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項目 内容
ID J1000338
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1793/02/17
和暦 寛政五年一月七日
綱文 寛政五年正月七日(一七九三・二・一七)〔陸前・陸中・磐城・江戸〕奥羽・関東・甲府・御殿場⇨翌年十月
書名 〔岩手県津浪史 一〕
本文
[未校訂]四 寛政五年の津波
寛政五年の津波の起る十八年前安政(永カ)三年五月三日に三
陸大地震起り、下閉伊、上閉伊両沿岸地方は
「地ハ割レテ泥ヲ吹キ揚タリト、其節端午市日ニテ売
買ノ磯物貝類採リニ女子共崎々ニ出テ居リタルニ、山
崩レ岩落、圧死スル者少カラズアリ1」然し不思議にも津波は起らなかつた、之に就いて此の地
方では古くから「草木青葉ノ節ハ津波之レナシ」と云ふ
伝説を信じてゐた。然し此の伝説は後に明になる所であ
るが、過(ママ)りであつた。恐らく此の時の地震は大平洋では
なくて内陸部が震源地だつたであらう。然るに寛政五年正月七日巳の刻(午前十時)大地震数
回続き四度目の大津波が三陸沿岸を阿修羅と化した、宝
暦元(宝(寛カ)延四年)より将に四十二年目である。「梅荘見聞
録2」には
「寛政五丑年正月七日巳刻大地震二三回アリ、大津波
珊瑚島の上ヲ越シ、町内下側裏通リ垣根迄来リ、上側
ニハ変ナシ、向川原ノ板敷床上へ迄指水揚、須賀通ハ
大変ノ由、両石村ニ於テ人家十六七軒流出、溺死十二
三人モ之レアリ、潰屋モ数軒之レアリ、其跡ハ川原ノ
如クナリシト、地震ハ毎日毎夜二回モ三回モ之レアリ、
指水モ七日斗ノ間ハ押来り、南北共海岸住居ノ者ハ近
山ニ引移リ、日夜入(七カ)日斗リノ間家ニ帰リ来ラサル由、
地震ハ二三月頃迄ハ大小ノ地震毎日折々之レアリ」
と言つてゐるが、「古実伝書記」に依れば被害はもつと甚
しかつたらしい3。
「寛政五癸丑正月七日昼八ツ時大地震三度仕候而、間
タ少シ過候否、小津波三四度参候而大にさわぎ、山に
懸上り申候得共、藤原そけいへは浪よけいは上け不申
候、宮古へも上け不申、川筋斗おし申候而一円そんじ
無之、浦通は宮古迄浪おしよけいに御座候得共一切痛
無之、且後二月中迄全日全夜小地震仕、心支罷有申候、
宮古藤原村に而は山々に小屋相懸申候右小屋場所は船
ケ淵にかくまんへ相懸申候、(中略)大槌領の内両石浦
家八拾三軒流人三拾四人、男女子共に而死申候。弁天
堂有之候所本堂無恙、拝殿斗流申候、右拝でんに有之
候神輿は流候所、田野浜沖に流、右同村に而取上申候
由、右両石浦之内に庵有之候所馬(是カ)も流申候(中略)釜
石浦は津浪は参候得共、家々に水おし込申迄に而そん
じ無之候由」
と述べてゐるから、仙台領気仙郡が最も甚大な被害を受
けたらしい。此の時の津浪にもやはり襲来前異状な塩引
があつた。即ち「海の水すさまじく引候而そけいの柏木
之沖白禰と申所あらはれ出申候。川口の大禰もすがにあ
らわれ出申候くわが崎浦すも浜沖の釜のふた迄あらは
れ、右之所迄塩引申候、扨亦南程おひたゝ敷仙台領共に
右同様であつた4。」之に依つても早く津浪の襲来を知つた
者は助かつたが、油断し歴史を無視した者達は多く海底
の藻屑となつた。然し死者が比較的少なかつたのは、津
浪の襲来が昼であつた為であつた。今此の時の被害情況
を所管代官所からの報告書に依つて見るに次の様であ
る。
寛政五年津波被害表
(注、〔九戸地方史〕の表と同じにつき省略)
之で見ると両石村が最も甚しかつたらしいが、大槌代官
所の津浪被害報書中に5七日午刻大地震にて両石浦に大潮
押入、流家潰家共七十一軒男女九人馬二疋溺死、船十九
艘鹽釜一工行違(ママ)相知不申、と云ひ、上閉伊郡志にも流家
戸百余戸死者二十余人に及べりと記述してゐるから、両
石村だけが特に著しい被害を受けたらしい6。然し「大槌
官職記」には「仙台は別て所々大痛の由唱有之7」とあり
「古実伝書記」には「綾里浦家七八拾軒流失気仙沼浦三
百軒余流失、鮫浦拾軒程流失、人馬不知、其外いつ嶋之
内所々痛御座候由、確と知不申候8」とあるから三陸東海
岸全体に亘つて相当の被害のあつた事を知る事が出来
る。当局は所轄代官の申請に依つて両石罹災者八十三人
に対し「一軒に付代物一貫文、味噌一貫文租税半額免除、
蔵米若干」を補助賑恤し、「うのすまい御寺より壱軒へ白
米三升宛被下候由、大槌町ひたちや両家より壱軒へ六百
文宛被下候由、釜石浦、佐野與治右衛門より一軒へ白米
八升、代物六百文宛被下候。」等富豪等の徹底した救済も
あつた9。
此の地震で注意しなければならないのは第一に津浪の
