[未校訂] 松尾家日記録によれば「寛政四年四月一日西方に百雷
の響一声と共に、海上波巻千丈襲来したり、高瀬川以西、
総被害たり。長洲町被害最も沿岸甚しと云云、人馬負傷
死を出す」と。又肥後文献叢書は「寛政四年四月朔日肥
後西の海浜高浪民屋数万軒破壊流亡人民四千七百三十余
人一時に海底に投没す。田畑亡所に成る。数百町国中救
恤の備不足の由にて公儀より三万両の恩給あり。米価一
表四十七匁粟二十七八匁より三十目に及。同冬に至り米
価益貴くなる。五十目に及命有りて四十目を以て限りと
す。行れず樽代を以て取遣前に同じ(樽代とは四十目に
売買して其の余りを樽代と号して取りやりをする姦商の
術)」と。又郷土里老の伝説によれば火山雲仙嶽の山崩れ
のため津波が起って、見る間に怒濤のために町中波にま
き込まれ、稀有の大惨害をうけたと伝えているが中には
清台寺やら東町の観音堂の前にあった銀杏の枝にすがっ
て助かった者もあったというけれども、少し話が太と過
ぎた大袈裟な伝説であると思う。実際は長洲に於いて一
番高い土地にある東荒神町では三本足の高さ二尺位の手
水皿の足が海水に浸ったと伝えているのが正しいと思
う。東町の観音堂裏に船池という船の形の池があったが、
この池は海岸の船が押し流されて残った跡型であると聞
けば、勿論海岸地帯は殆んど大被害をうけたのは事実で
あって人も死し家も流れた事であろう。松尾家の日記に
は家系図が流出したと伝え、馬場氏宅は居宅が海水のた
め荒らされたと覚書に書いてあるのを見ても全部海水に
浸ったが海岸の様にまでは被害はなかった様である。元
禄時代に建てられた清台寺などはそのまゝ残っているの
でも証明されるのである。清台寺に伝わる話には、当時
代の清台寺住職明増は海岸線に横わる無数の溺死体に対
し一人ずつ読経しながら各々死人の親指に法名を括りつ
けたと聞いている。誠に聞くもいたましい惨状であった。
其の他種々な伝説は之を略する。