[未校訂](地震物語)
地震物語 一 湖翁
享和四年四月朔日より文化元年と改元された、其年の六
月四日五日の両日に大地震があった。川北三組で潰家二
千軒と云ふ未曾有の大地震であった。不審議なことには
四日の正午頃に鳥海山の西北から鳴動の音が聞へた。其
日は雨風はなかった、前日には雨が少し降って地が潤っ
て居た、如□もどんよりと曇った空合であった、陰気な
日はかくして暮れた、夜の四ツ時頃になると俄然大地震
は揺って来た、鳥海山の麓は特に強烈であった。矢島又
は由利郡仁賀保・塩越・本庄・亀田領・秋田近辺村々不
残潰れた。剰さへ所々に火事が出る、焼死する人馬は数
を知れぬ
其夜は外に出て皆野宿をして夜の明けるを待って居た。
五日も同じやうの天気であった。朝飯が過ぎた頃に何処
からともなく、今宵も大地震揺り来るべし油断すべから
ずと、年頃五十余りの男が村々を[布令|フレ]て通った、戦々競々
たる人々は是を聞いて非常に恐れた。其夜は肥塚の上に
蚊帳を釣って其処に居ることにした、夕飯を食ふと近所
の者相集って種々の雑談に耽った、暮六ツ半頃になると
大地は又西北の方より動揺し初めた“危ふく残って居た
家は悉く潰れたそれでも外に出て居たので人馬の死傷は
なかった”四日の地震では遊佐郷死人九十余人、馬五十
疋余。荒瀬郷人四十人余。馬二十疋。平田郷人三十余。
馬十六疋と云ふ損害があった。これを見ても鳥海山麓の
殊に強かったのがわかる
六日から小屋掛に従事するやら長木や杭の支度に取かゝ
らねばならぬと相談などすると其日の朝に鳥海山から白
幣が西の海に飛んだのを見たものがある、九ツ頃になる
と今夜は大津浪が来るに相違ないと高声に下郷から上郷
の方に触れて通る者がある。もう八ツ頃になると下郷浜
通りから老若男女が大勢山を目当に逃げて来た。成程西
の海際を見れば黒雲三間程の高さに鎖(ママ)して居る。是こそ
大津浪であろうと思はれた。新田通りから山まて八方八
口通る人絶えず味曾(ママ)塩飯米等を背負ひ馬持の人は着物等
迄馬に負はせ下人に引かせ、荒瀬は菩堤山に陣を取り、
松原に蚊帳を釣り、夜嵐に飜し。遊佐郷も一時に山に押
寄せたる実に前代未聞の事であった。日も漸く暮れた、
もう大津浪が来るであらう。跡は泥の海となるであらう
明日からは最上へ行って非人となるより外はない兎角命
は物種ぢやと悲しみつゝ語り合った所が八ツ頃になると
観音寺村から餅売と酒売とが来た。何れも茶椀酒を喰ひ
それで勢をつけて高声に話しながら夜を明した。翌日に
なっても津浪は来なかった、是も鳥海権現の御防故免れ
たのぢやと皆々大悦で宿に帰った (未完)
地震物語 二
それから御上へ趣を御歎申上ると小屋掛拝借。大百姓へ
は金一両三分、小百姓には金三分。利無し十年賦に仰せ
付られた。作相は随分よかったけれども。地震で非常に
損じた為大検見仰付けられた。別けて遊佐郷は田地も非
常の損害を蒙った
此地震に就いては珍談が沢山ある。殊に左に録する一談
などは殊に振ったものである遊佐郷中嶋村に禅宗永雲寺
と云ふ寺があった、其頃一向宗に宗旨がへして美しい嫁
を貰ひ魚類を食ふて賑やかに暮して居た。四日の夜はう
んと食ふて寝た。十三になる小僧と十五になる野郎とは
庫裏に寝て居た所が大の坊主が立寄と見る間に両人
を鸞(ママ)つかにして外へ投け出した。両人は大に驚いて目を
醒して寺を見るとひったりと潰れて居る。和尚さん嫁さ
んと呼んでももう応がない、和尚と梵妻とは重ね往生を
した
又同郷北目村六右衛門とて内福の百姓があった。四日の
地震で七十になる父母が潰れて即死した。其内に庭の内
に水が上った其上土蔵が沈んだ如何とも仕やうがなくて
櫃を二つ明けて其中に死骸を入れて其上に古着を入れ。
雨除けに莚をかけて置いた所へ六日には津浪が来ると云
ふ騒き、死人は捨て置いて家内不残山に逃けた。其夜に
浦通より盗賊が船に乗って来た、六右衛門屋敷へ来ると
