[未校訂]第十三章 雲仙嶽爆発
第一節 爆発最初の被害
寛政四年三月から四月に亘って雲仙嶽の爆発は近代の
島原半島での一大惨事であった。その大爆発に当り諫早
藩は島原と境を接し、避難民の入境する者も多く、日頃
の入国者取締規定に当て篏めて措置するには、余りに事
態が大き過ぎた。藩主は佐賀に詰めている。唐比常詰め
の御番所役人は身分が軽いから独断に措置しようには荷
が重すぎるのである。そうした非常事態の発生に対して
当時の藩庁は如何なる措置に出でたか、茲には前代未聞
と言われた此の大爆発大惨事を、諫早藩側から見た諸記
録によって記述することにする。
寛政四年三月一日暮れ六ツ時、諫早地方に大地震が起
った。最初の大震で、諸寺社の石塔や石燈籠が歪み出し、
中には倒れたところもあり、諸屋敷の石垣が纔ずつ摺れ
を見せ、崩れたところもあり、古町の石橋の梁が二本折
れ目が生じたが墜ちはしなかった。而して二日の夜明け
までに約十回の地震があった。朔日も二日も三日四日も
諫早地方は好天気であった。其間絶えず家鳴りを起す地
震の連続であった。四日に至って唐比御番所詰の士秀島
忠兵衛から報告書が来たが其の大意は『島原城から一里
ほど隔てた前山が火を噴き出し島原城へは夥しい火の子
を吹き掛けた。この噴火に先だって潮が噴き出したと伝
えられ。それで島原様は二日の朝、三の丸を立出でられ
御舎弟帯刀殿其の他御家内は愛津まで避難されている。
市中の者は神代から愛津の間に移り難を避け群衆してい
るが長崎に知人を有する者は二日から一家が引越しつゝ
ある。それは子供だけ連れている者少しの荷物を携えて
居る者とまち〳〵で、二日には十四五人であったが、三
日には五十人位通過した。嶋原から長崎へ毎日飛脚が通
るから、夫等に聞き合せても以上の通りである。唐比は
隣端の事であるから、宿など相談を受ける事も起ると思
われるが、今の事情から推して断ってしまう事も出来兼
ねると思われるから御指示を仰ぎたい』と言うのであっ
た。唐比御番所の報告が来たので、四日に諫早から佐賀
屋敷に第一報が送られた。その大意は『さる一日昼七ツ
頃より少々ずつの地震があり同夜六ツ頃より十度ばかり
の大地震があり小さいのは夜中絶えなかった。この地震
で諸所の石垣は纔かずつの破損があり古町の石橋梁は二
つの折目が出たので橋の上に桁を引き数本の木を渡して
板石を載せて渡るに危くないようにした。地震は今も続
いて居り六、七十才の老人達も、こんな地震は覚えがな
いと言っている。これはこの正月から温泉が焼けていた
からだと言われ、今日唐比郷番所から秀島忠兵衛が来て
別紙のように報告した。唐比森山は程近き所であるから、
時として不意なる事態が起るかも判らないから誰れか適
当な人を駐在させて置きたい、又秀島からは島原へ御使
者を立てられて如何かとも言っている。猶ほ追々事情は
判ることゝ思われるが取敢ず大意まで』として数名に宛
てたものであった。尚お追って書きには『御私領は安全
のため御祈禱など仰せつけられる事もあれば即刻お知ら
せを請う』とある。三月五日も好天気である。五日朝は
一日の暮れに起った時よりも大きく揺れた。其後小地震
が絶えない、これではどんな凶変が起らないとも限らな
い。諫早の藩庁では唐比と森山の心遣いとして土井勇衛
門主従三人、末次恰主従二人が派遣された。この二人は
御目見と侍の中から選ばれたもので、その使命は、避難
者が宿を乞う場合適宜配慮すること。避難者が救済を乞
うとき成るだけ助力すること。老人病人等預ける相談が
あったときは条目によって配慮すること。御番所庄屋な
どへ島原役人より難民の宿泊方申込を受けた場合は一々
会所へ報告し処すべきだが、無慈悲な応対などがあって
はならぬこと。村民にも此意味は達しおくこと等であっ
た。
下町の伊与之充という男が二月二十九日から島原城下
に行っていたが此の男の情報によると『一日の昼から少
し宛地震が起ったが、暮れ過ぎまでに三十回ばかりを数
え、六ツ半から五ツ時までに二度の大地震が起り物凄ま
じき音が起った。其れは前山が崩れ落ちたから起った響
きであった。同夜は五ツ半と八ツ頃と明け六ツ頃の三度
に大地震があり、其度に山崩れの音が鳴り響き、口で語
っても分らない、同夜五ツ半山潮だという声が起り市中
の者は思い〳〵に船に乗り沖合一里位に漕ぎ出したが、
これは山汐ではなく山の砂がこぼれ下る音であった。島
原様は同夜九ツ時に船で海上に出られた模様であった
が、二日には三百石位の身分の侍と見える者が早打ちで
山田村に行ったが、これは島原様が山田に立退かれる用
意のためであった。前山は二日まで火は噴かなかった。
