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項目 内容
ID J1100043
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔寛政四年四月朔日高波記〕長崎県立長崎図書館
本文
[未校訂]寛政四年正月十八日の夜肥前国温泉の嶽鳴動して初て煙
たつ日に月に煽にして震動すること隣国に及ひ同月下旬
より地震し初て昼夜に五六度七八度繁きは数十度に及け
れは人をして見せしむるに地中に火燃えて山を焼穿つ其
猛き事たとへべき物なし高き峰谷と成り深き渕丘となれ
りかゝる大変なれは麓に住る人は云に及はす島原城下の
士民家居を棄逃散り或は海上に舟を浮めなとして唯火難
を防く備をなすとぞ聞へける夫我国飽田宇土玉名三郡の
浦々は温泉嶽に対する所なれは若しや大変ならん時島原
領の人を救んためたすけ船の備をなさしむる我 国と肥
前とは七里程の海を隔て温泉嶽は十里にも余れは水難の
事は思ひもよらず火難は海の為に安し朝夕見わたせとも
心とせざれは覚悟せし者なし三月下旬に至り地震やみ温
泉嶽のおもてすみ渡とみへしかば、いよ〳〵心安かりし
に同四月朔の夜黄昏に及ぶ頃しも西の方雷霆の如くなり
渡れとも暗夜なりしかは山の崩れて海に入事を知らす高
波の起る事をもしらす已に汀近く成り其音を聞て津波
〳〵とさわく者ありその声にあわてにげ去んとすれども
人は欲の為には忽命を失ふ事をも知らぬならいなれば船
を繫き貨財を抱ひて溺れ死するもの其数を知らすたま
〳〵欲をはなれたるものは、逃足速にして死を免る波静
りて后二日の旭温泉嶽にさしかゝるを見てこそ其前なる
山崩れて海に落入潮涌溢れて高波と成し事を知りたれ、
かくてけに有たる者立帰り見れは大石にて築たる潮塘を
打破り家船貨財悉く流れ村となく田となく潮満合て古郷
のかたちも失せ窮民頼るへき所なけれは山の裾森の下塘
の服(腹)などに息をやすめ、父は子の行衛を知らす子は父の
行衛を知らす夢幻の如く芒然として泣吟へ(ママ)り此事急を告
しかば郡令を初庄官惣庄屋会所の役人駈来り先つ寛急を謀り
て活残たる者の飢渇より救れ最寄に小屋を営み窮民を集
め厚く育しむ又医師に命して怪我人の治療をなさしめら
る仁政民心に[洽|アマネ]くして始て人心地になれり一家仁あれは
一国仁を起すとて町となく在となく米穀塩噌を投し或は
飯菜を投し上の風にならふこと影響の如し又溺死を取揚
て親戚に渡され親戚なきものは役民をして葬しむされは
欲のために命失し者は累代の家を絶ち欲をはなれたるも
のは日あらすして養れ年あらすして潮塘を築き家船を作
らしめ荒地を起し耕漁各其旧業にかへさる爰に於て欲者
の身を亡し不欲者の身を立ることを知る嗚呼後の人かゝ
る変あらば又もや欲に死んこと余か歎く所なり是故に海
浜村々の記録を問ひ後人の難を救んことを求むれとも其
記徴とするに足らす又一郡一基の塔寺社の塔を観るにい
たずら死者を吊し(ママ・弔カ)幽魂を鎮るのみなり夫我 郡令内藤君
名仲雅称市之允井上君名撲称平八佐藤君名直継称勝之助佐久間君名正名称平太夫此事を
憂ひ飽田郡河内の浦に一基の碑を建られ此事難を録して
後人の耳目に伝へかゝる難死を救んとはからる此碑や死
者の為に非す後人の難を免れしむる為なれは見る者心を
留め一文不通の人々には此訳を云ひ聞せ不慮の覚悟に備
ふへし村庄屋は常に村中を教る役なれは、より〳〵云ひ
聞せ一人も洩さす救んとの心はせを千歳不朽に伝ふへし
