[未校訂](前略)文化元のとし五月の末、法会のことありて杉沢
へまいらせ給ひしに道のほと馬に乗給へるか障り給ひけ
るにや、例よりすくれ給ハさるよし聞得けるほとに、六
月四日の夜四つ過にやあらん、類ひまれなる地震して飽
海・由利の二郡は殊に厳敷、人家・庫蔵・堂社夥敷ゆり
崩れ人馬の怪我又少からす。
此地震の事ハ人々語りつたへて末々の世まても云伝ふる
事ならん、今筆をとるたにおもかけおもはるる心地す、
其日は殊に暑さ絶(堪)かたくて夜にわたりてもむし暑く、風
さへ少しもなかりけり、臥せるもあり、いまた涼なとし
つつものもありけり、四ツ時過にもやあるらん、海底の
鳴りわたる事、大風の浪を逆巻如く一しきり聞へ、何事
にやおもふやいなや、臥たるままにてまろひかへされぬ、
たた何故にやとおもふほとこそあれ、家鳴りゆるきける
にすハ地震そとおもひよりて床所を出んとすれと敷居・
鴨居ゆかミあひて障子速かに明かされハ漸くして洩れ出
行、曾祖母の休ミ給ふ処を訪ひ、走りて裏にかけ出ぬれ
は、ゆるきて立よろばふほどにみな手をくみ合、またハ木
にとり付なとして念誦し居けるに地のわれたるひびより
水の吹出して所によりてハ地上尺余も上り川の如くなり
しと云、頼なく心細きせんかたなし、かくきひしくゆる
事およそ、たはこを弐三ふく吹ほとの間、生る心地なし、
庫蔵の崩れ落る又ハ屋上の石落ち又は家のひしける音、
たとへんものなく土壁崩れて雲霞の如くかたわらの人さ
へ何と見わくへきなく忙(ママ)然たる斗りなりき、されと我家
にハ幸に怪我もなくて悦ひける、我家の道筋はほかより
ハよハく地少し高き故か、もとも地脈・水脈にもよれる
こととぞ
されと家宅ゆかみ壁崩れ天井もそこそこ落ちて住むへき
様もあらす覚へしか修理して住れり、此時に下屋敷下袋
小路の蔵ふたつともに落たり、今の蔵南なるは新に造り、
北なるハ古き土蔵を求めて修理を加へて建しなり、内屋
敷にある所の庫蔵二ツとも壁ふり落ちてたとヘハ籠のこ
とくに成ぬ、四日夜地震ゆり初て其夜も初の如くにはあ
らねとしばしばゆり動きけり、大ゆり静になりてのち
かゝる大変にてあれハ、身をも固めんと内に入りて火事
の装束取出さんとするに、天井落ち鴨居落なとして入る
へきやうなきをやうやう入て装束し、先ハ上林にいたり
伺ふにいつれも事なくおわしけれはまつ怪我なきことな
と悦ひあへるに給人町に火出けり、とり敢す馳付見るに
つふれたる家より出たり、中には家のうち押にうたれた
るものありて啼さけふ声し、又は押うたれ死したるもの
の死骸取出しかねて火かかりたるなと、まことに看に絶
たり、町奉行役所も潰れけれハ火の場所に高田織太夫殿
出られけるを見るに素わらんじにて提灯さへなく、一僕
同心一両人はかりなりけれハ我か持たせたる手まとひ先
たてて火鎮まりて後公儀の城米の置場、海船等の安否を
も糺されんとて、我等二木なと伴されて参ける、其時に
しあれは、高野浜川辺所として地面大ニひびわれて行へ
きやうもなかりけるを、やうやくして船々の安否を聞に
船には別儀なかりけれハ被戻き、其夜ハと角して明しけ
れと
其翌ゟもふるひ猶止す五日の暮を俟たす又甚敷ゆり来り
て前夜のことし、此時又多く家屋庫蔵崩るゝ、是よりし
