[未校訂]寛政五年正月七日午前十時、数回の大地震後、大津波
が襲来し三陸沿岸を修羅の巷と化した。『梅荘見聞録』に、
「寛政五丑年正月七日巳ノ刻大地震二三回之レアリ、大
津波珊瑚島ノ上ヲ越シ、町内下側裏通リ垣根迄来リ、上
側ニハ変ナシ、向川原ノ板敷床上へ迄指水揚、須賀通ハ
大変ノ由、両石村ニ於テ人家十六七軒流亡、溺死十二三
人モ之レアリ、潰屋モ数軒之レアリ、其跡ハ川原ノ如ク
ナリシト、地震ハ毎日毎夜二回モ三回モ之レアリ、指水
モ七日斗ノ間ハ押来リ、南北共海岸住居ノ者ハ近山ニ引
移り、日夜七日斗リノ間家ニ帰リ来ラザル由、地震ハ二
三月頃迄ハ大小ノ地震毎日折々之レアリ」と言っている
が、宮古地方の情況を書いた『古実伝書記』によれば、
被害は大したことがなかったらしい。
「寛政五癸丑正月七日昼八ツ時大地震三度仕り候て、
間た少し過ぎ候否、川津波三四度参り候て大さわぎ、
山に懸上り申候得共、藤原そけいへは浪よけいは上ケ
不申候、宮古へも上ケ不申、川筋斗おし申候て一円そ
んじ無之候、浦通ハ宮古ゟ浪おしよけいに御座候外、
一切痛み無之候、其後二月中迄全日全夜小地震仕、心
支罷有申候、宮古藤原抔に而は山々ニ小屋相懸申候、
右小屋場所ハ船ケ洞小かくまんへ相懸申候(中略)大
槌領の内両石浦家八十三軒流人三十四人男女子共ニ而
死申候、弁天堂有之前本堂無恙、拝殿斗流申候、右拝
でんニ有候神輿は流候所、田野浜沖ニ流、右同村ニ而
取上申候由、右両石浦の内に庵有之候所、是も流申候
(中略)釜石浦は津浪は参候得共、家々に水おし入申
迄にて、そんじ無之候由」
といい、宮古地方は大したことはなかったらしいが、仙
台領気仙海岸の方が被害が大きかったようである。この
ときの津浪にも、津波襲来前に異状な潮引があったこと
を『雑書』は、「海の水すさまじく引候て、そけいの柏木
の沖白禰と申所あらはれ出て申候、川口の大禰もすがに
あらわれ出て申候、鍬が崎浦すも浜沖の釜のふた迄あら
はれ、右之所迄潮引き申候、扨てまた南程おひただしく、
仙台領共に右同様」であったとしている。『宮城県史』(1)に、
「寛政五年の地震は、約一ケ月にわたつて繰り返された
長期の地震のやうに思はれる。このため家屋一千六十余
戸の多数が倒壊し、十二人と馬十三頭が圧死した。」と言
っており、仙台領海岸のほうが被害が強かった。今大槌
代官所管下の被害報告書によると(表8-27)、両石浦が
最大の被害であった。(2)同報告書に、「七日午刻大地震にて
両石浦に大潮押入り、流家・潰家共七十一軒、男女九人、
馬二疋溺死、鹽釜一工、船十九艘、行衛相知れ申さず」
と言い、『上閉伊郡志』(3)には、「流家戸百余戸、死者二十
余人に及ぶ」と言っていることからも推測できる。『大槌
表8-27 大槌通津波被害表
(寛政5年)
被害地
兩石浦
釜石浦
箱崎浦
片岸浦
大槌浦
船越浦
吉里吉里浦
平田浦
織笠浦
山田浦
下山田浦
飯田浦
大江浦
計
家
流失
71
1
72
破壊
9
2
11
流舟
19
7
5
2
2
2
2
2
2
2
2
47
流網
2
1
1
1
5
流鹽釜
1
1
死亡人
9
2
11
死馬
2
2
附記
河岸波
〃
〃
〃
〃
〃
[注] 『南部藩雑書』(寛政5年)
官職記』には「仙台は別て所々大痛の由唱有之」とあり、
『古実伝書記』には「綾里浦家七八十軒流失、気仙沼浦
三百軒余流失、鮫浦十軒程流失、人馬不知、其外いつ嶋
之内所々痛み御座候由、確と知れ申さず候」とあり、南
に下るにしたがって被害が多かったと見られる。
南部藩は両石浦の罹災者八十三人に対して「一軒に付
代物一貫文、味噌一貫文、租税半額免除、蔵米若干」を
補助賑恤した。富豪等も「うのすまい御寺より一軒へ白
米三升宛下され候由、大槌町常陸屋両家より一軒へ六百
文宛下され候由、釜石浦は佐野與治右衛門より一軒へ白
米八升、代物六百文宛」救助している。ここで注意すべ
きことは、この津波の折も、前年が大漁であったことで
ある。『古実伝書記』に、
寛政元年酉の漁事、まさこ・鰯・油物前代の漁事、
網一把ニ而千五六百玉より千七八百、二千玉、油百七
十挺より二百樽余宛取申候、網数十一把、前申年漁高
一把に付千玉より千二三百玉、油百五十樽位の漁高、
両年引続網師心能方ニ御座候、直段両二俵半、米卅五
貫文、相場六貫三四百文、
寛政四年子の三月十日頃より四月初迄山田、大禰、
重茂沖迄之まかせ大漁まかせ、初りニ而是迄覚無之漁、
南より宮古迄漁高、此方松崎要左衛門ゟ、南北之内に
て一番赤魚二十八万本程之漁高、代ニ〆九百貫文、千
貫文程に御座候、外ニ網共廿万位十八九万、十万、七
八万位迄取高に御座候、一本に付三文より四文位迄直
位、
寛政五年丑の二月ゟ小赤魚当浦へ入込まかせ大漁、
大赤入交り漁事仕候、まかせ一把に付八九百貫文より
四五百貫文位迄の漁高、油ものに候得共 至て水漁ニ
而下直、石入一玉にて一貫文より七八百文位に当り候
様相払候、小剪方至て宜方に御座候、網おろし候もの
は一切引合不申候、子細は二月より五月迄の漁事に御
座候故、網殊之外くされ、十尋一間八百五六十文、広
さ一間五百文、無拠高直に成るもの相調、染不申 白
網ニ而入遣申候故至てくされはやく、一円引合不申候、
白米一升七十五文、相場五貫六百文大槌領程大漁
といい、津浪の前年は稀な大漁であるという村々の俚諺
をここでも立証しているようである。
このときの地震は海岸地方に津浪をもたらしたばかり
でなく、稗貫・和賀郡一帯に強震をもたらし、花巻は潰
家十五軒、潰土蔵十軒、和賀郡下では黒沢尻で土蔵三軒
大破し、同郡鬼柳村では三軒の家を潰され、沢内方面に
も甚大な震災をもたらしている。
註 1 熊谷金男『災害史』。『宮城県史』(二二巻 三
七頁)
2 前掲『南部藩雑書』(寛政五年)
3 前掲『上閉伊郡志』(一六八頁)
4 前掲『南部藩雑書』。山口泰欵著『泰欵雑秘抄』
(巻之八)
5 前掲『古実伝書記』。『篤焉家訓』(第三四巻)
に
「寛政五年正月七日午刻から申の刻迄御城
下地震強く、棚より物落候て、破損少なか
らず、後九日斗の間、昼夜地震度々これ有
り、別て花巻通より大槌辺迄強く破損併潰
家等多く」
6 前掲『南部藩雑書』