

300余


島田村
2

四日町村
31
13
8
1

石上村
61
12
40
4

栗林村
81
40
6
8
5

西潟村
25
12
8

谷地村
17
13
1
1
1
1

敦田村
32
22
10
2
9

三竹村
15
7

中新村
26
8
4
2

籠場村
22
12

東大崎村
107
31
40
36
9

上野原村
25
2
7
5
1
1

柳沢村
51
7
10
18
2

牛ケ島村
11
8
3
1

三ツ柳村
44
28
111
3

下須頃村
70
33
33
7
60

上須頃村
83
66
25
10
12
高崎領
一ノ木戸村
306
75
45
44
73

中村
3
1

裏館村
201
15
93
45
37

荒町村
58
9
5
15

嘉坪川村
22
16
1
1

入村
19
3

新光村
23
10

田島村
150
114
33
13
19

本村
10余
27

坂井村
38

西大崎村
56
49
3
9
本成寺領
東・西本成寺村
29
29
5
新発田領
諏訪新田
20
4
典拠:「大地震ニ付難場村々取調写」,「文政十一子年 越後国地震変事取調帖上」,「地震一件ニ附
二 三条の被災状況
 地震当日の三条は、年の瀬を控え、冬ごもりの準備で
賑わう二・七の市の最中であった。 一瞬、雷のような地
響きとともに大震れが襲い、瞬時にして阿鼻叫喚の地獄
絵さながらの事態が現出した。「中越大変地震録 全」に
よると、村上藩の領内三条町では、市日とあって早朝か
らカマドに鍋を仕掛け、火を焚いていた処に町家が残ら
ず将棋倒しになった。動顚した町人たちは、火の始末ど
ころかわれ先きにと逃げたため、煮売り店から出火した。
五ノ町から三ヵ所、四ノ町・三ノ町から各一ヵ所、大町
から二ヵ所、裏館から二ヵ所といったふうに都合十三ヵ
所からいちどに燃えあがり、被害をさらに大きくした。
 現在の市域における当時の藩領別・町村別の被害状況
で、いま手もとで判っているものは(表2)の通りであ
る。さらに、三条町から出雲崎御役所へ書き上げられた
文書で三条町について、被害の内容をもうすこしくわし
く見ると、人畜については、死者二百五人中、三条町の
町人が百七十一人、他領から三条へ来ていて難に遭い死
亡した者が三十四人程、宿馬二匹も死亡した。また建造
物の被害は(表3)の内容となっている。
さらに、「鍛冶町軒別仕脇帖⑹」で鍛冶町・半五郎小路・浦
屋敷借り家しめて九十一軒の軒別の被災内容をまとめた
のが(表4)である。
(中略)
表3三条町の建造物被害の内容
(棟数1,742軒)
被害内容
表家
小路通り
裏借屋
土蔵
板蔵
雑蔵
寺社
備考
焼失

344

419
ケ所
78

109
ケ所
87

}25
寺社は57棟のうち
潰家
59
380
9
23
3
大破
61
29
140
12
8
典拠:「三条町御書上調」(五十嵐與作編「資料 三条地震」昭34刊)
表4鍛冶町の被災内容
種別
倒壊・焼失
倒壊
半壊
潰れず
焼けず
死者