だがこの山は岩山の根生えがないから崩れ倒れたら城下
は土の下敷になると恐れられ、市中諸所瓦が落ち梁が落
ち、二日になると市中の者は、縁類を頼って、二里三里
の場所に避難し、市中は空家となったところもあり番人
のいるところもある。一月に噴火したところは城下の西
に当り、せん吹村で今日も黒煙夥しく煙の中に綿かごの
様な火が燃えている。二月朝から船留めになり万一に備
え、侍達は二日までは立退いていない、私は二日朝飯後
島原を立って来た』と。
唐比の庄屋丈兵衛は四日情報集めに行ったが、其の報
告は『城下は御家中も町家も皆立退いた、前山は漸次崩
れて城内に落掛った。五日限りに島原城山其外大崩れに
なるだろうと言われ、小浜村掛戸水喜津にある小島が五
ツ半ごろ鳴動を始め白煙が揚がり、一遍は噴火のように
も見え、唐比から遠望すると島は崩壊したように見えた、
島内の呑水其他一時湯になったが後にはぬる湯のように
なったと言われた。南千々岩から向うは殊に呑水が湯に
なり出で湯が水になったりした。島原様は此数日旅装束
で仮屋にあられるが、立退かれるときは海上肥後に渡ら
れる手筈である。唐比は五日朝二度の地震で愛津も同様
だったが崩残りの石垣が皆崩れ、汲水は皆泥水のように
なった。斯うした大変事に村中は不安に満ちている』と
あった。この五日までに天祐寺の諫早家墓地の石塔石燈
籠が殆ど倒れていた。お屋敷濡門脇練塀も倒壊した。
第二節 現地視察者の報告
三月五日、島原に出張した藩御目附田中新右衛門がそ
の見聞を七日に報告したがこれは下町の伊与之充の話の
後に続く新消息であった。大約すると『五日、山田辺り
に紋附の幕打廻した八反帆位の小早船一艘、網船格好の
伝渡一艘が繫いであったが、これは若殿様とお姫様方の
乗船であり若殿は十歳位とのことである。御兄弟四人、
去る三日から山田村庄屋宅にいられたものが五日朝の大
揺れで庄屋の囲石垣残らず崩れたので、森山(守山)村
庄屋宅に移られた。山田村は余り損害は見られない、津
浪に洗われた被害は大きいが、村の家は少し曲った所が
ある程度、城下からの避難者は二十人位、島原街道は避
難者らしい駕籠が絶えず、家財を搬ぶ者も見受けられた。
又六七反位の船数艘に島原の定紋船印を立て俵物を積込
んでいるのに出逢った。これは城下の御回米を山田に送
るものであった、城下近くの海上から普賢嶽の焼場を見
ると、絶頂から二三合のところに白煙が少し立登り、麓
の方には百間幅位も焼野の黒味があり、まばらに煙が立
っているが、其の勢は衰えていた。時々遠くに石火矢の
鳴るような音が聞こえると、山の焼場から何処ともなく
一叢の煙が上るが、其の時地震が起る、尤も地震が先で
後から煙を噴くときもある。焼下った停まり口はせんふ
くという所で人家より三百五十間ほど離れているが、家
の者は全部先達てから逃出し、焼けた谷筋は穴底という
ところで、元は凹ミであったが今日では此谷は埋まって
却って高くなっている。城下から普賢嶽頂上まで三里だ
が焼下った最下端は一里位である。焼け続いている長さ
は約一里半位と見られる。最初に煙を噴出した一帯は已
に煙は立たなくなったと言っている。地震の初発は一日
の昼七ツ時で一二度、夜に入ってから大地震が起り、城
下から十四五丁離れた前山というのが崩れ落ち其音が激
しく城下の者は堪え切れず海陸に逃出したとの事であ
る。この前山は嶮岨な岩組の砂山で木立もあるが地震の
度毎に早瀬のような音を立て石が転び落ちている。谷々
は砂煙が立ち城下には迚もヂッとして居られない。普賢
嶽の焼けるのは地震以来静かになったが、何時また噴火
するか分らず藩役所は避難するようにと触出しており町
家は其前から避難し、表を閉めて空家のようになってい
る、留守してるのは亭主だけである。湊内所々に莚張り
の小屋をかけて群集し船住居の者も多い。今日湊内にあ
る船は一千艘にも及ぶと見受けられ、諸村から公役に廻
った船は三百七十艘、これに要する舸子の飯米は一日一
升ずつ渡されている。御乗船と思われる四十八丁立早船
一艘、十八丁位の早船七艘紋附幕を打ち船印を立て繫い
である。磯辺にも小早二艘が繫いであるがこれは火急の
場合の準備の由、城下の地震は余程酷かったものらしく、
街道中長さ四五間、巾四五寸位縦に割れたのが諸所に見
られた。家の破損は余り目立たない、古びた練塀、丈夫
でない壁石が崩れ、御城は三階に損所が生じたとの事で
あるが見たところ何の変りもない。 役所では難儀の者に粟百俵を与えることになり一人当
り三升五合が配当された。主殿頭様も山田村に引越され
たが今回の善後策が完遂するまで御参府は延引在国され
