[未校訂]第三章天災地変
第一節 寛政四年の津波
此の津波の原因は島原港の真西に峙つ眉山の一部が有
明海|島原港の所に陥落したる為に巨浪を起し、これが
津波となつたものである。眉山は雲仙火山彙の弱点の東
端に崛起したもので、海抜八百七十米に過ぎないが、今
山腹を東方から見れば、灰白色の急斜面が見られるのは
寛政四年の崩壊の跡だといはれる。
此の崩壊については地震々動による影響に起因する、
単なる山崩れと為すと云ふ説と爆裂噴火の結果であると
云ふ説があるが、何れにしても現在島原港に散点する群
島は、俗に九十九島と云ひ、一名島原赤壁と云ふ絶景を
造つたのは其の結果である。此の様に数多の群島を残す
程の多大の岩石が有明海に陥落したるため、それが俄然
巨浪津波となつて沿岸を浸襲するに至つた。素より島原
半島の沿岸は言語に絶する程の大惨害を蒙つたのは当然
であるが、此半島から渺茫たる有明海を隔てゝ肥後の沿
岸にも惨憺たる災害を与へた事は余りにも有名である。
肥後の沿岸各地には島原の大津波といつて、古老達は
語り伝へてゐるが、既に記憶から消えてしまって、人畜
の死傷、田畑の損害等は到底昭和二年大潮害の及ぶ所で
はなかつたといはれる。是について方丈良寛寺に記念碑
があり真行寺の過去帳には其の一部を窺ふ記録がある。
何れも別項参照。
記録には「寛政四年正月十八日子の刻劇震。又震動の
声は温泉岳(雲仙岳)に起り、数百の大雷に異らず。是
れ噴火の初めである。
此の日雲仙岳の最高峰普賢岳の頂上に噴火した。それ
より激震鳴動止む時なく、島原領内の者は恟々として安
眠することができなかつた。是より先き寛政三年十月八
日初めて地震があつた。爾後毎日強震があつた。さうし
て四年の正月十八日には普賢岳が噴火し、四月朔日には
眉山の崩壊に続いて大津波となつた。」と。
又島原地震記稿本の略記に依れば、|
三月朔日劇震の後、毎日地震ありと雖も、又前日の如
き劇動あるにあらず。度数も亦大に減じ、市民も稍々帰
来し已に日数を経しことなれば、此儘鎮静して不日平常
に復するならんと皆想像したりしに、何ぞ量らん四月朔
日、前山破裂せんとは。此日暮後強烈なる地震累ねて至
り、百千の大雷一時に落つるが如き音したり。諸人大に
驚き、藩士は直に登城したけれども其の何の変たるを知
らず。暫くして市街号哭叫喚の声を聞く。又門侯は市街
に潮光あり洪波の景なることを報ず。是に至りて人始め
て洪波の災なるを知るも、未だ前山の破裂を知るものも
なく、又想像も及ばざりき。天将に焼けんとする頃に前
山の異状を察するものあり。漸く焼くるに及んで始めて
其の破裂の状を見、諸人の驚愕実に譬ふるに物あらんや。
思ふに茫然自失したるなるべし。
前日迄海辺に屹立したる前山は東方半面破裂飛散し、
其の屛風を立つるが如く白赤の焼石は絶壁の状を呈した
り。其山麓の部落は已に丘陵の下となり、島原港は権現
山に連続したる平地と変じ、数十の丘陵池沼参差碁布し、
数十の島嶼は新に海中に散布し、昨日の景況は夢の昔と
変り果て只桑滄の類を歎ずるのみ、爾後地震ある毎に前
山は絶えず崩壊して其響大河の流るが如し。今尚時に風
声の如きを聞く。
洪波三度来り、第二の波最も高し、其方向は前山以北
は南より来り、以南は北より来りしと云う。其高低は諸
書一ならず。藩庁の報告書には平潮より高きこと三十間
乃至十九間とす。
大手門の並木塵芥の掛りたる枝は大手櫓よりも高かり
しと言えば凡三十尺内外なるべし、然れども村尾祐助は
大手石垣を攀ぢ城に上りたると言えば当時諸樹も未だ斯
く高かりしなるべし。又田町門衛の燈火に等しかりしと
云へば二十尺内外なるべし。又三会村景花園の樹木より
も高かりしと云へば三十尺内外なるが如し。(中略)
島原の対岸である宇土郡、飽田郡、玉名郡の沿岸には
激浪が襲来して田園の荒廃は島原領より遙かに甚大であ
つたと云ふ。当時「島原大変肥後難題」とさへいはれた
俚諺によりても察せられる。
正月十八日昼夜間断なく五、六度から数十度に亘つて
地震があつた。島原対岸の飽田郡の者は、万一島原地方
に山火の災あらば之を救はんとて船の準備をなしたれ
ど、誰とて洪波の事を虞るるものはなかりける。三月下
旬に至れば地震も止み温泉嶽も澄み渡りて見えければ、
稍心を安んじけるに、四月朔日の夜黄昏に及ぶ頃、西方
雷の如く鳴り暫くして洪波至る。速く走る者は皆命を全
うしたれども稍富みたる者は家財器物の為に躊躇し命を
失ひたる者多しと云ふ。飽田郡二丁村川口に繫げる千六
百石積三十二反帆の船は、大なる堤塘を打越し、海岸よ
り数百間なる方丈村に押上りたり。船に居る者も翌朝に
至り其陸地に在るを知りしと云ふ。 (略)
宇土郡、飽田郡、玉名郡の被害
流死 四千六百五拾三人
内訳 宇土郡 千弐百六拾六人
飽田郡 千百六拾六人
玉名郡 弐千弐百弐拾壱人
負傷 八百拾壱人
死牛馬 百五拾壱匹
流潰家屋 弐千弐百五拾弐軒
潮入荒地田畑 千百(ママ)
三十町九反九畝九歩
宇土郡 二百七十六町歩
飽田郡 千百六十五町八反九歩
玉名郡 六百八十九町一反五畝歩
荒地塩浜 二町八反歩余
尚、肥前肥後の死者総計は壱万四千五百三十七人、負
傷者千五百拾八人。
第一項 真行寺の過去帳記録
寛政四年の島原津波に関する事柄が真行寺の過去帳に
記されてゐる。縦五十糎、横綴二十糎、古色蒼然たるも
のである。
寛政四子暦此年嶋原雲泉山三月従朔日地震、日日無謂
幾度、昼夜頻也。然処四月至朔日暮六時先代未聞之大津
波而死者数不知、于時従公儀御改之人数従永須
(長洲)此方二丁之津迄七千四百七十八人也
北沖村幼夢 夫左衛門
四月朔日 躬
第二項 津波溺死者之碑(方丈良覚寺)
寛政四年(約百六十余年前)四月朔日津波溺死之者百
七十余人
当時境内此所葬置候附、従御上、石碑御建被下候
寛政五年二月 良覚寺十世之住職 圓乗
碑面 南無阿弥陀仏