[未校訂]3 温泉くずれ
三月一日から、肥後の海岸一帯では、大小の地震が三十
日も続いて、人々を不安におとし入れました。
果して四月一日の夕方、突然、大地が波のようにゆれ始
めたかと思うと、海をへだてた温泉岳の眉山が爆発して、
ものすごい火柱が立つと共に、すさまじい音が、雷のよ
うにとどろき渡りました。吹き飛ばされた山の一部が、
今の九十九島であることからも、爆発のはげしさが想像
されます。
荒尾地方では、人々が、おどろきさわいでいる中、川と
いう川の水が、まるで引き潮のように、海の方へすいこ
まれました。
4 大津浪
やがて、小山ほどもある大津浪が、長洲を中心とする一
帯めがけて襲いかかり、あっという間に新塘を破ると、
塩屋を越えて折地にまでなだれこんだので、長洲・腹赤・
清源寺・平原・上沖洲などの部落は、またたく間に全滅
しました。
荒尾での被害は、よく伝えられていないものの、おそら
く同じ程度の大津浪が、海沿いの部落を一のみにして荒
れ狂ったにちがいありません。それで蔵満村の人々が、
海下に避難したことが伝えられています。
三池では、早馬が飛んで、庄屋や組頭が先頭に立ち、村
人を
早米来村の者は堺山へ
加納村の者は姫島へ
諏訪村の者は大塚諏訪山・坊主山へ
と避難させました。
その夜、人々は、津浪のうなりや、温泉のとどろきに、
命のちぢまる思いをしながら、まんじりともしなかった
と思われます。
5 仮小屋
夜が明けると、海岸一帯は、目も当てられぬ痛ましさで、
住みなれた家があとかたもなくなり、田畑が根こそぎに
荒されたばかりか、無数の人々が変り果てた死体になっ
て漂っており、しかもそれは、玉名から飽田・宇土に至
る地域のすべてにわたりました。
そこで藩では、早速、郡代や庄屋に命じて、各地に仮小
屋を作らせ、けが人の手当てや、被災者の世話をさせま
した。
しかし、まだ温泉は怒り、海は荒れているので、人々は
家へ帰ることもできず、仮小屋にわずかな食糧や家財を
運びこんで、海の静まるのを待つ外はありません。
三池郡は、幸い四山が津浪を防いでくれたので、一人の
死傷も出なかったといいます。その三池でさえ、三日も
たってから、元気な人たちがやっと家に帰ってみたくら
いで、十日余りも仮小屋住まいが続きました。
6 扇崎の千人塚
この思いがけぬ災害は「島原大変、肥後迷惑」といわれ
たほどのすさまじさで、田畑は二千町歩余りが荒され、
五千を越える死者が出ました。そして玉名郡は特に被害
が大きく、死者が二千二百にも及んだので、その中心と
なった長洲では、清台寺の住職明増が、海岸に横たえら
れた無数の死体におどろきながらも、とりあえず一人ま
た一人と、経を読んでは、法名を書いた紙片を、その親
指にくくりつけたといわれます。
藩では、各地に新しく墓地も作らせました。鍋村扇崎海
岸の千人塚や、長洲下東町の供養塔は、この時の死者を
葬って供養したものです。幕府も、三万両を下げ渡して
人々を助けさせました。
ところで、今、諏訪神社にある流れ岩について、この津
浪にからんだ次のような言い伝えがあります。
7 流れ岩
大島村には、早くから、一つの岩を神体として祗園が祀
られ、その祭りの日には、家毎に、いげの葉に包んだ祗
園だご(ママ)を作り、親しい人を招いて酒をくみ交わしました。
ところが、津浪のため、この岩の行方が分らなくなりま
した。
それから間もなく、諏訪村の人が、海の中に何か光るも
のが見えるので、不思議に思って舟を近ずけてみると、
海の底に、光る岩がありました。それで人々は、その岩
を引き上げて、大切に祀り、どこからか流れて来た岩と
いう意味で、流れ岩と呼びました。