る』と。先方の会所から公式に聴取ったものではないが、
淡々として見聞した分を報告したところに却って真相を
窺うに足るものがある。
第三節 津浪と被災者救済
記述が前後するが、一日夜の津浪で諫早領のうち竹崎
の如きは手強い損害を蒙っている。被害地からの報告に
よると、島原と向い合せに位地するだけに竹崎は死人怪
我人が出て家屋家財の被害も多く、細民達は早速食料に
困り救済分を申請したので次のような発表があった。竹崎津人二十人へ米。右は怪我人に付三日より同廿二
日迄日数二十日分、一日に一人二合ヅゝ
同津人五十四人へ米。右は極難者に付三日より同十五
日迄日数十三日分、一人前右同断
右同所別当太右衛門へ米二斗七升。右は三月一日夜極
難者共へ握飯御介抱有之候様、入江忠右衛門方より申
に付二日朝昼両度に相渡候事
一銭七百八十文。一壱間菰四枚。十二間菰二枚。一白
藁二十五把。右御番所仮造作用。
一銭三十三貫六百六十文。一米七斗八升九合九勺。一
小麦藁五百把。一白藁五十把。一繩三十五束。一紐六
十筋。一あみす十五枚。右は御番所番宅造作用。
一弐拾九貫八十九文。一米八斗五升六合七勺。小麦藁
二百把。一白藁七十把。一繩二十束。一あみす十六枚。
一弐間菰十枚。右は大浪にて洗ひ崩し候に付御番所新
建入方。
三月四日請役所は諫早領内東目南目西目へ次ぎのように
触出した。(仮名訓み下しに改む)
島原領温泉嶽変事これあり同領中其外より数人神代表
へ立退き候由、この未(ママ末カ)数人立退き来る義もこれあり、
神代計りへ逗留の場所ありかねる節は諫早筋最寄りの
場所へ差置く外これなく候条、時に至つて差支へざる
通り只今より大概宿の義目論見おかれ候様と有之候
以上
この触出しは郡方と雑務所への心得であろう。諫早から
は数人の家来を森山唐比に出し、嶋原へも情報蒐めに数
人出しては見たが、島原城主は山田に移られたというも
のの有力筋の確報とは言われないので、郡方役中島九左
衛門は島原役中へ御様子承はり度く又御用事もあらば仰
せ聞けを請うと三月八日附で公文書とでもいうべき飛札
を送った。これに対し島原からは松平主殿頭家来谷川平
太夫以下六人連名で九日附左の通り返報した。(訓み下し
に改む)
仰せの如く未だ御意を得ず候処、貴札拝見いたし候。
然ば近頃の地震、その御地の儀も、去る朔日より今日
に至り繁々震ひ、其内朔日夜、五日、別て手強く有之
候得共、左までの御破損等もこれなき由、珍重の御事
に存候。当地の義は別けて烈しき趣き御聞きに及ばれ
御隣端の儀、お世話思し召され様子御聞き御座成され、
右につき、相応の用事も御座候はゞ御聞き下さる旨御
丁寧の御紙表の趣き委細承知致し候。当地震の義、去
る朔日未の半刻頃より震ひ出し同夜別けて強く二日三
日も同様にて、四日より少々軽く間遠にも相成候処、
其中には格別強震も折々有之、今以て相止み申さず、
御察し通り心遣の義どもに御座候。併し追日穏かに相
成り此分にて相鎮まり申すべき哉と存候。思召し寄り
御懇情なるお尋ねに預り辱けなき次第に御座候。則ち
家老どもへも申し達し候処、段々御念に入れられ候儀
猶又宜しく御挨拶に及び候旨申聞け候。右御報せ御意
を得べきため斯の如くに御座候。恐惶謹言
此の文書は深刻な内容を示さず、何処となく儀礼的であ
るが、佐嘉諫早間には隣藩への外交的考慮と諫早領内影
響について毎日飛脚が往来した。三月十日附で佐嘉に送
られた唐比村の被害状況は、倒壊家屋十一軒、半壊一軒、
石垣被害延長七十間位、煉塀倒れの家三十軒、同灰小屋
倒壊八十三軒、呑水悉く濁り使用されているのは村中に
一ケ所のみとある。藩士の宮崎此面は神代まで視察に派
遣されたが其報告書の大意は下の如くであった。『十一日
晩伊東四郎兵衛と会い語り合つたが、神代へ逃込んだ島
原の者は三百人ほどであったが、十、十一日に段々返り
十二日になると五六人が残っているだけとなった。地震
は続いても人心が落付いて来たからである。それで銀米
の御用も左まで感じないようである。然し山々は静かに
なったとは三ロえ、日増しに焼け下りつゝあるから油断は
禁物である。殿様の御使者は香田新左衛門方に逗留、図
書殿の来着を待って相勤める筈。普賢嶽頂上のニケ所は
湯泥で乾いている。穴底谷と申すところより下十日頃ま
で見分け城より三十五丁程隔たり居る由、尤も日増しに
焼下りつ・あるというから次第に町に近づきつゝあるわ
けで焼泥は専ら谷伝いに下っているそうだから海岸まで
下ると、城より二十丁ほど北脇となるが、最近は城の方
へ折曲がりつゝあると言われている』と。三月十五日、
諌早から島原に正式に見舞の使者が立つことになった。
