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項目 内容
ID J1100044
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔島原地変略記〕長崎県立長崎図書館・渡辺文庫
本文
[未校訂]嶋原は。肥前国高来郡の。東南の端に突出したる。一半
島にして。中央に温泉嶽聳。三十余の村落。その麓を繞
り。而して温泉山また奥山と呼。或ハ雲仙と云。国見。
普賢。妙見。の三峰をもてなれり。国見もつとも高く。
海面を抜くこと。四千四百八十二尺。普賢は四千四百四
十六尺とす。妙見ハ稍低し。之を三嶽と称し。三峰の中
間に中嶽と称する山あり。その高さ普賢に比すへし。中
嶽と普賢のあひたを。アサミ谷と称し。普賢と国見との
間を。鬼神谷とす。其距離わずかなるも。其の谷甚た深
し。おもふに古代噴火して。この間谷を生したるならん。
行基菩薩初て。普賢妙見の二大士をまつる故に名く。
前山ハ。普賢岳の東方に位する。高山にして。破裂の後
ち猶海面を抜くこと。三千六百四十尺。高く海に臨めり。
嶺の上に七面神を祀るをもて名つく。其の前山といふも
のは奥山に対するの名なり。また眉山とす。古図嶋原山
と記せり。嶋原の市街港湾は。前山の麓にあり。権現山
東方を擁し。南に松島あり。以て港湾をなせり水深し。
数百大舶を繫くへし。また柳浦の称ありといふ。
[却説|さて]。寛政四年。壬子正月十七日。正午。地大に震ふ。
同く十八日。夜。温泉山鳴動す。其声憤雷の如し。人の
睡夢を驚す。明朝山岳を瞻仰すれは。雲烟空を捲き。綿々
天を蔽ふ。鳴喝数里に達す。山頂に普賢大士を安す。其
の祠前。百歩許の地。陥て火坑となる。蒸発の猛烈なる。
砂礫を噴出し。[霾|はい]を[雨|ふら]し。満山の草木。尽く白し。
同く廿一日。烟気稍々微なりといへとも。鳴震すること。
往日に倍す。二月四日。穴底谷に噴火す。六日。巳時。
鳴動殊に甚しく。熱池を現出し。暖泉沸騰し。沙砂を蒸
発す。終に変して。[高阜|たかきおか]となり。噴火倍々烈しく。巨石
焼て。落々として崩下す。恰も猛裂なる。石榴弾の飛散
するか如し。延焼すること。日々に曠く。[底止|とどまる]する処を
しらす。同月中旬に至り。初め恐怖を懐きたる。士庶人
も。漸く狎れて。之を遊観するに至る。俄に酒店茶房。
軒を連ね。春風一路。老若男女。袂を聯ね。遅々遊杖を。
其間に曳き。絃歌の声ハ。山野に満つ。恰も発火機械の。
遊技場を化出し。士女[湊洧|しんり]の楽園となれり。
閏二月三日。蜂窪。飯洞岩。震鳴し。烟気を噴出す。此
の地至嶮。人往くことを得す。たゝ物色を瞻望するのみ。
本月下旬穴底谷の噴火。ます〳〵烈しく。遊観するもの
昼夜絶へず。人衆き時は。震動平常より甚しく。異恠名
状すへからず。官。これを聞て。令を出し遊観を禁す。
山野寂として。人声なし。同く十五日。一乗院に命して。
一七日普賢。妙見の二大士を請し。壇を比賀多山に築き。
(穴底谷末流)真言。秘密を以て。大に鎮火を祈る。神
職僧侶。皆奉する処を以て。鎮火を自房に祈らしむ。
三月朔日。天気清朗にして。白日の長きも已に西に傾か
んと欲する折から。俄然劇震し。夜に入てます〳〵甚し
く。山も亦た鳴動して。恰も天柱折て。乾坤の機軸。破
壊せんかと。絶驚狼狽して。身を置く処を知らす。老を
扶け。幼を携へ。壮者ハ負担して。東西に奔走し。人行
織か如し。諸藩士は。月城に集会し。救恤の策を講す。
夜半。官。令を出して。応変処分の。方針を諭達す。二
日。夜来の鳴動。未た鎮らす。家屋の動揺。浮舟にある
如し。人民ハ負担して。思ひ〳〵村落に。暫く難を避け
んとて。雑杳喧擾の有様は。名状すへからす。官吏を派
遣して。非常を警戒す。又た折橋。六樹(地名)に屯処
