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項目 内容
ID J1100068
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔長崎県の歴史〕
本文
[未校訂] 島原大変 それまで一三〇年間ばかり鳴りをひそめて
いた雲仙岳が、一七九一(寛政三)年十月から、にわか
に火山活動をはじめて毎日のように地震が続きました。
翌年一月十八日には普賢神社の前に大噴火がおこり、二
月には三会村の穴迫谷に噴火がおこって熔岩が流れ出し
ました。これをみた附近の住民は、はじめは恐れおのの
いていましたが、しだいになれてきて熔岩を見物する
人々がたくさんおしかけました。そこでにわかに茶店が
できて酒をのみ、歌をうたってさわぐ人々まで多くなり
ました。藩庁からは災害を防ぐために遊覧禁止令を出し
たほどでした。三月になると雲仙嶽の鳴動はさらに甚だ
しくなり、一日に百回以上も地震が続くようになりまし
た。
 このようにして不安な一カ月を過ごした四月一日の夕
方に、天地もはりさけるような大爆発がおこって、眉山
の東半分が頂上から麓までさけて有明海の中に崩れ落ち
ました。附近の村や城下町の一部は土砂の下に埋没しま
したが、さらにこの山崩れによって大津波がおこり、北
目・南目の数カ村を洗い流し、流失家屋五千六百余戸、
溺死者約一万五千人、田畠の損失一六〇〇町歩の大被害
を与えました。またこの大津波は対岸の肥後の沿岸にも
おしよせたので、溺死者約五千人、田畠約二七〇〇町歩
の損害を与えました。そこで人々はこれを「島原大変肥
後迷惑」といいました。藩庁ではただちに被災者の救済・
負傷者の治療・死体の処理・市街の復興に全力をつくし、
幕府からも多額の金を借って復旧につとめました。けれ
どもこの地変で藩主忠恕の生命をちぢめたばかりでな
く、財政の上にも莫大な損失を招いて、藩の経済的困窮
を深める結果となりました。
 なおこの大地変は、さらに島原市一帯に一夜のうちに
大変革を与えました。地変前の海岸線は、現在島原市の
目抜通りになっている中堀町のあたりでありましたが、
はるかに海の沖まで埋まってしまいました。島原港は埋
まってしまって沙漠のようになり、またそれまで湧きで
ていた泉の水が出なくなったり、新しく泉ができたりし
ました。当時江東寺の墓地であった所から湧き出した清
水は、勢が強くてみるみるうちに大きな湖となりました。
藩庁では人夫を出して堀割を開いてこの水を海へ流しま
した。これが現在の白土湖と音無川になったものです。
 中木場村ではこの地変のため全然水が出なくなりまし
た。そこで庄屋の下田吉兵衛は寛政から享和年間に十八
カ所の井戸を掘りましたが、一滴の水も出ませんでした。
それで一八二一(文政四)年四月に木樋の水道工事をは
じめ、多額の費用をかけて同年九月に竣工し、三〇〇戸
の住民をすくい、七町歩の田畠を開くことができました。
 またこの地変で眉山は高さが半分になりましたが、崩
れ落ちた土砂は港沖の海中に入って大小無数の島をつく
りました。これが今日、九十九島とよばれているもので
す。
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 295
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
市区町村 長崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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