[未校訂] 一七九二年の温泉嶽の噴火は歴史上信頼するに足る最
初の|同山として|爆発であるが、その模様につい
て述べれば、次のようである。寛政四年正月十八日の午
後五時頃のことであるが、温泉嶽の山頂が一時に陥没し、
蒸気と煙とを吹出し、翌月六日には東の斜面の頂上から
半里程の[琵琶撥|びわのくび]という所が爆発した。三月二日には激し
い地震が起り、九州全体の人々がそれを感じた。島原で
は人間が立っていられぬほどに土地が震動して、人々は
ただ驚き且つ恐怖するばかりであったが、地震は相次い
でなお止まず、山からは次々と石や灰・熔岩を降らして、
山の数里四方を荒廃せしめた。
四月一日には、正午にまた大地震があって、何度もく
り返し、また漸次激烈となった。家屋は壊れて倒れ、大
きな岩石が山から転がり落ちて、当るを幸いすべての物
を破壊しつくした。地中にまた空中に雷のような音がと
どろいた。そしてそれが少し静まって、ようやく危険が
去ったと思う間もなく、突然に温泉嶽の北の斜面にある
妙見山が物凄い爆発を起した。山の大部分は空中に砕け
て飛び散り、大きな岩石は海中に落下し、山に生じた割
目からは、煮えたぎる熱湯が物凄い勢いで押出して海に
流れ入った。同時に海の方では津波が起って、低い岸を
越えて陸上に浸入したので、山と海両方からの水が相衝
突して恐ろしい光景を呈し、人々の恐怖は更にその度を
加えた。そこにはあのいわゆる竜巻にも似た水の渦巻が
起り、何物をも根こそぎにしてしまった。
この年の地震と、温泉嶽の側の火口の爆発が、島原と
その対岸の肥後地方に与えた破壊の程度は、およそ筆舌
につくし難い所といわれる。チクロープcyklop(巨大な岩石で作っ
たギリシャ・ロ|マの古代城壁)のように巨大な石塊で築いた島原城は、こ
のような破壊にも良く堪えて壊れなかったが、島原町と
その附近では、人家はすべて倒壊し、肥後の海岸はすっ
かり破壊されて、前とは見違えるほどであった。この日
一日で五万三千人の人々が罹災したというが、この事変
ののち、日本人は地震と火山の爆発とを、日本の七つの
災害の中でも、最も恐ろしいものの一つに数えるように
なった。