を設け。噴火山脈の景況を報せしむ。爰に至て。幕府に
具申すること。三回。六日城主の公子。難を守山村に避
く。九日。眉山の前に。一支山あり。(南北百二十間東西
六十間)楠樹茂盛す。故に予[樟|すの]山と呼ふ。此日天気清
朗。故なくして自ら抜く。
抑。事変の夙くも。近邦に伝聞するや。諸侯皆使者を以
て。之を唁わしむ。日夜冠蓋相望。而して佐賀公特に厚
し。数々之を訪問す。一日[某候|それがしこう]。使者来る。吏出て之に
接す。時に大震す。屋瓦皆振ふ。声迅雷の如し。使者絶
驚して。曰。事聞く処より甚し。勿卒に辞し去る。或ハ
使丁をして。書信を以て来[唁|げん]したるものは。震を恐れて。
答書を受けすして。遁れ帰るものあり。中にも憐れなる
は。貧民にして。春初より騒然たる景気にて。建築土功
の企も。なければ。糊口の策に苦ミけるか。今また非常
の事変に遭ひ。貧はます〳〵貧にして。飢渇に泣くもの。
途に横り。官。庫を開いて賑恤す。
是月中旬比より。地震も稍々鎮り。日を経て。静謐に帰
すれハ。市民の四方に避在せしも。追々帰寓し。人心も
始て安し。然れとも。米穀を販売するもの無く。人大に
これに[困|くるし]むといふ。
二十五日。啞渓(温泉山脈にあり)殺生石を現出す。人
畜之に触れば。呼吸迫て。生気歇む。故に渓口[榜|ふだ]を掲て
人行を禁す。
四月朔日。終日曇る。青山滄海更に異状なし。夜初更に
至て俄然として天地鳴動し。其声百千の迅雷。一時に頭
の上に落るか如し。[方|まさ]に是れ。前山破裂し。石飛ひ。海
湧き。巨濤怒瀾。激奔狂流して。一瞬間に。嶋原市街村
落を。蕩尽し去れり。初め第一の巨濤に。漂流したるも
の。洪波の洋中遙に退きたる時は。咫尺も分ち難き。黒
暗にして。悲泣の声天地を動し。第二巨濤の退く時は。
乾坤寂として。声なく。無残にも我か同胞昆弟の。波底
に沈没し。長く鬼籍に入たる時なり。流離の民族等は。
難を月城に避け。或は甚三郎山に登れり。官ハ負傷者の。
哀を乞ふ声を尋ね。人をして救助せしむ。総て遭難の人
は。生死多くは裸体。[否|しから]されは衣裂て。襤褸となる。水
勢の鋭。知るへきなり。或は百尺樹上にかゝるものあり。
敗屋積堆の下に。圧せらるゝものあり。破面者[拉脅者。|そひらきずををう]
[傷腸|はらきず]者。手足を断するもの。半身地に埋ものあり。気息
未た絶さるものは。之を運搬して。大手門。田町門の養
生場に送り。食をあたへ。薬を施し。医員をして。種々
治療に従事せしむ。
因に云く。予か曾祖父龍珠ハ。十九才にて安養寺寺務
となり。翌年難に遭へり。其の日記に依るに。四月朔
日酉の上刻。天地鳴動し百千の震雷も[啻|ただ]ならす。忽に
して山崩れ海湧き。洪波市街村落を漂流す。初め地震
の屢々起るや。事変あらんことを預め慮り。寺族挙て
難を堂崎村称名寺に避く。先者二男獅弦を召て云く。
今年ハ春初より地震し。種々凶兆あり。是れ噴火の原
因ならんか。思慮の及ぶ処に非す。万一にも事変に遭
遇せば。玉石共に亡ん。挙族非命に斃れなば。先祖に
対して不孝これより大なるはなし。汝ち暫く東肥に遊
学すべし。東肥も亦たこの地の如くならば。豊筑何れ
にても安穏の地に避くへし此の行や必しも学業を励め
とには非す。専ら身を保重すべし。道路の浮説を聞て。
容易に帰省すべからす。必す迎を得るにあらされは。
帰途に就くなかれ云々。言了て。暗涙数行。是れ父子
の永訣とハ。跡にて思ひ知られたり。三月廿五六日。
稍平穏に帰するを以て。皆な帰山す。鳴呼命なる哉。
四月朔日。寺族二十四人波底にて溺死す。独り龍珠は
此日友人。嶋原村長森崎益太郎と共に。午後吉田仙次
郎を訪ふ。旅行して家にあらす。転して崇台寺を訪ふ。
山主深く喜ひ。世もやゝ穏になれり。よくも訪ひ玉ふ
もの哉。酒を[侑|すす]め鬱を散し。閑話時を移しける。酉過
