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項目 内容
ID J1002489
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1830/08/19
和暦 文政十三年七月二日
綱文 天保元年七月二日(一八三〇・八・一九)〔京都〕
書名 〔京都大地震〕
本文
[未校訂](北野天満宮宮仕日記)
七月二日 晴 昼七ツ過ぎ時に大地震
社頭かえる股など落る。
塗り板破れる。そのほか裏石垣崩る。
井戸、棚などいがむなり。
神前、社中□□駆けつける。
燈ろう灯消しにつきめいめい火に気をつける。
社内石灯ろう倒るるなり。前代見(未)聞の事。
これにより神前加番中にて心得として、明日加番繰り上
げ以上六人勤番なり。
東の鳥居柱折れ落ち申さず候えども甚だ危し、これによ
り松梅院より縄張り候ひて往来止める。
南門の鳥居も少々開き候につき往来止める。
衆中、門、塀、崩るる事おびただし。めいめい御社より
引き取る、神前は加番当番にまかせおくなり。夜に入り
止まざるなり。この地震止まず折り折り震うなり。よっ
ていずれも夜通し、神前より握り飯にても呉れ候様申す
につき握り飯汁香のものなどつかわす。
七月三日 晴
昨夜より今朝にむかい、社内勿論門前境内いずれも通夜、
外にて休息するなり。
触れ書到来、持ち出し人足出じんのことなり。
昨夜の地震、古今未曽有の事
所々荒れおびただしく練塀、蔵の台輪等崩れ落ち候也。
七月四日 晴
社内石灯ろう崩る分数え記す。
台とも崩れる凡そ百七十六本、うえ、火袋、かさなどゆ
がみ六十五本。
社内損所、御裏、両石段崩るなり。
南鳥居が東より根元より折れるなり。
南のかさ開き候。
おそなえ所西門崩る。
御こし蔵、壁落つ。
右の通りお役所へ正番より届け出る。もっとも大破いた
し所、おいおい修復を加うと申すべきものに直接にお聞
き済み候よし、かますけ噂うけたまわる。
七月五日 晴
灯ろう崩れ多きにつき直させ候えども崩れ、学堂へ引か
せ申すべきかとも存じ候えどもそれには過半の場所もお
き見苦しく候間、そのまま損じこれあるまま建ておく相
談なり。
七月六日 (注、大意、原文とは異なる)
崩れた石灯ろうを一カ所に集めれば値段も安くなると思
われ仙太郎に申しつけたところ、寄進者が又たてるとい
うのでその分費用が少しで済んだ。
七月七日
西院村庄屋忠兵衛入り来たる。地震にて年預百姓宅壊れ
候とて合力願いに来たる。彼の村は大崩れの由。
七月二十五日
地震騒ぎにて六斉念仏甚だ少し。ようやく三組ばかり来
る。
(北野天満宮春林坊目代日記)
七月二日 さるの刻大地震、夜分にかけたびたび震ふ、
折節他出、寺町錦小路辺に出会う。町々大荒れ。社内見
廻わり候ところ東の鳥居打ち切れ、しかしながら倒れ申
さず。
南の鳥居かさ揺れ出す。
石灯ろう倒れそうろう数百六十本余り。
書蔵破そう。南の方土蔵も少々破損。
連歌所土塀など倒れ候う。西おそなえ所倒れ候。
両側高塀なども倒れ候うこと。
社家・坊宅皆々めいめい大破。
自坊は表土塀、北にて崩れ候えども居宅に格別のぎこれ
なし。
夜分、家内やぶにて一宿。度々震い候。
(京都御所作事関係年譜天正度)
文政一三年(一八三〇)
禁裏(仁孝天皇)
○六・一三 内侍所仮殿木作始 ○六・二二 内侍所仮
殿地曳並に礎・立柱 ○九・一八 内侍所仮殿上棟 ○
一〇・一六 内侍所仮殿渡御
仙洞(光格院)
○七・四 常御殿修復始る ○八・三〇 常御殿修復成

(松尾大社古文書)
七月二日
即日お祈りを仰せつけられる事。
七月九日
(白川家を通じて御所から)大地震の被害について問
い合わせがあった。
(聖衆来迎寺年代記)○大津市下坂本比叡辻町
七月二日七ツ過時大地震、客殿所々大破損井戸屋形倒レ

(近世京都絵図十種)
大仏門前大石かけだし二三ケ所も吹出し五条坂やき物店
はま事に木のはのちる如く、はしはしの人家はことこと
くゆりすへ、宮寺鳥居堂塔は上げてかぞへがたし、別而
江村は湖水ちかく亀山りん在かいやかたわきの人家は皆
皆ゆりすへ、地われ大水ながれ人民馬犬猫にいたる迄た
だただかのなく如く、みる目あわれ成、はしのむら一在
は凡六百余軒の所みなみなゆりすへ、やかたと百余軒の
こりし事。
人々のにげしも是也、おもひ合すべし、病人さん家老人
などはあわててけがもあり、近来珍らしき大地しん、む
かし世の中にこわいものは地しんかみなり火事親父と申
事御わすれなく、御用心第一火の元に気をつけ川原かひ
ろき野に畳を敷ならべ家内召連はやばや御立のき被成候
て、神仏を御信心に被成候が専一ならとむかしの伏見の
大地震をふるい人の御□□□候。
(小林九兵衛日記)「園部町史史料編 四」
七月二日七ツ時大じんゆり 亀山馬堀篠むら辺家土蔵く
ずれ申候 京愛宕山大荒仕 此辺ハ何事も無御座候 京
都ニ而ハ人死凡三百九十人斗モ有之 其外家蔵なとつぶ
れ候事数ヲ不知 夫ゟ日々ニゆり凡半季余もやミ不申候
亀山土橋茶や(屋)かぎや家たおれよめ(嫁)死ス 地しんゆり上ケ
凡壱尺六寸ト申事ニ御座候 園部御殿ねり塀損し申候
凡八十年此かた之全体見(前代未)聞之事ニ御座候
(闇眠独語)「亀山藩士矢部朴斉手記」
天保元年寅七月二日七ツ半比、京師及亀山大地震にて有
しに、是は全く其の筋の有と見へて御城及御家中屋敷格
別の障も無りしに、三宅御番所外の町屋両側四五軒潰、
即死一人有之、柏原町に三軒潰即死四人有之、近在にて
はさしたる地震とも不信位也
京都も上京寄につよかりし由、二条御城石垣所々損有之、
町屋も大破ハ有之、潰家は有候様子にも無りし也
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 540
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 京都
市区町村 京都【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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