[未校訂]三 天草の新地と島原地震
天草は小島の群集ですが、地質が中世紀の群島でリア
ス式の海岸が多いため、岬と岬との間を結んで干拓新地
が築造されて、新田が至るところにあります。
次に、地震と津浪の地変がありました。寛政四年、(西
一七九二、一七七年前)島原岳(雲仙岳)が爆発して山
崩れが起り、対岸の玉名、飽託海岸には津波のために二
千余名の溺死者が出ましたが、天草は地勢の関係上、大
した被害はありませんでした。大矢野の上村遍照院では、
死者供養の大施餓鬼会が催されました。
四 島原預所支配
1、松平忠恕兼帯
天明三年九月、島原側の役人と日田代官との間に交代
の事務引継が行なわれ、以降宗門改めの行事がありまし
た。寛政四年四月十九日、島原藩主の死去によって、郡
中諸事慎み、音曲停止が申合せられ、郡の惣代その他の
面々島原表に渡ってお悔み言上に及びました。
この年(寛政四年、 一七七年前)の三月一日には、島
原では大雨と地震が起り、これが十日間も連続しました。
五日の昼頃からは三度も大地震に見舞われ、町家共に戸
を閉じ船に乗って立退くものも続出し、大混乱中なる由
島原表から飛脚が到来しました。
三月十二日には、地震は少し薄らぎましたが、十五日
から昼夜数回の震動がおこり、晦日まで同様の状態でし
たが、四月一日夜六ツ半頃(今の午後七時)、温泉岳が大
爆発し、対岸肥後筋並びに天草の東部一帯に津波が襲来
し、家屋の流失と溺死者無数、その他の被害が甚大であ
りました。
同年七月九日、大矢野遍照院並びに大浦村九品寺に於
て、島原津波溺死者の追善施餓鬼会が挙行され、遍照院
には、公儀(将軍家)から、白銀五枚のお下賜がありま
した。七月十五日には、島原藩主松平主計頭忠憑が家督
相続をして新城主となりました。