使者は早田嘉左衛門主従四人で鑓挾箱が附き、小姓喜多
文次郎、円城寺隼助両人、駕籠舁夫丸(ママ)四人、馬一匹であ
る。使者早田が言い附かった主殿頭へ御家老中の口上書
は『主殿頭様益々御安泰可被成御座恐悦奉存候将又其御
領内温泉山変事出来之段承知仕候依之為可奉伺御機嫌差
上使者此旨宜様』というのであった。
第四節被災藩との使節往来
この使者は謂はゞ隣藩に対する外交使節である。当時
の各藩が斯かる非常時に当って訪問を如何に遇したかと
は興味ある問題である。この時の早田嘉左衛門の手控え
がたど〳〵しく認められてあるから、それを概記する。
肥前屋へ十七日昼九ツ頃着くと先方から使者が来た。
而して役目と主従人数を書類にして呉れというから、
諌早兵庫使者主従七人と認め渡し、直ちに町別当姉川
伊兵衛に通知を出すと、城内へ通告することになった
ので暫く待っていると七ツ過ぎに唯今お勤めあれとの
通知が来た案内は最初肥前屋に来た士で、城の敷台に
掛ると蹴離しの左右に薄縁が敷かれ上下着の者が列ん
でいる。内村助右衛門という男が使者の間へ案内した、
一遍の挨拶をして室内を見る、と本床に掛物、生華、
次ぎに硯箱料紙箱、刀掛けがあった。取次ぎされたか
と尋ねると済んだと答えて引込むと青木九郎兵衛とい
う島原家臣が出たので前掲の口上を述べると、主殿頭
様へ御使者の趣を申上げるというから、御家老中へお
使者を仰せ附けられると又御取次ぎを経るのかと聞い
た。青木は自身で取次ぐと言ったので口上を手紙にし
て渡した。早田は刀を小姓に渡しておいたが、この青
木と会った後、刀は式台に出迎えていた者の手で使者
の間の刀掛に移された。而して盃が出たが此座に於け
る挨拶は始終助右衛門が応対した。肴は、引盃吸物、
取肴、刺身、坪は吸物、鉢肴であった。助右衛門は『旅
宿へ料理など申付けあるから後にお休息を願う』。と三口
った。早田は礼を述べて立つと九郎兵衛と助右衛門が
蹴離しまで送って出た。肥前屋の亭主は袴着で早田の
下城を出迎えた。主殿頭の取次返辞は
青木九郎兵衛
弥御堅固被相勤珍重被思召候然者温泉山変事之段被御
聞付御安否御尋遠路預御使者被入御念儀忝被思召候罷
帰候上為御使者宜申上候様
御家老中御返言
手控 内村助右衛門
弥御堅固被成御勤仕珍重奉存に然者当地温泉山変事出
来之段今度江戸表ゟ御下候於御旅中御承知之御城元ゟ
不遠場所に付主殿頭様為御安否御尋御使者御差越被成
候依之拙者共江も為御見廻之御口上之趣具に致承知被
入御念儀忝奉存候掛御自(目カ)御答可申述候得共此節之儀に
付乍略其儀無御座候段宜申伸候様御家老共申聞候
三月
早田嘉左衛門が使者として見舞いに行ったので、島原藩
でも答礼が必要になった。半月後には大惨事が起るなど
予想も出来ないので、儀礼的なことが行われていたので
ある。島原の答礼は十四日後の三月廿八日に行われた、
使者は星野小十郎という士で、大村からの帰途となって
いるから、大村と諫早の両藩へ答礼使者に立ったのであ
ろう、諫早では田町の山崎源太夫宅に着いたので宿其他
の歓待が次ぎのように記録されている。
宿山崎源太夫所、入亭主は同町市次、着掛に吸物一、
肴三種、見舞溝上衛守、袴羽織主従三人、鑓、右は町
方名目にて惣じては郡方ゟ罷出筈候へ共無人故、御取
次所安勝寺、式台堪忍田中宗十、秀島猪之介袴着、式
台左右へ薄縁一枚ヅツ敷候事、出向会釈迄主従四人鑓
挾箱、上下中島十郎兵衛、聞次右同断中島弥七左衛門、
出会挨拶主従五人道具挾箱合羽駕籠乗馬伝左衛門、床
掛物、生華、熨斗、次床料紙、刀掛、手洗鉢手拭、料
理二汁五菜、吸物三ツ、肴五種、煙草盆、高台茶、菓
子、相伴人中島十郎兵衛、台所田島弥市兵衛、料理人
土肥次吉、御目附西村喜兵衛、かたひ正林園吉、中村
左源太、西村実五郎、小姓料理一汁四菜、吸物一、肴
三種、かたひ手男より(句読は便宜加えたもの、小姓
料理以下は随行者への分を示す)
右のような準備が整って、宿亭主より安勝寺まで道案内
に立ったが、此時は袴着股立取り候事と附記してある。
屋敷へ出て。
主殿頭様御使者 星野小十郎
愈御堅固可被相勤珍重存候先達温泉山変事に付而ハ為
御見廻預御使者被入御念儀過分存候右御挨拶可申述使
被申付候此旨宜相頼之由
挨拶
御口上之趣承知仕当時兵庫城下罷在候儀者刻申越義御
座候乍然家老共へも申聞義候条御退屈にも可有御座候
得共暫御滞座被下候様
これで前記の料理が出て伝左衛門から挨拶文の敷衍があ
って、同人、弥七左衛門、十郎兵衛が蹴離しまで見送っ
た。この星野という使者は島原の御使者役で知行百五十
石、供立ては小姓二人、鑓挾箱三人、小者一人、駕籠四
人、合羽かご壱人であった。
