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項目 内容
ID J1100080
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔熊本県潮害誌〕
本文
[未校訂]第四節 寛政の津浪
⑴寛政津浪の原因 此の津浪の原因は島原港の直面に
峙つ眉山の一部が有明海|島原港の所|に陥落したるた
めに巨浪を起しこれが津浪となつたものである。眉山は
雲仙火山彙の弱点の東端に崛起したるもので、山高は僅
かに八百七十米に過ぎないが(我が金峰山の約七百米よ
りも高い)今山腹を東方から見れば灰白色を呈して急傾
斜を為すのは寛政四年の崩壊の跡だと称せられる。
 此の眉山の崩壊に就きては斯学者間に両説あつて地震
学者大森博士(房吉)は此れは単に地震々動の影響に起
因する単なる山崩と為す。佐藤・駒田両理学士は眉山の
崩壊は爆裂噴火の結果であると云つて居る。
 眉山が大崩壊(或は大爆発)を為して其の崩壊物が島
原海岸に陥落を為した量は、大森博士の計算によれば、
当時の崩れ落ちたる場所は、幅約二十町、縦約二十町、
崩壊せる土砂層(但佐藤学士は土砂層ではなく眉山熔岩
の閃雲安山塊といつてゐる)の厚サを一町と仮定すれば
其の容積は四百立方町となる、厚サ三尺に直せば三十六
方里の面積となつて、島原半島と肥後国玉名・飽託・宇
土諸郡との間なる有明海の広さと殆ど相等しいと云つて
ゐる。
 実に莫大なる数量である。こは単に大森博士が眉山の
一部が所謂山崩れしたときの計算であつて、佐藤・駒田
両学士等の説のやうに、若し眉山が大爆発して其の爆発
口から多量の熔岩や岩塊が噴出落下したものとすれば、
尚一層其の量の多大なることを類推せしむるのである。
 斯る多量の熔岩や其他の岩塊が飛散して、東方の島原
港附近に数多くの島嶼を作つた。今尚島原港口に散点す
る群島は、俗に九十九島と云ひ、又島原赤壁と云ふ絶景
を造つたのは其の結果である。斯くして出来たものを地
学者は『流れ山』と云ふのである。斯く一方には数多の
群島を今尚残す程の多大の熔岩や土砂が有明海に陥落し
たるため、それが俄然巨浪を起して津浪となつて沿岸を
浸襲するに至つた。
⑵津 浪 斯る地変が島原半島の一部で起つた。素よ
り島原半島の沿岸即ち当時の島原藩の領民に大々的惨害
を与へしことは当然のことして、此の半島から渺茫た
る有明海を隔てゝ肥後の沿岸にも惨憺たる災害を与へた
ることは皇天も亦無情なりと謂ふべしである。
 今尚肥後国の沿岸各地には寛政の大津浪といつて、古
老は其惨害を語り伝へて居るが、大正三年の津浪につい
で、昭和二年の大津浪の惨憺たる被害の為め、寛政の津
浪は最早忘れられんとするのであるが、人畜の死傷、田
畑の損害等は到底近時二大津浪の被害の及ぶ所でないの
で、左に其の状況を記述しよう。(金井俊行氏編寛政四年
島原地変記稿本抜萃)
⑶眉山の崩壊と津浪の状況 (注、省略、「史料」三巻
七二頁以下参照)
⑷寛政津浪の記念塔 前記のやうな未曽有の大惨害当
時の人としては忘れんとして忘るべからざる種々悲劇、
哀話等があつたのであらう。今それを記念する為め本県
の沿岸各地に石碑がある、其の石碑は左記小島町のもの
によりて想像するに各郡に一箇づゝ建設せるやうであ
る。今所在地明なるものを左に挙げよう。
小島町記念供養塔 飽託郡小島町大字下松尾字西
御幸墓地内にあつて、塔石は普通の石塔形で一尺六寸
角、高サ四尺七寸、下に三段の台がある、正面に南無
阿弥陀仏と刻し三面に左の碑文を刻してある。石碑に
向つて(左側面碑文)。ことし寛政四の年壬子正月より
肥前の国温泉の嶽けふり立出火日に月に熾にしておな
しき四月一日の夜山くつれて海に入り、しほわきあふ
れて我国飽田宇土玉名三郡の浦々に及ひ良民溺れ死す
るもの飽田郡に千百余人宇土玉名をあはせて四千数百

(後面) 人たま〳〵話のこりたるも父母をうしなひ
或は老たるか子やまごにおれて泣きまよふあはれと
いふもさらなり。かゝる事はふるき史にもまれなる事
になん夫民は国の本なりさて同しき六月に官より僧に
命じて追福のことを修せしめその九日に
(向つて右側面) 一郡に一基の塔を建られ死者の名
を録してこゝに納め幽魂を鎮めしむ死者もししる事あ
らは千年の後まても死して朽すとおもふなるべし
川口村の記念塔 川口村字方丈良覚寺(真宗本派
本願寺)にあり、長方形石塔形の塔で正面には「南無
阿弥陀仏」と刻し、右側に寛政五癸丑二月、良覚寺十
世之住職円乗と刻す。因に記す、現住職は十六代で吉
村顕竜と云ふ。又左側には各邑毎に津浪の為めに死亡
せしものゝ人名を刻す。尚良覚寺に宝暦寛文年間の過
去帳があり、其の中に和紙で長綴ぢの帳面があつて表
紙に
寛政四子四月朔日溺死人数覚
飽田郡方丈村 良覚寺
と書いて開巻すれば溺死人数法名俗名覚と認めて溺死
者の人名人数を記述し最後に、右弐百八拾六人内百七
十四人当寺境内に葬居申候百拾参人其処に葬置申候、
とあるので当寺に葬りたる人数と其人名は塔面に刻し
あるのを見れば明白なるべし。此の塔は塔面に刻する
やうに良覚寺の住職円乗の建立せしもので前記の小島
町のものとは建塔の性質を異にす。
鍋村の記念供養塔 こは小島町のものと同一であ
る。即ち玉名郡鍋村大字[鬼除|オンノキ]共同墓地俗に千人塚と云
ふ所に建つ、其の碑文左の通りである。
ことし寛政四の年壬子正月より肥前国温泉の嶽煙
たち出火日に月に熾にして於奈敷四月一日の夜山
くつれて海に入りしほわきあふれて肥後国飽田宇
土玉名三郡の浦々に及び良民溺れ死する者玉名郡
に二千二百余人飽田宇土あはせて四千数百余人た
ま〳〵活のこりたるも父母をうしなひ或は老たる
か子はまこにおくれて泣きさまよふあはれといふ
もさらなりかゝる事はふるき史にもまれなること
になん
夫民は国の本なりとて同しき六月に官より僧に命
して追福の事を修さしめその九月に一郡に一基の
塔を建られ死者の名を録してこゝに納め幽魂を鎮
めしむ死者もししる事あらは千年の後までも死し
て朽ずとおもふなるべし
網田村記念供養塔 此の塔は小島村、鍋村のもの
と同一であつて、網田村大字戸口浦に建設せられて、
記念碑の形状碑文も三碑共に同様であり、因て茲には
其の碑文を略した。
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 316
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 熊本
市区町村 熊本【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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