71軒
11軒
1軒
4軒
3軒

12棟
5棟
5棟
4棟

31人(男12・女19)
三 震災後の荒政
 地震発生当日だけで人体に感じた余震が四十回程、翌
十三日には十八~九回もあり⑼、群発的な地震が七十余日
間も続いた⑽。袋・東西鱈田村など桑名領内の庄屋・組頭・
百姓代らが連名で、柏崎御役所へ願い上げた⑾ところによ
ると、皆潰れはもとより半潰れの人たちは住居すること
ができず、居屋敷内とか村道際の野原などに簀囲みの小
屋をしつらい、笠簑を着たまま夜明しをし、風雪から飢
えを凌いだ。
 諸藩では早速検使を派遣、被災の状況を調べさせ、救
済の手を差しのべた。村上藩では、潰れた寺社へは米一
俵と村上塩引二本に金一朱ずつを、大庄屋ならびに御用
達には米一俵と塩引三本、庄屋には米一俵と塩引二本、
百姓には米一俵と塩引一本ずつを手当した。また、即死
した人の家には人数にかかわらず一軒二歩ずつ、半潰れ
の家には米二斗ずつ、借家のものには米一斗ずつが支給
された。
 高崎藩領の一ノ木戸村では、庄屋の小林勝清は一ノ木
戸詰めの郡奉行堤新八郎とはかり、一ノ木戸の河岸に繫
船中の新潟川下げの収納米を即日炊き出し米に手当し
た。ここでは貧富に拘わらず、潰れ家の者へは米を男一
人一日二合五勺、女一合五勺五才、焼失の者へ男一人一
日五合、女二合五勺宛を三十日間施与、さらに潰れ家に
は家作料として一軒当り金一両二分を、半潰れ家にはそ
の半分の手当を支給された。また、医師の桑原透迪を派
遣して、怪我人をはじめ、病人・老人・子供・産婦ら持
病もちの治療に当らせ、薬代を施与した。
 朱印地の本成寺山内では、死者を出した四軒には銭五
百文ずつ計二貫文、家が潰れた者には白米五升ずつ計七
斗五升が支給された。
 新発田藩では、五間に百間の小屋を掛けて収容すると
ともに、領内の難渋者には米粥を煮て与えた。これに要
した米が一日三石余にのばった⒀○
 桑名藩主松平越中守の預り領であった古志郡二か村と
蒲原郡五十三か村(村高合計一万五千二百五十八石余)
の地震に関する一件記録⒂の中から、三条関係の村落につ
いて下付された潰れ家に対する炊き出し米の一覧(表5)
と復興のための家作お手当金(表6)と夫食ほかのお手
当拝借金(表7)の書留めを表にした。拝借金は、地震
の翌年から五か年据え置きで、その後十五か年々賦で返
納された。しかし、本成寺村の場合は、十五両を一括借
り入れ、三年据え置きの十か年々賦で年一両弐分ずつ返
納された⒃○
 村上藩でも被災領民に貸付がおこなわれた。文政十一
年十二月の「御拝借金連印帖⒄」によると、拝借人それぞ
れの居屋敷を担保にして、月一分の利息で貸与された。
当初の二年間は利息のみ、その先五か年の年賦で天保六
年(一八三五)にわたって返済されることになっていた
が、ここでも天保六年になって、さらに返済を延期され
た。(表8)でわかるように、町方へ貸付られた総額は九
か町内で千九百三十二両⒅になっている。しかし、前記の
表5 潰れ家に給与された炊き出し米(桑名領)
村名
潰家数
人数

(20日分)
人数内訳

男60才以上
14才以下
男9才以下

栗林村
2

14


1.10
5

3

1

5

東鱈 田村
33
199
14.66
57
22
11
109
西鱈 田村
18
103
7.60
33
5
4
61
袋村
24
174
13.04
54
88
16
82
長嶺村
1
9
.74
5
4
如法寺村
1
10
.70
2
1
7
吉田村(古料を含む)
9
48
3.56
7
15
2
24
白山新田
11
77
5.66
25
2
7
43
東保内村
4
32
2.44
11
4
5
12
西保内村
10
72
5.10
18
6
6
41
鶴田村・同新田
35
241
18.58
88
30
15
108
塚野目村
59
344
25.74
106
43
26
169
表6家作ほかお手当金(桑名領)
村名
庄屋名
御手当金
村名
庄屋名
御手当金
西保内村
伝治
両分朱22.2.2.1
長嶺村
佐十郎
両分朱
5.0.1
塚野目村
利兵衛
103.0.2
如法寺村
百姓代七兵衛
2.3.1
鶴田村
組頭兵五郎
36.1.2
古料塚野目
範治
0.2.1
須戸新田
治左衛門
27.1.2
栗林村
四郎右衛門
3.0.0
白山新田
清左衛門
13.1.1
東鱈田村
與惣右衛門
55.1.1
東保内村
組頭郎右衛門
9.3.0
吉田村
組頭新左衛門
30.0.0
西鱈田村
新作
28.0.2
古料吉田村
吉郎兵衛
4.1.1
袋村
藤七・藤吉
44.3.1
鶴田村
権之助
22.1.1
村名
庄屋名
拝借金
村名
庄屋名
拝借金
長嶺村
佐十郎
両分4.2
塚野目村
利兵衛
両分72.0
如法寺村
百姓代七兵衛
2.2
鶴田村
権之助
15.2
古料塚野目村
範治
0.2
鶴田新田
兵五郎
25.0
栗林村
四郎右衛門
2..
須戸新田
治左衛門
19.0
東鱈田村
與惣右衛門
39.2
白山新田
清左衛門
9.2
西鱈田村
新作
19.0
東保内村
組頭九郎右衛門
7.0
吉田村
組頭新左衛門
24.0
西保内村
伝治
15.2
袋村
藤七・藤吉
32.2
表7夫食ほかお手当拝借金(桑名領)
表村上領町内別被災者貸付金
町貸付金
拝借金
拝借人数
上町