第五節 再度の見舞使者
三月朔日から四月五日まで諫早地方は好天気が続い
た、四月六日始めて雨が降った。此間、毎日地震は絶え
なかった。
南高北高とも領民は馴れツ子になって居たことであろ
う。四月一日夜五ツ頃、諫早領内東目筋は海浜の人家が
夥しく破損した。島原の山津波が出たからだというので
ある。二日に藩役所から佐嘉へ送った註進の大意は『東
目筋大汐にて竹崎津其外破損した。汐は三度打返したが
其内最初のが一番ひどく、未だ詳報がない。竹崎別当の
報告では大汐大風波で海上に火が見え西向きに来たよう
であった。海岸を打崩し、家屋の全壊が十一軒、他は残
らず半壊、男女三人が死亡、内二人の屍骸は不明、とあ
った。飛脚の話では、船の破損や行方不明数は判ってい
ない。御番所は押流されたが、道具や印鑑掛札は紛失せ
ぬように守っていた。潮は平生より約七尺高く来た、小
川原は津方人家、橋、繫船など大破したらしい、今判っ
ているのは以上であるが、極難者など手当せねばならぬ
かと思われる。この津波は温泉山変事と関係があるかど
うか、西目北目からは消息がない。島原表の様子は不明
だが、昨夜島原に出火のような雲焼けが見受けられたな
どいう者もある』と諫早からは二日朝、末次恰(ママ)を唐比通
過、神代、島原へ派遣した。主従三人で鑓を立てさせた。
翌三日には更に宮崎此面を派遣した。二日東目の被害視
察に行った八戸九十九は次ぎのように報告した。
『竹崎の溺死者は今日検分が済んだ。朝飯後竹崎着と
同時に一体の様子を検分したが筆紙で尽せない厳しさ
だ。半壊家屋も人が住まえるようにはならない、土は
盤土ばかりになった所が多く、御番所は石垣が大崩れ
を起している。死人は西の平の者で、老人の女二人、
三ツの子供が一人、昨日神代から佐賀への帰路竹崎に
立寄った入江又右衛門が竹崎を視察した。入江は極難
者には取敢ず米五升宛の米札を与えねばなるまいと佐
賀に注進するから、諫早にも知らせておけと言った。
外の村々も被害があり田地に汐の打込んだところも多
い。苗代の損じたところも多いので植付に差支えるだ
ろうと言っている』とあった。
四月四日更に島原に使者を差遣した。片田江理助に小
姓二人、小者一人、鑓持一人、挾箱一人、合羽箱二人、
駕籠四人、荷付馬一疋である。片田江は五日九ツ頃森山
着、駐在していた宮崎此面が使者の宿は三宝村百姓久右
衛門宅だと言った。三宝村に島原家老が来てゐるので、
片田江の使者は其処迄で済むのである。六日未明森山を
立って三宝村に行くと道脇に百姓数人がいたが、其中の
一人が案内して呉れたが、上筋から手当を頂いている人
柄とは思えなかった。それが庄屋宅まで行くと、そこか
ら袴羽織小脇差の男が久衛門宅まで案内した。久右衛門
宅で暫く控えいると庄屋宅に来て貰いたいと羽織袴の使
いが来た。片田江が行くと松野甚兵衛という士が玄関に
出迎えた。而して直ぐに上段に引付けて挨拶があったが、
取次の士と一緒に片田江に面会したので主殿頭への挨拶
は口上で述べ家老への口上は手覚に認めて渡した。茲で
片田江には盃が出たが下物は吸物、刺身、取肴、鉢肴で
甚兵衛は約三時間ばかり世間話をしている処へ使者が来
て、家老の返辞が来た。片田江は其夜三宝寺村久右衛門
宅に泊って諫早に戻った。
第六節 再度爆発し城下は潰滅
普賢嶽が再び大爆発を起した。今度は前回よりも重大
であることは東目筋の津浪の被害状況からも推測するこ
とが出来る。藩では末次恰を現地視察に出張させたが、
其の報告の第一報には『二日に森山まで行き嶋原の様子
を問合すると、誠に言語道断の大惨害だと言っているが、
詳細は判らない、神代郡代伊東木右衛門まで聞合せのた
め差出し、三日の九ツ頃まで待ったが帰らないから、私
は神代まで行く予定だが、唯今島原から森山へ逃げて来
た者の話では、島原城では御城、古町、鉄砲町の三ヶ所
が残り居るだけであるという。人口被害が幾らか判らな
い。森山は早田岩太が居て時々報告する筈だから、私は
これから神代へ立つ』と、又四日附で同人から寄せた報
告書には『神代村に着いて幾蔵と申す者の家に宿泊、事
情を聞くと、神代から一里、島原の方に多井良という所
があるが此処には死人七十七人がある。人家は皆倒壊し
た。城下には残った家が七十一軒だけで、死人は一万人
と言うが今の処確数は不明である。主殿頭は千々石経由
で山田村に入られたというが大混乱の中で消息不明、神
代内の倒壊家屋は三軒だけ、田井良から島原迄の間は一
軒の家も残らず倒壊している。又江戸表へは早馬にて二
頭差登らせてある。諸国からの問合せはまだ一ヶ所も来
ず、鉄砲町の人と見受けられる男女何人かが逃去ったが、
