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項目 内容
ID J1100084
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔岱明町地方史〕○熊本県
本文
[未校訂] 寛政三年六月には高瀬方面大洪水大荒地莫大、八月に
は大風があった。洪水・大風のほか海辺では、高波・津
波が襲来することがある。 一七九二(寛政四)年のこと、
島原半島温泉嶽の爆発によって、前嶽・眉山が崩潰して、
(今もその痕が見える)日本でも珍らしい「温泉くずれ
の大津波」、いわゆる寛政のつなみとなった。
 前年の一〇月より鳴動おこり、明けて正月一八日普賢
岳は泥土を噴出しはじめ、二月上旬から右の山も山続き
に火気を噴き出した。三月一日より日夜地震がつづき、
いよいよ四月一日酉の刻(午後六時)すぎ爆発がおこっ
た。百雷の怒号するにも似て、前山割崩れ山水・土砂を
押流した。山崩れは土手をなして山麓の十ヶ村程の人家
をはじめ、島原の城下町を押流して海に入った。噴火に
伴う地震によって、津波は肥後の三郡にも押寄せ、船舶・
家屋・家財はもちろん、折から夕食時の家庭では父母兄
妹ことごとく押流し、牛馬まで溺死するに至った。津波
の高さは一〇~二〇米にも達して三度襲ったらしい。下
沖洲高松山一帯には松山があったので、太右衛門という
人はこの松にすがりついて助かった。そこで松にシメナ
ワを張って祭ったと伝える。
 暗夜のことではあり、島原町と在方の惨害はひどく流
死人九、五〇〇人にのぼった。肥後の流死人は、玉名郡
二、二二一人、宇土郡一、二六六人、飽田郡一、 一六六
人、天草郡三四三人、計四、九六六人に達した。それに
負傷、牛馬の死傷、家屋船舶の流失、折から田植前の苗
代・田畑・塩浜・塘・堰門の損害等極めて甚大で、その
被害図の一部は上の通りである(図略)。同つなみ絵図は
西照寺斉藤文書中にもある。当時これを「島原大変、肥
後難題」といった。
 新野尾家伝書によれば、「寛政四年四月島原の山崩れて
海に入り其激波強大、飽田・宇土浦より玉名浦まで数千
人の溺死、家は倒れ塘は破れ、生き残ったもの下沖須百
六十余人鍋村の内塩屋迄百四十余人、当所だけで七百人
程の溺死あり、従来の住所分明せず、為めに下沖須村は
扇崎村の内へ、塩屋の者は上ゲ鍋の内に新屋敷を割当住
まわす事を取計った。勿論以上の惨害・跡仕末一切処理
のため、(新野尾和平は)長男和次郎を伴い昼夜兼行六十
余日の間活動した。」各村々の庄屋や安養寺も、握飯やか
ゆを炊出して救済の手を打った。扇崎の荒木庄屋も救急
の処置適確であったため褒美を受けたという。時に坂下
会所の御内検詰小屋に勤務中の桜井又吉については、「海
辺高浪の節昼夜出精相働候旨にて、鳥目二貫五百匁同年
八月被拝領候」とあるのもその一例である。
 高瀬町奉行長塩寿八は同役の高橋町奉行へ被害状況を
書送った。小田郷総庄屋竹崎太郎兵衛は籾五拾石の救済
を郡代に要望している。|堤防が欠潰したため、丁度
苗代時期であった新地の水田は数日潮水に浸って枯死し
てしまった。小田郷では被害後一〇日あまりたっても種
籾の工面がつかないので、御囲籾のうち昨年秋とれた新
籾がほしい、自分の手永の秋の囲米は既に内田手永の水
害の折、古籾と引替えている。一日も早く蒔直したいの
で、籾はいくらいるかわからぬが、自分の大体の見込み
で五〇石欲しいと申出たのである。
 上沖須名石宮も津波によって流失し、神官古庄常陸も
溺死した。流失後の名石宮再建のためには、長須四王子
宮の松田志摩が尽力した。「玉名郡名石宮先達津浪(此年
三月一日、二日にかけて地震数十回)の節流亡に及び候
により、再建のため神体を背負い五ヶ町相対勧化仕り度
段、同郡四王子宮社司松田志摩願により一ヶ年に一度宛、
三ヶ年の間勧化致し候儀指免し候。尤も強いて施物を受
候儀は叶い難く……」という勧化御免の記録が熊本町古
町に残っている(城下の町人)。五ヶ町に対し相対勧化御
免を願う事は、嘉永元年には川尻大慈寺からも諸堂修復
の際に行っている。
 このつなみには藩も直ちに救済の手を打ち、幕府から
三万両の借金をした。「其方領分去年以来打ち続き候水害
殊に高波の様子は別して並ならざる趣、人民の死亡、破
損ケ所も少からずと相聞へ」、公儀よりは三万両の見舞が
あった。
 古来肥後の津波の記録としては、七四四(天正一六)
年、八六九(貞観一一)年、一七三三(享保一八)年、
一七四六(延享三)年、一七四八(寛延元)年とあるが、
この寛政の津波が最大であったろう。
 玉名郡内の犠牲者の弔魂碑は、鍋扇崎の県道横高台上
にあり、通称[鬼除|おんのき]の千人塚と呼び、荒木庄屋が建てたも
のという。碑の南向き正面には、南無阿弥陀仏と大書さ
れ、三面には次の文が刻まれている。
 「ことし寛政四年の年壬子正月より 肥前国温泉乃嶽
煙たち炎火日に月に熾にして おなしき四月一日の夜山
くつれて海に入り うしおあふれて我が国飽田宇土玉名
三郡の浦々に及ひ 良民溺れ死する者玉名郡に二千二百
余人 飽田宇土をあわせて四千数百余人 たま〳〵活の
こりたるも父母をうしなひ 或は老いたるか子むまごに
おくれて泣きさまよふ あわれといふもさらなり かか
る事ハふるき史にもまれなることになん 夫民は国の本
なりとて同しき六月に 官より僧に命して追福の事を修
せしめ その九月に一郡に一基の塔を建てられ 死者の
名を録してここに納め 幽魂を鎮せしむ 死者もし志る
事あらは 千年の後まても 死して朽ちずとおもふなる
へし」
 この多数の犠牲者の供養は、毎年四月一日に玉名市中
明正寺の住職を扇崎に招いて行っていた。大正末期に一
○年程中止されていたがまた復活し、現在は扇崎青年団
の手によって営まれている。千人塚の前で読経を行い、
団長宅で昼食その後法話となっている。
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 321
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 熊本
市区町村 岱明【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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