270

279

18
大町
340
385
38
一ノ町
85
二ノ町
50
三ノ町
124
134
11
四ノ町
491
618
34
五ノ町
120
194
15
八幡小路
167
177
34
鍛冶町
285
330
49

1,932
2,117
199
「御拝借金連印証文帖」では、地震の翌年以降の貸付分
も含まれているため、 一ノ町・二ノ町分が欠け七か町で
はあるが総額は二千百十七両にものぼっている。この貸
付に要した金は、御役所から四百八十両、塩野谷源助・
惣益講から各五百両、長谷川吉左衛門が二百両、石田善
助・大橋甚三郎がそれぞれ百両、目黒吉十郎が七十両、
広川孫四郎が五十両、その他から二百両が繰り出され
た⒆。塩野谷・長谷川および惣益講は三条町、他は新潟の
豪商で、いずれも三条陣屋の要職につき、御用達を果た
していた商人からの借り上げ金によって賄われた。
 各藩の財政事情によって荒政の差がみられはしたが、
時の経過とともに、巷間、三条の滅亡が流布された廃虚
から、町民は奮い立った。
四 地震の遺構
 文政の三条地震にまつわる遺構は、市内には少ない。
現存するものは、地震によって物故した人たちの亡霊を
まつる供養塔が二基と、多数の物故者を菩提するため建
立されたという寺院一か寺だけである。この三つについ
て調べてみた。
㈠ 泉薬寺の地震供養塔
 八幡小路にある真言宗(智山派)の医王山泉薬寺境内、
毘沙門堂前に、当寺歴住の霊を葬った宝筐印塔とならん
で、文政十一年十二月に建立された前者とはひとまわり
大きな宝筐印塔がある。材質は佐渡石で、恐らく佐渡か
ら船積みされ、信濃川をのぼって運び込まれたものであ
ろう。この塔の高さは基礎から三・七メートルあり、笠
の四隅にある隅飾突起が外方に大きく反り返り、江戸末
期につくられたものの特徴を示している。
 塔身には四面に四仏の種字が彫られており、一見して
供養塔として建てられたことがわかる。
 塔身と基礎の間の反花座が四つに割れ、二個が地上に
落石していた。また、基礎にもヒビ割れが見え、基礎の
下の蓮華台石の後隅が大き欠落しており、いまのうち
に修理の必要が認められた。
 基礎に彫刻があり、正面に向かって右側には、
尽力造塔
安置神咒
所得功徳
説不可尽
とあり、向かって左側には、
若者末世
四輩弟子
善男善女
為无上道
さらに正面裏側には、
文政十一戊子十二月
願主
現住 宥□
とある。また、花座の下の基礎正面に、
□□□
□□□
光□講中
とあるが、既に文字が風化磨耗していて□の部分は判読
できない。
 この寺は三条城が須頃嶋の内にあった当時は嶋の内に
あったが、その後古城跡へ城が移った折、寺も現在地に
引き移った⒇と伝えられる。往時は、村上藩主の祈願寺で
あったことから、村上領内における地震で死亡した無縁
仏の供養のため建立されたものとみてよかろう。
㈡ 宝塔院の地震亡霊塔
 東裏館にある真言宗(智山派)の多宝山宝塔院境内の
地震亡霊塔は、市民にもよ知られてきた三条地震の貴
重な遺構で、昭和四十七年四月十二日に三条市の文化財
に指定されている。この寺は、越後三十二番札所になっ
ており、例年八月十日の縁日には、観音信仰による四万
六千日の霊験にあやかろうとする市民の参詣で賑わう。
この縁日は、三条の夏の風物詩にかかせない年中行事の
ひとつでもある。
 ここの亡霊塔は、鎌倉中期頃の様式をとった高さ約四
メートルもある大きな五輪塔である。基礎の上に、方・
円・三角・半円・宝珠形を積みあげ、地輪・水輪・火輪・
風輪・空輪を表徴した五輪塔の基礎正面に、鮮やかに「地
震亡霊塔」と大きく陰刻されている。前項の泉薬寺の供
養塔が一見、ひょろ長くきゃしゃに見えるのに対して、
ここの五輪塔はずっしりと泰然自若とした重量感を感じ
させる。
 塔の石質は安山岩で、五十嵐川沿岸で産出されたもの
のように思われる。「地震亡霊塔」の刻字のある基礎のす
ぐ下の台座正面に向かって右側に、
鹿峠村 石工
五良兵衛
と彫られており、鹿峠周辺で採集された原石を加工した
とみてよいのではなかろうか。
 空輪から地輪までの各輪に、東方発心門、南方修業門、
西方菩提門、北方涅槃門の五大種字の四転が刻まれてい
る。「地震亡霊塔」とある基礎の正面に向かって右側には、
次のような刻字がある。
発願主
当寺現住 隆観
弟子 覚明
富所 宅右衛門
同 □□□太郎兵衛
長谷川左源次
小林太郎兵衛
于時文政十二己丑年
八月十六日造立
 建立の願主は当寺十一世の隆観和尚(天保十二年八月
二十九日没)で、良寛和尚と親交の厚かった当寺中興の
開山隆全和尚(天保六年十二月十三日没)は十世で、地
震当時は既に隠居して当寺の北寮にあった。弟子覚明は
燕市杉柳の百姓五兵衛の出身。はじめ仏師となったが妻
と死別後出家して法印覚明と称し、宝塔院にあり、隆観・
隆全を助けて、地震で不慮の死を遂げた無縁仏の骨を拾
ったと伝えられている。覚明は後で西蒲原郡粟津村佐善
(現吉田町)の蓮迎庵の住職となったが、明治七年二月
十七日、行年七十五才で遷化した。
 宅右衛門は氏を土田といい、屋号は小高屋、太郎兵衛
は青玉小路の柏徳、長谷川左源次は裏館村の庄屋。地震
の翌年八月十六日にこの塔が建立されたことは明白であ
る。
 また、基礎の裏面に名前を彫ったとみられる痕跡がみ
られるが、磨滅していて判読できない。
 宝塔院は裏館村地内にあり、ここは高崎領に属してい
た関係から、高崎領内の亡霊を納めたものでなかろうか。
㈢ 西本願寺三条別院
三条地震による多数の物故者を菩提のため、地震から
四年後の天保三年(一八三二)八月に、浄土真宗本願寺
派の三条別院が建立された。広如の代のことで、村上藩
主内藤紀伊守から寺領三千坪の寄進をうけ、宗派を問わ
ず募財してもよろしいとのお墨付きを得て造立した。
 地震の日の十一月十二日を宗祖の報恩講の初日とし
て、震災物故者の追悼法要が年々営まれている。
(後略)