ておのおの大路に家毎に仮小屋をしつらひ夜は是に臥け
ること六、七日、其中、附会の説を云なして斯る地震の
後は果して大津浪寄来るなと云ふらしけるにそ、妻子伴
ひ家財を棄て羽黒山又は近き山々へ逃登りたるもの少か
らす、多くはみな高き岳に構へんとて船場丁或ハ河岸通
又は台町今町辺のもの共みな寺院の後山王山・妙法寺山
なとに仮小屋設ふけて、津波さけんとするに寸地なきほ
となりき、不思議には端々の貧者共か粮米に凌きし事を、
此六七日か間、業するもの一人もなし、三山或ハ龍厳寺
等にて祈禱の事なと行れけり、津なみの事ハなかりけり、
此時御城代屋敷其外の藩中ハ残りなくつぶれぬ、町在か
けて怪我死夥敷きこゆ、遊佐ハことにつよかりしと也、
是全く此四五年鳥海山に火出て山上焼燃絶る間なかりし
故にやとみな人申侍り、其頃母の里、別当坊におはしけ
るか、遊佐郷はわけて人馬の痛みも多く聞へけれと、杉
沢村ハ土地も高くさのみ麓のことくにハ強からさりしよ
し也
都而地の高き所は弱く低き所は強し、此町なとにも所に
よりて大に違ありき
されと日夜の震ひ止時なかりけれは其辺りの竹園に仮小
屋設ておハしけるほとに御心地常ならぬに夜気にあたり
給へるにや病み給ふよし、遊佐の医師松道庵といふか薬
まいらせけるよし告来りぬ、驚きて人して伺ひ我も八日
の頃にや杉沢へまかりけるに床に臥ておハすほと也、急
き窺ひ申せハけに床に臥たまへけり、まつ急き帰り医師
伊東維恭に療治を願、四之町の母君もまいらせ給ひて、
帰らせ給ひ、猶ひとかたならぬよしなれは明日又伺申さ
んと思ひ居けるに、終に叶はせ給ハさるよし十八日の八
ツ時頃に告来りぬ、驚くはかり也けり、あわれ、此処に
て病み給ハハ療の施すへきことのあるべきにもあらす、
されと母なる人の弟なる人もいまし、妹なる人々もふた
りまておはしけれハ残るかたもあらざれと人情の忍ひさ
るわけて悲しかりしほとに我に娶ハさるへきといふなる
女も過し中のとし死去し、祖母にておハせし人と我のみ
になれり、此君は勝れて健かにおハしまし何事につきて
もよろツまめやかになさせ給ひ、八十の御年なから我
着服(ママ)のたち縫をもせさせ給ひり、されとうちつゝきたる
御わかれに御年も八十を越したまへ、冬来るほとは座し
給ひなから眠らせ給へ、又ものめしけるにも箸おとしな
とし給ふことありけり、根気も衰らせ給ふと見ゆ、其冬
は故なく過給ひしか、明の年文化二年正月になりてこと
なる寒さの有ける雪もふりて寒気堪かたかりけるに夜便
の用やおハしけん、ふとんよりころけ落給ひしを御側に
伽すものゝ知らてや有けん、寒夜のことにしあれは冷さ
せ給ひけるに是そ終らせ給ふ元とこそ成つれ、医療を重
ねて手を尽しけれと八十に余り給へる御事にしあれハ験
なく終に二月二日八十二歳にして終らせ給ふ、是父の実
母にておハしませし也
此君の(墨書細字)御腹に(ママ)御子多くいましけれといつれも先立せ給
ふ、父にておハせしは六男にておハせしとそ、多くハ幼
けなき時に死去し給ふよし其詳なる事ハ知らす
我年頃我家に過去帳といふものなくて祖先より此かた過
し代々の事祥か(ママ)ならす譜系図といふもなけれは糺すへき
やうなし只法名の寺に残りたるのミ