櫃二つある中を見れは着類である、是上首尾と思って船
へ積んて海へ乗り出した。沖に行ってよく見ると死人だ。
肝を消して海へ投げ込んだ。七月七日にその死骸が十里
塚に上ったので検使まで下りた、又同郷鴉沼村善治郎と
いふ人があった、是又四日の夜に傷死した。これはあら
う事か味噌桶に入れて上に古夜具をかけて外に置いた。
又津浪の噂にだまされて山へ逃げ、是れも盗賊が来て船
へ積んで逃げた。しかし死骸は上らなかった
九月中大不作と云ふので大御検見川北御郡奉行所山本重
治郎殿が遊佐郷に御下りになった。引方が不相当である
といふので代官が宮田村の肝煎に泊った夜に遊佐中一統
申合せて押寄せることとなった、夜中過の頃座敷に石を
投げ込む其勢が雷の如くであった。役人が出て見るとパ
ッと逃けた。処が運悪く只一人遠くへ逃けかねて居た男
が役人の為めに捕へられた。尋問の結果中嶋村佐治衛と
云ふものであった。それからだんだん御吟味の上遊佐中
鶴岡へ引登せての尋問には人民も根負けして石投け込み
の頭取を白状した。大井村寅之助、宮田村五郎治といふ
二人である。即座に入牢仰付られた、明れば文化二年五
月に御(ママ)輿休村土手で斬罪の上三日間梟首となった、××
三人抜身の鎗を立てゝ張番をしたとのことである
天保四年には数度の凶変があった、其日がわざとしたや
うに符号して居るのは不思儀である即ち
(イ)六月二十六日 大洪水
(ロ)九月二十六日 立稲に大雪
(ハ)十月二十六日 大地震
(ニ)十一月二十六日 大悪風
去る辰年も甚た不作で物価が非常に高ばった。米壱俵三
貫二百文、大豆二貫八百文、小豆二貫九百文、小麦四貫
五百文といふ高価、世上はだん〳〵不景気となった。今
年になっては益々暴騰した (未完)
地震物語 三
四月十二日頃から田を植え付けた。五月中から旱り続け
て五月末には旱魃になって雨乞が所々にある、
(イ) 所が六月上旬から毎日の雨、二十六日には最上川筋
の家屋流失するもの二百軒と数へられた、酒田御庫へは
米四俵高に水が上った、濡米は御郡中へ御貸米仰付られ
た、大手橋、新井田橋、鶴田橋とも皆流れて通路は全く
止まった。平田郷大多、古荒、須野土手通数ケ所切れた。
酒田内町通りは船で通行する牧曾根、荒瀬郷、吉田新田、
東野新田、泉新田まで水が広がって今にも流さるゝ勢ひ
である。吉田、東野新田あたりの軒端は二尺余水に浸っ
た米籾諸品は天井へ吊ったけれとも梁まで水が上って来
た着物櫃は家根の上に吊り上けたそれから屋根を切り破
って船て逃けた七月中から又日々雨降り続いた稲は少し
も分蘖せぬ、七月下旬になっても出穂が見えぬ。当年は
青絶の作ぢゃと皆嘆き悲しんで日を暮した。米直段ハ六
貫八百文、大豆五貫四百文、小豆八貫と云ふ相場である、
八月上旬になった。米は皆売り惜しんで買ふことが出来
ぬ、新田通両山中は不残青絶えになり。殊に山中浜通り
は既に飢渇に迫って来た。山中は蕨の根、葛の根、百合、
山老まて掘尽し府中はカギ餅。カザ、蔘の根。茂五郎の
根、シダミ迄取り尽して終うた
八月になっていよ〳〵不残青絶と成り山中飢渇に迫っ
た。大蕨山中脇村梅光寺の和尚是を憐んで八月十日夜中
難渋の者八十余人を召し連れ鶴岡へ上って御侍所へ願ひ
奉った所が御上へ直訴不届であるとの事て住寺取上。其
上大庄屋納方御吟味被仰付手錠に及んだものもあったげ
な
(ロ) 九月になると府中は大凶作と極って大検見を願ひ奉
った所、御郡中其御代官中御引受。同月十五日酒田迄御
下り廿日頃までに相済み十月十六日頃迄に稲苅が終って
九月二十六日には立稲に大雪が降った、立稲が皆倒れ伏
して非常に難渋した
(ハ) 十月二十六日昼八ツ半頃に大地震があった。平田郷
では大多新田、古荒新田、漆曾根等大抵やられた。荒瀬
郷では南吉田、吉田新田、遊佐郷では宮内外野村が殊に
強かったと見える
十月二十六日には日本海が空になった珍事があった、丁
度正五ツ時から汐が干き初めた、鮭を捕へたものもあっ