る比にや。天地鳴動し。其響き百千の霹靂。 一時に落
るかと疑ふ計りなり。こハ何事ならん。死生共にすへ
しと。三人手に手を携へて。庭前に奔り出たるに。早
や小石を投け付るか如きものあり。是れ水滴の迸て身
を[撲|うつ]なり。さては巨濤ならんと。顧て東南の方を望め
ば。銀山の崩ると思ふ程もなく。身はハや波底に沈没
せり。二人の友人も在る処を知らす。況んや自坊の存
亡。寺族の安危をや。独り水底に在て。合掌念誦し。
命を天に任せたり。波間に漂流したると覚へしか。身
は岩石乱立。寸歩も歩す可らさる地に置けり。石に倚
りて四方を望むに。真の闇黒にして。咫尺も弁すへか
らす。只聞く四面悲歎哀泣の声のみ。身も数所の傷を
蒙り。間もなく再ひ洪波に[漂漾|ただよわ]されて。陸地の方と思
ぼしき処に。打ち揚られたり。手をもて地を穿に。土
柔にして草あり。能く之を検すれは。麦なりけれハ。
さては畑ならん水も浅かるへしと思ひて。立たるに水
は膝におよばす。則ち快光院の西。字さ畑クロなりけ
る。此時にあたりて四方寂として声なし。此彼に救を
乞ふ声絶へ〳〵にして。聞くも甚たあじきなし。独り
心を励ましつゝ。遙に火の光りを便り行く。泥川の民
家清右衛門が裏なり。遂に萩原源之助か家に至る。人々
皆大に驚く。 一村老若負担して。今に遁れ去んとする
時なり。然れとも何れに避けて難を免るやをしらす。
予波底を出て此に至る。唯山の方に行くへし。予か甚
三郎山其処なり。源之助舎弟大助に負れて山に登る。
一村伝へ聞て皆相携へて至る。源之助父子慰労周旋。
誠に感するに堪へたり。俄に臥床を設け。席を以て露
を凌き。相集り介保す。是より先き水底を出て此に来
りしころまて。身の苦さも覚へさりしか。少々心を安
したれハ。負傷頻に痛。熱度焼く如く。悪水を呑亦た
多かれハ。胸焦喉渇し。其の苦痛いわんかたなし。然
るに丑過る比にやありけん。南の方より火雨ふり来る
と。悲泣の声山を動す。何そかゝる事のあるへき。或
ハ失火ならんと。人をして喬木に登らせ。よく〳〵其
実否を検せしむるに。果して頽れ家より火を失したる
なり。角て其夜明るを待つこと。恰も年の如し。平明
東を望めハ。市街一箇の人家なし。漠々たる沙原と変
せり。近海数里の中。数百の島嶼を現出す。人みな桑
海の歎を[起|おこさ]さるハなし。爰に人を以て堀端小林七郎平
に報して云く。昨夜洪波の為めに。漂流され。いまた
寺族の生死を知らず。独り波底にありて。偶々九死の
中に一生を得て。甚三郎山にあり。官に。事情を具申
せんと欲すれとも。身を覆ふ衣なし。願くは之を恵与
し玉へと。七郎平夫妻此を聞き。悲喜自から堪へす。
其室の白無垢の服と細帯を贈る。龍珠之を着して。人
に負れ桜門より入り役所に至り。前夜遭難の事を届く。
夫より寺跡を一見せんと欲し。大手門より出づ。死屍
途に横り行くへからす。再ひ桜門より出て。之を点検
するに。仏殿庫理楼門。一も残る処なし。荒原と成り
了れり。況んや。寺族をや。父母兄弟何処にあるや。
呼へとも応せす。鳴呼天か命か。絶叫地に倒る。彷徨
して去るにしのびず。沙石中に喚鐘一口を得たり。(姉
川伊兵衛寄附の銘あり)遭難の初め。生死を偕にせん
と。手を携へたる森崎氏。泥川の民家。酒井伊八郎方
にありて。疵を養ふときゝ。行て之を看るに。森崎氏
悲喜堪へる能ハす云く。君か身数所の傷つくと云とも。
幸に甚しからす。我身内部の傷甚し。臓腑悉く寸断す。
免ても活くへからす。珠云く。何を自ら決することの
甚しき。唯よく加養せは必す平快の期あらん。云く。
否からす。是を見よとて。口中より手を臓腑を引き出
て示せり。只君自愛せよ。生死是より別れんとて。共
に手を取りて悲泣啞咽す。終に辞して山に帰る。森崎
氏日没ころ絶息す。崇台寺主は竹林中に端坐合掌して
