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項目 内容
ID J1100102
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔下川西の歴史〕○新潟県
本文
[未校訂]翌十一年にはいわゆる三条地震で、当地でも土地に変
動が生じ、ただでさえ溢水しやすい地が、ことあるごと
に水びたしになり、せっかく村びとが身を粉にして作っ
た稲作もたちまち皆無、つまりだめにしてしまって、一
粒の米さえとれなくなってしまうありさまであった。
 このようにおそいくる窮乏にたまりかね、雁島の人び
とは必死の覚悟で、天保七年(一八三六)十二月、一カ
年の村高全部を差し出すから、村民三百名にたいして当
座の夫食手当を支給して欲しいと、割元格又右衛門・組
頭三五兵衛・横目次郎兵衛以下重立ち二十二人連名で代
官所へ歎願書を提出した。
 すでに村内では生活ができずに出稼ぎにでかけたり、
乞食になるものが十九軒をかぞえ、あるいは泣きの涙で
住宅を人手に渡すもの十四軒、さらには夜逃げ同様に故
郷を離れるもの三軒におよんだ。わずかに残った人びと
も、明日からの生活に途方にくれたのである。
 この歎願書雁島片桐家蔵は長文なので、前文のみかかげるこ
とにするが、
乍恐以書付奉願上候事
兼而被遊御存知候通、当村之儀、元来、無隻(双)の窪地ニ御
座候処、又、子年註、文政、十一年大地震ニ而、地方一円無類の
変地仕、其節、重き御見分被成下置、田方畑成、或ハ御
免下ケ、又は、亡所の場所々々迄御綿密之御算勘を以、
御米百五十俵高役弐百石御手当被成下置、一統難有仕合
奉存、村方尽精力、地所養育ニ取懸罷在候処、右転変の
跡、益水仕不宜、其後、壱年も無間断水難を受、田畑捨
り地同様ニ相成候故、田地持居候者も、卸し付可仕様無
之、受作仕候者ハ作徳無之候故、次第ニ衰微仕、近年、
作業相止、他村奉公物貰ひ而已事と仕候者拾九軒、家
売払候者拾四軒、離散仕候者三軒ニ及候故、百姓田地分
配仕兼、自分持物ニ当惑仕罷在候中、今年も今年もと頻
ニ水損有之、最早一村取所も無之体ニ相成、歎かはしき
次第ニ奉存候。然ル処、近年、御手当弐歩通御減少有之
候得共、当村御手当の儀ハ、前申上候訳柄有之、左候ヘ
ハ、御免相と地位引合不申候間、去未年註、天保、六年二分減
し御引直奉願上、乍然、外御引合ニ相拘はり、難被仰付
御訳柄有之候ハバ、地所御引上も可被下置哉の旨奉申上
候処、弐分減御免被成下置、其後、定河戸川浚被仰出、
当六月十二日、御郡所・御代官御見分御座候得共、川浚
被遊候而も、多分の御田所水腐の難可相遁様子有之間敷
体ニ付、定河戸川悪水抜の儀、御目論見被仰聞、難有奉
存、村方ニ而も厚奉願上候処、先月廿二日、御呼出しの
上、先達而奉願上儀、無道理儀ニハ無之候得共、為地所
養育兼而定河戸川浚被仰出候得バ、何れニも、右川浚い
たし見、其上ニも水難別条無之候ハバ、其節ハ、先願の
処御評議をも被成下置候旨被仰聞、願書御下ケと相成奉
畏候。右ニ付、私共儀、此処ニ住し罷在候故、地所の様
子悉く相弁まへ居候ニ付、乍恐申上候云々
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 331
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 下川西【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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