その中に町人は六七人であったそうで、其の町人は、私
は江戸屋という者だが、爆発のときは神に参っていたの
で家の中に居らずに助かったと語った。此処でも様子は
判らないから、明早朝私は島原へ立つ』と。而して五日
附で後便が来た。それには『今朝早立ちで島原へ赴く途
中大野村すり崎という所から城下までの家は皆打崩れて
いた。城下に着いて市中を見廻ると、上ノ町凡そ五六十
もあるが、他は前便の通りで、田畑は皆砂となり、家跡
同然浜と化して居る。浜辺の松で一丈五尺廻りもあるの
が打ち砕け、死人は幾ら出たのか分らない。海中に穀物
の俵物が打交っているが、それを取ろうとする者もいな
い。前山の水頭という所から百間位南に当って大崩れが
起り、これから大汐が噴出し今に地獄となっていて、其
の鳴り響く音が中々申上げようもない。崩し口まで上っ
て見たいと思って出掛けたが直ぐに上から噴出したのが
崩れ掛って来るので帰って来た。此の焼け出しは、和い
だ模様である。まだ何れの藩からも島原には這入ってい
ない、佐嘉からは直ぐに視察員が派遣され来る筈とは神
代に於て聞いた』と言って居る。此の報告に基づき佐嘉
の藩公に送った報告書(仮名、句読を加え訓下しに改む)
急度啓達致し候。先達て註進に及び候東目筋津々大汐
にて破損に及び候次第温泉山変事余災にても御座ある
べきか唐比森山村へ先達ってより差越し置候人々も神
代へ其御地より出浮きの役人も何れも引払はれあり候
由について二三日此方引取り罷り在り候先以て末次恰
一昨二日より彼地へ罷越し神代郡方へ掛合ひ相替り義
も候はゞ、聞合の為め嶋原へ罷り越し候様相達し差越
候処、着掛け神代郡方へ書通いたし候其内相聞候処島
原城下言語道断の由に付早速出立ち罷越し途中にて神
代よりの返報落手、其の末城下迄罷越候段委細別紙の
通り郡方迄申越し、誠に以て前代未曾有の事どもに御
座候。先頃も郡方より島原へ書通も仕りたる義にて此
節は主殿頭様其の外山田辺へ御引越の様に相聞候につ
き打置きに差置かるべき様これなく、宮崎此面を彼地
へ差越し、此節の変事については御用等候はゞ仰せ聞
けられ候様、佐嘉へも申越しの段、取急き相達し候様
郡方へ申談し置き候。御役方へ唯今迄の次第郡方より
申越す義に御座候。猶又追々委細の義は知らせ来り候
次第註進仕るべく候へども先づ以て此段申越すべきた
め態々飛船を以て斯の如くに御座候。恐惶謹言
四月四日 早用三左衛門
田中伝左衛門
早田喜左衛門其外様
神代郡代伊東杢左衛門が末次の間合せに対して寄せた
返事の概要は『去る一日夜五ツ頃計らずも大浪参り、神
代浜辺の家大破し往還筋を打取り通路に困難な所もあ
り、島原の様子は御城は別条ないが市中は悉く打流され
残る家は七八十軒である。死人はどれだけあるのか今日
迄は分らない。三会村か土黒村まで浜辺の家は一軒残ら
ず洗い流され、是れまた死人は何程かまだ判明しない、
主殿頭並に御連枝、御家中残らず昨二日島原を立退き、
森山村山田村へ御退座である。この事情は二日朝と夕に
佐嘉へ註進している。誠に前代未聞の大変災で言語に絶
するものがある云々』と。
第七節 外科医療団派遣要請
四月五日好天気である。在島原の末次恰から藩庁の中
島久左衛門に急用の書状を寄せた。それは、温泉嶽爆発
で病人怪我人が沢山来ているから内科外科の医師を神代
まで送って頂きたい。至って急場の事であるから延引な
どない即時即刻『三里走り』にして佐嘉(諫早藩主)御
側に達し急速の間に合うよう取計って貰いたい。旦那様
(藩主)は殿中に於て聞いていられる事と思われるから、
佐嘉よりも申越されると思うが、飛脚が延引しても困る
から夜中でも間に合うやう万々手配を願う。』というので
あった。而して追って書きに唯今も急病人の事であるか
ら一刻も早くと頼まれている。単身でもよいから夜分た
りとも罷越すよう手配を乞うと急いで居る。末次は現地
の被災状況を見て惻隠の情に堪えず、出来れば諫早藩か
ら多数の診療医師団を組織して派遣して貰い度かったで
あろう、一人ででも夜中でもと言っているのであった。
又同日附別便で、森川八郎右衛門方より御用と言って来
たから、同人宅へ行くと、主殿頭始め其外皆乗船がない、
だから佐嘉藩に相談はしてあるが、急場の間に合わない
から、諫早から借受けたいとの相談があった。島原の船
は米倉権兵衛其の他の乗船として神代と森山に四艘ある
が、これはこちらで急用のとき使用せねばならぬから、
これの替りに諫早の早船二艘を森山村まで差廻して欲し
いとの事で、島原のこの四艘の内の一艘は三十六立てで
あるが、それより小型のものでよろしいとの事で、舸子