何事も始有て終りなきは世の習ひなれは、もしや後世怠
りて不朽に伝らされは郡令のたかき恵をおとさんこと又
余が嘆く所なりされは春秋に碑祭をなし村中を集め碑文
を読聞せ永世に伝ふへし然とも碑文は手にふれがたく弘
め伝かたく又尽しかたき事もあれは民の是を解する事難
続日本記曰
聖武帝天平十六甲申年五月庚戌肥後国雷雨地震八代芦北
天草三郡の官舎并田弐百九拾余丁家四百七十余区人千五
百弐拾四口、山崩弐百八拾余所圧死四十余人と記せり又
三代実録に
清和帝貞観十一己丑年七月十四日肥後国大風雨官舎民屋
顚倒人畜死亡不可勝計潮水漲溢漂没六郡六郡は飽田、玉名、宇土、八代、
芦北、天草乎或人書此六郡に天草を除て託麻を加ふへしと何れか是ならん田園数百里陥而為海と
記せり今我土の海浜の民これを知りたるものなしたとひ
此文を読といへとも古史の簡なる故民解しかたく今の鑑
には用ひかたし夫民は繁文を厭はす教へ諭さざれは其意
を得がたしよつて余か飽田浦の役に出て始終聞見せし事
を書述て海浜の民に授け郡令の恵を輔佐せん事を欲すれ
共素より文史に[瞽|メシイ]けれは徒らに止へかりしを我 郡令聞
たまひてこれをすゝめられ且官府の冊書を発し余に示し
たまへり是故に三郡の事を合せて高波記を作り海浜の民
に授く後人これを読て是とする者あらは張々浦々の人に
伝へかゝる変難をのかれて郡令の高き恵をおとさす千歳
不朽に伝ふへきものなり
寛政八年酉辰四月 鹿子木維善謹識
一窮民御養の事
一溺死葬送并追福の事
一御普請方の事
一御褒賞の事
一高波難防の事
一逃道の事
一風俗弁
一溺死流失損所記事
一高波原記
(注、右九項のうち情緒的文章多き部分は省略し、次
の三項のみ記す)
高波難防の事
高波の勢を見に其強き事水のわざとは思はれず大石にて
築立たる汐塘打破り或は磯辺の大石百人にても動し難き
を、かけ波にうちあけ、引波に沖に引出す遠きは数十間
に及へり飽田郡舟津村弁天の辺りに有し方三間余の大石
行衛知れずなれり同郡二町村川口に繫き置し塩飽屋白木
茂七郎船千六百石積三十二端帆なるを高波の勢にて大き
なる塘を打越方丈村の陸地へ打揚る其間数百間舟頭水主
は夢の如く波鎮て後船に(ママ)居る所陸地なる事を知り又三郡
の第一の富家玉名郡清源寺村に住る西川又五郎と云士あ
り家蔵多くたてならべ其営の丈夫なる事一城を見るが如
し又五郎家内数十人階に登り高波の来るに逃すして残ら
す溺死せり是等者家の丈夫に安んじ不覚の死をなせしは
あやまる事なり累代貯置し許多の金銀米穀家に伝る財宝
残らす打流し昨日迄は城郭とも見へし一構今日は野原と
なりしはあはれといふもさらなり家を滅し身を亡す者古
今是ありと雖もかゝる烈しき事は稀なり赫々たる殷室の
跡も黍の離々たるを嘆き殷の太夫黍離の詩を作りしもか
くや有けん次には飽田郡船津村に住る蓮光寺庫理の営丈
夫なるに安んじ家内残らす階に登り死すること西川と同
し其外にも家の丈夫に安んじ死せし者少からす夫火は烈
し民望んて是を畏る故に死する事[鮮|スクナ]し水は懦弱なり民
押て是を翫ふ則死する事多しと古き史にも見へたりげに
も海川の辺りに住る人ハ幼き比より常に水を翫ひ游ふゆ
へ高波洪水をも畏ずして死する者多かりしとなん高波ハ
天地の変なれは人力の及ふ所に非すいかなる秘蔵の貨財
家船成共命に替るハ大成不覚也此大変に活残りたるは唯
身柄はかり成しが公けの御恵により三年の内に本の如く
産業に復し笑ふ時節となれり今度の変死は富る者多く貧
