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項目 内容
ID J1100083
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔大矢野町史〕○熊本県
本文
[未校訂]三 天草の新地と島原地震
 天草は小島の群集ですが、地質が中世紀の群島でリア
ス式の海岸が多いため、岬と岬との間を結んで干拓新地
が築造されて、新田が至るところにあります。
 次に、地震と津浪の地変がありました。寛政四年、(西
一七九二、一七七年前)島原岳(雲仙岳)が爆発して山
崩れが起り、対岸の玉名、飽託海岸には津波のために二
千余名の溺死者が出ましたが、天草は地勢の関係上、大
した被害はありませんでした。大矢野の上村遍照院では、
死者供養の大施餓鬼会が催されました。
四 島原預所支配
1、松平忠恕兼帯
 天明三年九月、島原側の役人と日田代官との間に交代
の事務引継が行なわれ、以降宗門改めの行事がありまし
た。寛政四年四月十九日、島原藩主の死去によって、郡
中諸事慎み、音曲停止が申合せられ、郡の惣代その他の
面々島原表に渡ってお悔み言上に及びました。
 この年(寛政四年、 一七七年前)の三月一日には、島
原では大雨と地震が起り、これが十日間も連続しました。
五日の昼頃からは三度も大地震に見舞われ、町家共に戸
を閉じ船に乗って立退くものも続出し、大混乱中なる由
島原表から飛脚が到来しました。
 三月十二日には、地震は少し薄らぎましたが、十五日
から昼夜数回の震動がおこり、晦日まで同様の状態でし
たが、四月一日夜六ツ半頃(今の午後七時)、温泉岳が大
爆発し、対岸肥後筋並びに天草の東部一帯に津波が襲来
し、家屋の流失と溺死者無数、その他の被害が甚大であ
りました。
 同年七月九日、大矢野遍照院並びに大浦村九品寺に於
て、島原津波溺死者の追善施餓鬼会が挙行され、遍照院
には、公儀(将軍家)から、白銀五枚のお下賜がありま
した。七月十五日には、島原藩主松平主計頭忠憑が家督
相続をして新城主となりました。
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 320
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 熊本
市区町村 大矢野【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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