其他念入りに急速間に合わせて欲しいと言っている。前
にも記したように半島諸村から廻された三百七十艘の船
を含め一千余艘の船も四十八丁立て早船一艘、十八丁立
早船七艘も悉く眉山の大崩壊で破壊流失してしまい松平
の御用船もなくなったのである。
更に神代家中の江田勘兵衛からは明六日晩上下(士の
身分をいう)九十人で諫早に止宿したいから宿だけ御配
慮を頼む、賄いは当方の手で行うから宿だけで宜しいと
末次まで申込んだ。また、神代郡方役伊東杢左衛門は五
日附で、『島原の大変でこちらに逃げて来た者の内、怪我
人が多いからそちらから外科医を呼んで貰うことになっ
たそうだが私からも交渉するようにとのことであるから
急にお願いする』と諫早の郡方中島九左衛門に依頼状を
寄せた。
四月六日は雨が降った。島原側で鶴首している内外医
師は諫早だけでは間に合わない。佐賀で雇って島原へ派
遣した。田中悦蔵という外科医で一行は手男小姓一人、
小者一人、鑓持一人、挾箱一人、合羽箱一人、薬箱一人、
駕籠舁四人、今一人の原田忠益という外科医も田中同様
の人数となぎなた持ちまで伴った。非常時の治療に向う
ため手男、小者は入要としても鑓持だの長刀持だの挾箱
合羽籠などなくてもよい様に思われるが、格式面子が大
事とされた当時これも已むを得ない事であった。藩とし
てはそれだけ多くの費用が負担されるのである。費用の
事に就いて別の項で述べる。神代からは上下諫早に避難
して来るというので、諫早から警固(巡査)を派遣する
ことになった。勝良五郎次と毎熊安右衛門の両人で少し
の部下を附けた。
諫早領内へ島原領から避難して来る者があるときは請
役所に届け出るように触れてあったが四月六日迄に宗方
村へ一人、福田村へ三人、中町へ四人であった。又五日
夜の津浪で戸石牧島で漁師達が流れ着いた物の拾得届が
次のように提出された。(名は拾得者)
古絹切少し、折材木品々吉太夫。右同伝渡一艘分位市
左衛門。同二艘分位、船とも瓦一枚、古綿入一枚正馬。
右二艘分位、古帯一筋利平次。折材木二艘分位古艘着
一、古蒲団一。松右衛門。折材木一艘分位八十八。同
一艘分位宛丈平。三八。源右衛門。六松。同二艘分位
佐平
東目筋の船津でも一日夜の漂流物の拾得があったのでは
ないかと思われるが資料がない。五日夜戸石方面には津
浪が来て一時大騒ぎしたが、地下辺では女子供を田結の
本村へ避難させて居り無事であった。
第八節 松平主殿頭死去
四月七日、八日、九日の好天気が続いた。半島出張中
の宮崎此面から情報が来たが余り重要性のものはなかっ
た。諫早領内に避難して来る者はだん〳〵人数が増した、
それらは着の身着のままで来るので管轄の別当や庄屋は
著物の世話もせねばならなかった。今の所まだ救済はし
ていないが、これが数百人にもなり困窮者が出ると、そ
れらの事務は郡方の管下で取扱わるべく準備が進められ
た。神代に派遣した外科医両名は四月十一日に諫早に帰
って来た。片田江理助は唐比駐在を命ぜられた。島原領
内は大爆発と津浪で田畑は荒され洗い流され差迫って居
る田植時も苗代の処置がつかない、田は漸次整地して行
くことにしても苗代が間に合わないから援助して欲しい
と島原藩役所から申込んで来たので、諫早側は有喜と唐
比で苗を仕立てることになった。津浪の大被害地である
竹崎では、罹災者が材木不足と生活困窮から、未だ住居
も出来ないままで困っているから藩からの補助を願い出
でた。
四月廿七日附で、在島原の宮崎此面からの報告による
と、主殿頭は四月十九日城下を巡見したが、途中から御
不例で、熱が高く吐瀉が続き重態のようだというのであ
った。この主殿頭の病気は表向きには知れていなかった
が先頃からの事で、家老中から使者として大塩番左衛門
を神代にやり、大塩が役人と面談し、医師の相談をした
から外部に知れたのである。これは主殿頭の言附でなく
家老達が相談しての取扱いで飛船を佐嘉にも出してある
そうで、現在の容態は食事など茶椀半分の粥を一日三回
とられるだけであると言われる。此の手紙を認めている
とき、主殿頭は死亡したのではないかと思われる空気が
感ぜられる、昨夜から今日にかけ森山から城下への間何
となく騒がしい。私の宿主は目明であるが、此目明が非
常の際は立ち走りの役であるから、私は今日中に神代へ
引払うつもりでいたが、今晩までは茲に滞在する、外部
では死去の風説頻りであるが、最近は虚報の多い折であ
るから信ずる訳に行かないとあったが、五月八日に至り
死去が即日発表された。諫早藩では八日に主殿頭重態と
聞いて、容態伺いの文筥を持たせ足軽飛脚を差出したが、
其後から直ぐに弔札を持った飛脚を島原に差立てた。