た、それが八ツ時から津浪と化した。塩越は浜町まで流
れた。泉新田、西野田村辺は家の内から泥を噴き出した、
汐の込んで来た時は波は浜家を飛ひ越し外に置いた大綱
等皆持って行かれた。米価は漸次高くなる、諸勧進。乞
食が夥しく来る。新米は六貫五百文で売人がないといふ
話、今年の凶作は最上でも仙台でも越後でも皆同じた、
殊に近国矢嶋、本庄、亀田、秋田、津軽等が殊に悪作な
ので非人乞食は益々殖る
御検見代官は小寺茂八郎殿、安食藤左衛門殿が荒瀬郷に
下られた。御引方は新田目、正龍寺辺は四割余で一同非
常に悦んだが一升五合取りで御年貢は如何あっても上納
しなければならぬ
夫食が少しもなくなった。御皆済は十二月二日に仰付ら
れた、是迄の拝借等の延期を願った、御年貢米売米願も
出した。何しろ今年八十五歳の老人も往古から聞かぬ所
だと云ふから甚しいものである (未完)
地震物語 四
十二月になって米直段定りなく六貫四百文と云ふけれど
も売人がない。大豆五貫二百文、小豆九貫三百文、餅白米
は八貫六百文だん〳〵寒くなるにつけて地震で潰された
人々は小屋掛拝借を願ったけれども少しも取上げがな
い。水呑百姓は殆んど窮命の有様、惨状目も当てられぬ、
それに十一月下旬にはもう雪が降った。非人乞食は所々
の堂宮に倒れるものも沢山あった。中秋の頃は鶴岡・酒
田で旅乞食に粥を給したが今ではもう続かなくなって御
払ひと云ふ事になった。殊に畑物。稲等の盗難が頻々た
るものであった。誠に百鬼夜行の有様であった。十一月
上旬のことであった。川南水沢村の搗屋分限で米を買ひ
込むで居ることを聞いた。人民は千余人を駆って押寄せ
て来た。家土蔵を打壊し家財道具を打砕き味噌塩に至る
迄皆打散して居る所を。役人衆が大勢来て百人余を召捕
った。其内頭十一人は死罪に行はれた。このやうな事が
清川にもあった、頭取三人死罪となった
十二月三日に荒瀬郷一統年貢皆済となった、平田遊佐に
は潰百姓が所々に出た。物価は小豆一斤二百三十文。大
豆一俵五貫、米六貫二百文。両替六貫八百文。誠に昔か
らない高直である。同月十五日御郡中へ御代官御下り数
日逗留された、其節米一俵壱両で御買上げに成った。御
代官所を中星川村に置いて十五日交代に詰めて居た。そ
して百姓の窮状を視察せられた、明けて天保五年となっ
た。夫食は漸次欠乏して来る。心淋しさ云はん方ない。
何処も不景気の為年始礼等は一切廃された。二月からは
毎日の寄合であるけれども如何も出来ぬ。唯一途に御上
の手に縋るより外はない。御上の御憐愍で四月中より植
え付けた。米は益々窮乏を告げる。秋田、亀田、矢島辺
からの倒れ百姓が入り込んで来て所々に倒死するのでは
其為めに過分の費用が係った。四月上旬からは三大庄屋
へ代官衆が十五日交代て御止宿ある、米は一日一日高値
となって七貫二百文と云ふ飛価である、大豆六貫五百文、
小豆十貫二百文、両替六貫八百文である
五月になると傷寒病が捲土重来の勢を以て流行し初め
た。御城下、松山、大山、加茂では凡そ四千人枕を揃へ
て死んだ。彼や是やで世は修羅場と化した。御上でも施
売坐米御赦米等を下され人民は是でやっと露命を繫いで
居た。六月下旬から早稲は出穂を始めた、気候も順当で
皆喜悦に眉を開いた。所が七月になると稲の筒の中に火
虫と云ふものが発生して稲の花を食った。幸ひに施餓鬼
供養等をやった為に火虫も漸く失せて上作と極った。八
月上旬に御代官も引上げられた。八月になると世の中は
穏やかになった、山中浜通りの物貰ひも居らなくなった。
只下筋のものばかりである。下旬には他国から新穀が来
て殊の外賑やかになった。米価は新古米共三貫八百文に
落ちた。大豆は二貫五百文。小豆二貫文。大麦は一貫六
百文となった。八月二十三日より稲苅が初まった。上作
と云っても意外の落作であったけれども諸国一統上作の
為め米価は二貫文に暴落した、但し物価は相変ずで塩一
俵一貫文余。両替八百文と云ふ相場であった
(完)