起つた年及び前年即ち寛政元年、四年五年は近年稀な大
漁であつた事である。即ち10
寛政元年酉の漁事まさこ鰯油物前代の漁事網一把に而
千五六百玉より千七八百、弐千玉、油百七八拾挺より
弐百樽余宛取申候、網数拾壱把、前申年漁高壱玉に付
千玉より千弐参百玉、油百樽百五拾樽位の漁高、両年
引続網師心能方に御座候直段両弐表半、米卅五貫文、
相場六貫三四百文寛政四年子の三月十日頃より四月初迄山田、大禰、重
茂沖迄之まかせ大漁まかせ初りに而是迄覚無之漁、南
より宮古迄漁商此方松崎要左衛門南北之内(に欠カ)而一番赤魚
二拾八万本程之漁商、代に〆九百貫文千貫文程に御座
候。外細(網カ)共廿万位十八九万、十万、七八万位迄取高に
御座候、壱本に付三文より四文位迄直位、寛政五年丑の二月頃小赤魚当浦之入込ま(か欠カ)せ大漁、大赤
入交り漁事仕候、ま女(せか)一把に付八九百貫文より四五百
貫文位迄之漁高、油ものに候得共而(至カ)て水魚(漁)に而下直、
石入壱玉に而一貫文より七八百文位に当り候様相払、
小剪方至て宜方に御座候、網おろし申候ものは一切引
合不申、子細は二月より五月迄の漁事に御座候故網殊
の外くされ、十四(尋カ)一間八百五六拾文、広さ一反(間)五百文
無拠高直に成るもの相調、染不申、白綱(網カ)に而入遣申候
故至てくされはやく、一円引合不申候、白米一升七十
五文、相場五貫六百文大槌領程大漁であつた。
之に依つて津波襲来前必ず大漁のある事が歴史的に立証
せらるゝと共に科学的意義を暗示するものである。海底
地震の波動によるか、海底より発生する瓦斯体の影響か、
或は水温の変化に依るか、兎に角興味の深い現象である。
比時の被害が単に海岸通に津波を引起したに止まらず稗
貫郡和賀郡一帯に強震となり花巻に於ては潰家十五軒潰
土蔵十軒に上り、和賀郡黒沢尻では土蔵三軒大破し、同
郡鬼柳村では三軒の家を潰され沢内方面にも甚大な震災
を与へた事は特に注意しなければならない11。即ち明治二
十九年の三陸大津浪があつてから三ケ月ばかり遅れて、
和賀郡沢内方面に大地震起り、山は崩れ、田地裂け、泥
水噴出し、家屋倒壊数百戸あり甚大な影響を与へた事の
あつた事と、之とを考合するならば思ひ中に過るものが
ある。単に此の二つの現象のみを以て論断する事は許さ
れないであらうが、強いて推論を許されるならば金華山
沖の海底地震と三陸沿岸に襲来する津浪と、和賀郡地方
の地震とは相関聨したものゝ様に考へられてならない。
南部藩は安政天明以来相続く飢饉に財政破綻に瀕し、
天明の飢饉の如きは六万有余の領民を失ひ、牛馬二万余
頭を餓疫死せしめた。従つて労働能率減少し、土地生産
力恢復後に於ても、生産増加せずやむなく、新税重税を
増加して僅に弥縫してゐたが、之が為めに領民益々困窮
した。然るに此の年即ち寛政五年気候不順にて春より「余
寒強、苗育早(ママ)俄兼候上、植付之時節雨繁く降、夏中北風
吹暑気薄、度々大雨に而洪水仕、水押並稲水浸に相成候
場所多く、畑共に一休(体カ)草生不宜、出穂後申候所、七月中旬
より八月初旬迄残暑有之候間、熟作の様に相見得候得共、
重要之時節右不順之気候故、実成不宜、其上八月中旬に至
折々霜降、青立皆無之場所多く生じ12、」二十四万八千石中
十一万七千四百二十石余の損毛となり、内陸地方の農民
愈飢餓に瀕した。然るに当局なほ新税を起し増税を行つ
て領民の生活を圧迫したため遂に寛政七年末より八年初
めにかけての大百姓一揆を誘発することとなつた。
註 一 二前掲 梅荘見聞録
三 四前掲 古実伝書記
五 前掲 南部藩 日誌 寛政之部
六 前掲 上閉伊郡志 一六八頁
七 前掲 南部藩日誌 寛政之部 前掲 大槌官
職記
八 前掲 古実伝書記
九 前掲 南部藩日誌 岩手図書館所蔵本 山口
泰款著、泰款雑秘抄巻ノ八 前掲古実伝書記、
猶市原篤焉齋著 篤焉家訓第三十四巻(岩手図
書館所蔵本)に「寛政五年正月七日午刻から申
の刻迄城下地震強く、棚より物落候而破損不少、
後九日斗之間昼夜地震度々有之別て花巻通より
大槌辺迄強く破損併潰家等多し、」
一〇 前掲古実伝書記
一一 前掲難(雑)書抄 寛政の部
一二 拙稿旧南部藩に於ける寛政年度の百姓一揆
一三 社会経済史学第二巻第八号所載
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 51
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岩手
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