主殿頭は参州深溝出身であるから、遺骸は参州に送ら
れることになり、其の本陣は寺か町家に定められる趣き
が諫早にも知らせて来た。諫早通過は五月二十六日であ
るから、本陣は慶巌寺と決定した。大名遺骸の通過とい
う事は先例がないので、長崎奉行の遺骸通過の先例に做
って、口上書を差出し、其の使者には独礼の中から立っ
た。生憎と二十六日は梅雨続きの雨天で本明川は水流が
増していたので、四面宮前の川越頭人には木下守が任命
され無事に渡して大村に向った。
第九節 諫早藩財政への影響
島原や諫早、熊本等の地方に『島原くづれは肥後難題』
という言葉が残って居る。之は此の寛政大爆の際、半島
の爆発から津浪が起り、対岸の肥後領が荒された上、死
人怪我人を携え、島原北目筋の破壊から諫早方面への避
難よりも、肥後が安全だと同地に渡り、細川藩の御介抱
(救恤)を受けることになったのを言ったのであるが、
諫早藩としても難題でないことはなかった。殊に諫早藩
はこの数年来の不作と、一年二度の江戸上りとで、藩の
財政は涸渇し切っている折であった。家老達は借金政策
を採っていたが、古い借金が返済出来ずに長崎の金貸商
からは長崎奉行に訴えられて居るし、佐賀からは御馳走
米の分増しを申込んで来ているし、佐賀へ申込んだ借金
は断られるし、藩内の諸事業は一切新規のものは取止め、
藩士の造作も禁じられているとき、この隣藩の大凶変は
全く重荷に小附けの観があった。島原へ出張し居る末次
恰、宮崎此面以下の人々への手当を出すこと、たゞそれ
だけでも血の出るような深刻な申請振りであった事が次
ぎの書類からも看取することが出来る。(仮名句読を入れ
訓み下しに改む)
(前略)滞留相増し当時の振合、場所柄不用意にては
御用筋相弁ぜざる由につき、旅籠用心銀まで三百目、
偖又、田中悦蔵、原田忠益へ百目宛相渡し、其外足軽
も差越す儀に候へば、滞留も相増すべく、彼是れに就
いては少々づゝ物入りもこれあり、これ以後急場御物
入も計り難く時々間に合候通り心遣り申候様西山助十
へ相達し候処当時下銀無之下り合元〆方役人へ其繰合
これなき由、右については何分急場取替向きとても無
之、その心組にて、何程にても下銀に相成候様これな
くては相叫ふ間敷く(中略)御使者筋に付御合力旅籠
纔に百五十目位の義さへ間に合はず、乍然、其の通り
にては相済まず取替向き無之義に候へば何分にも致方
無之趣き申し達し御使者延引に相成る外これなく候へ
ども、漸く振替へなどにて間に合ひ罷り越候位に御座
候。(下略)
二晩泊りで今日の守山村まで出掛ける藩の使者の旅
費さえ工面がつかぬ程の困り方である。然らばこの雲
仙爆発によって、どれ位の現金を支出したか、記録に
残っている分だけを拾ってみると、(竹崎船津の者達の
救済は既記の如く現金は出ていない)
最初の使者早田嘉左衛門の島原出張に当り ㈠銭一
貫四百文。神代にて主従七人旅籠代 ㈡銭二百文。
宿礼 ㈢銭一貫四百文。島原にて主従七人旅籠代
㈣銭六百文。宿礼 ㈤一貫四百文。神代一泊旅籠代
㈥二百文。同宿礼 ㈦銭七百文。山田にて昼旅籠〆
銭五貫九百文
㈠銭七百二十文。森山より神代迄の人夫賃六人分
㈡銭壱貫二百文。神代より島原城下迄六人分人夫賃
㈢銭弐貫四百文。帰途島原より森山迄一人四百文
づゝ。〆四貫三百二十文
此時の答礼使が諫早に来たときの雑費は記帳がない。唐
比へ出張した者の手当も不明であるが、末次と宮崎の島
原出張旅費は銀三百目があり、佐賀から雇った医師両人
には一人百目宛が渡された。此外に入切りとして実費(不
明)が渡されている。神代警固に派遣された勝良と毎熊
には銀五百匁が渡された。又領内安全の四月六日から九
日まで祈禱を荘巌寺、金泉寺、平井坊へ執行せしめたが、
其上銀は壱両づゝであった、寺からは島原出張者約四十
人へ懸守を配布した。竹崎へは家屋復興費として材料の
外現金を少しずつ出すことになったらしいが額は判明し
ない。又光江の船頭の持船二隻が島原に出張させられて
いるうちに洪水で行方不明となったので、その弁償もさ
せられたが其額は銀五百目であった。主殿頭の遺骸通過
に当り本陣となった慶巌寺へ畳替其他雑用として銭拾弐
貫弐百五十八文、米壱斗五升五合、四面宮前川越頭人木
下守に褒美金子百疋、慶巌寺への使者蒲池義太兵衛と同
廻番頭人へ金子百疋づゝ、此金は種々の懸りに分配され
た。又別に正銀六拾匁二分が支出されたが、これは上役
へ壱両づゝ。下役へ弐分づゝ支給された。記録されて居
る額は以上の通りであるが、米で支給されたものや破壊
された菩提寺内の塔碑等の修覆についての記録は詳かに
する事が出来なかった。