しき者少し富る者多きは貨財をおしむ故なり貧しき者少
きはひかるゝ者なけれはなりされバ後代かゝる変あらは
貨財船をすて速に迯のくへし依て高波の防き難き事を記
して後人の変死を救ん事を欲するのミ
迯道の事
高波大変八百年にも千年にも稀なる事なれは素より馴る
へき様なしかゝる時はありて道を迷ふものなれは常に迯
道の方角を定め置き不意の備をなすへしされは此の大変
に迯道の好き者ハのかれ悪き者ハ死て山林丘陵の地をさ
して迯たる者ハ遠く迯すとものがる塘筋或ハ平地を迯し
者ハ高波の遠くのほる故遠く迯ても追倒され溺死せし者
あり此高波に利不利ありし事を録し置後年の鑑とすべし
又山道の険し(ママ)き所ハ足かゝりの好きやうに営て常に迯道
の備を成すへし是等の事は常に無用の備なれは年ふるに
したがい怠る事あらんか願くハ津波迯道を道路に名を付
千歳の後まて口伝へ置くへきことなり
溺死流失損所記事
一男女七百六拾五人 内男四百七人女三百五十八人 飽田郡五町手永
一同 百三拾五人 内男五拾人女八拾五人 同 池田手永
一同 弐人 内男壱人女壱人 同 横手手永
一同 弐百六拾四人 内男八拾二人女百八拾二人 同 銭塘手永
一同 弐拾四人 内男十三人女十一人 玉名郡小田手永
一同 千四百七拾二人内男七百四拾五人女七百二十七人 同 荒尾手永
一同 七百弐拾五人 内男三百五人女四百廿人 同 坂下手永
一同 千二百二十一人内男六百拾五人女六百六人 宇土郡郡浦手永
一同 四拾五人 内男三拾六人女九人 同 松山手永
合四千六百五拾三人 溺死
一男女八百拾壱人 内男五百五十一人女二百六十人 怪我三郡合以下
 同し
一牛馬百三拾壱疋 溺死
一家二千二百五十二軒 流失打崩汐ひかた共
一御番宅六軒 右同
一寺壱箇所 流失飽田郡蓮光寺
一社壱箇所 右同玉名郡名石宮本本社末社社用家屋
一庵室二箇所 右同
一辻堂八箇所 流失半崩
一潮塘六千三百五拾間程 破損
一波戸五箇所 右同
一石井樋四十艘 右同
一御高札四ケ所 流失
一大小舟千艘余 同破損
一田畑十六町 五町手永
一同弐百四拾六町弐反 池田手永
一同百七拾壱町壱反五畝廿一歩 横手手永
一同七百三拾弐町四反四畝拾八歩 銭塘手永
一同弐百九拾三町四反 小田手永
一同弐百弐拾八町五反五畝 荒尾手永
一同百六拾七町弐反 坂下手永
一同百三拾五町 郡浦手永
一同百四拾壱町 松山手永
合弐千百三拾町九反五畝九歩 汐入荒地
一塩浜弐拾町八反程 荒方に成
右はあらましこれを記するなり委敷事は其所々の記録に
あらんか見る者考ふべし

予島原地変の記を編集せんと欲し熊本県知事冨岡敬明君
は知を辱ふする人なるを以て熊本県庁の記録を借覧せん
事を請へり君間もなく熊本を去ん其後任松平正直君冨岡
君の嘱に応し此書を恵まる深く両君の高意を謝する所な
り爰に其事由を記して〓とす
明治廿四年六月十七日
晴岡金井俊行識
附言書中温泉嶽の地形山名及ひ島原の事情を説くもの
は稍誤謬の事なきにあらす読者宜しく注意すへきなり
又騰写(ママ)の誤り判然したるものは予朱書を加へて之を正
す[苟|イシヤク]も疑あるものは朱点を加へて後□□訂正を待つと
云う
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 232
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
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