1 東京天文台編「理科年表」 昭和五十二年刊
2 高橋正作「飢歳懐覚録」による秋田領の農作状況
|鈴木喜久子「近世村上藩領に於ける荒政」より
3 「中越大変地震録 全」 上保内・矢川寛衛家蔵
4 弘化三年(一八四六)以降に書かれた十三巻十七
冊からなる記録
5 吉田東伍「大日本地名辞書」北国・東国編 昭和
十四年刊
6 三条市立図書館蔵・文政十一年
10 「越の寄文」 明治二十六年刊
11 「文政十一子年十一月十二日 地震一件ニ附御公
辺迄願書」 長嶺・榎本善一郎家蔵
12 「一ノ木戸天満宮由来記」 (注、12は本文中に注
番号ナシ)
13 文政十一年十二月、桑名藩家来 小菅仙左衛門よ
り勘定所への書き上げ
14 「文政十一戊子十一月十三日 大地震日記帖」
西本成寺・長谷川留吉家蔵 (注、14は本文中に注番
号ナシ)
15 柏崎市・桑山太市家蔵|「郷土新潟」第七号(昭
和四十年刊)参照
16 「地震潰百姓相続拝借金割渡 小前帖」 東本成
寺・中沢禎壱家蔵
17 三条市立図書館蔵
18 「町方江貸付金」 三条市立図書館蔵
19 「町方小前之者江拝借金繰出高左之通」 三条市
立図書館蔵
20 「三条町続明細書」|「越佐叢書」第八巻
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 333
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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