寂す。
三日。萩原の壇家のものを依頼し。肩輿より眉山背面。
鞍掛といふ難処を越へて。称名寺に至る。寺主龍明年
至て弱し。相謀れとも是非を決すること能ハす。加佐
村連正寺に行く。同寺住職は称名寺七世の末弟。先考
寛興の叔父。龍珠の再従父なり。母ハ当寺より称名寺
に嫁して。生む処なり。蓋し当第八世の姉妹といふ。
四月十五日上京す。事変の状を本山に具申す。滞京中。
屢々公卿に招かれ。噴火の始末大変の事情を説く。帰
京後ち。旧墟を尋て草庵を結ひ。檀越に寺跡の退転な
きを示す。舎弟獅絃と同寓す。冷秋に至れとも被るへ
き臥具なし。吉田五右衛門絹夜具を贈る。兄弟同臥し
て暮しける。然れとも衣食のこと自らすること能ハす。
与志女を得て妾とす。(千二(々カ)石村小倉某氏女ナリ)云々
二日。晴仰て眉山を瞻れハ。其の半面を割き。俯して海
面を望めハ。数百の島嶼。近海一里以内に散置し。市街
は変して。砂磧となり。往時の観にあらす。然れとも未
た地震も全く鎮まらす。山嶽の鳴動前日の如く。地中に
声あり。恰かも雷の如し。噴火もます〳〵燃延す。城主
も幕府に具申し。遂に議して難を守山村に避けんとす。
家士川井治太夫諫め云く。城郭は幕府の嘱托する処。之
を捨てゝ他に[適|い]く。異日の幕議を如何せん。願くは之を
熟慮せよ。城主曰く。汝か言理あり。然れとも。孤。別
に所思あり。過慮することなかれ。遂に発す。
七日政庁を三会村景花園に移す。
八日藩士の家族悉く遁。城中寂然たり。川井治太夫桜門
を守る。感慨に堪へす自殺す。災後三日。官初て吏をし
て。市街を巡視し。役夫をして。災場の掃除に着手し。
死屍を安養寺。浄源寺。其他数所に埋む。数日を経るに
及て。温気之を蒸し。悪臭鼻を撲つ。役夫之に困しむ。
[却説|さ  て]被害地方ハ。今村。上原。安徳。中木場等の。村落
は皆な眉山の麓にあるを以て。悉く圧倒せられ。人畜余
類なく死亡せり。市街二千戸中。残るもの僅かに百戸に
過きす。猛島社。五社。并に浄源寺。安養寺。善法寺。
崇台寺。快光院。桜井寺。和光院。光伝寺。護国寺。江
東寺。金蔵院。成就院。叶寺。福寿院等皆流亡す。凡そ
水害のおよふ処。南北八九里。沿海十有七村。(北ハ杉谷。
三会。三の沢。東空閑。大野。湯江。多比良。南ハ。深
江。布津。堂崎。有田。町村。隈田。北有馬。南有馬等
の諸村なり)。
水害を蒙る其の漂流地の方面。十九里十四町なり。
城南白土といふ地。長さ十余町。広さ廿四町計り。地窪
みて湖となる。今の洗馬湖これなり。長崎県師範学校。
地理誌によるに。遭難者弐万七千人。東肥各地にて弐万
三千人。併せて五万人といふ。深溝世記に依るに。家士
死亡五百七十六人。村市民八千百三十五人。僧侶壱百廿
三人。傷者七百人。愈(癒)へす死するもの百六人なりといふ。
他邦船客ハ此の数にあらす云々。
此の変事の四方に達するや。近邦諸侯より。使者をして
[唁|とむらわ]しめ。贈るに米穀等を以す。
十九日城主守山村より。騎して治下に赴き。市街村落の
流蕩の跡を巡視す。大手門外に胡床により。四方を望観
して。[良|やや]久して曰く。此の災は。天。孤か。躬に附する
ものなり。潜然泣だ下る。従者能く仰き見るなし。帰る。
悒々として楽します。終に病を醸す。
二十七日。城主松平主殿頭源忠恕侯守山村に薨す。
享年五十一。六月十七日本光寺にて。荼毘式を行ふ。瑞
応院殿麒嶽源麟大居士と法謚す。 大尾
(後略)
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 236
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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