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項目 内容
ID J0900634
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔吾桑村の歴史と伝説 伝承〕○高知県▽
本文
[未校訂] 記録に依りますとこの日は朝から少しの風も吹かず、一
天晴れ渡って秋と言うのに真夏の如く人々は帷子を着て暑
をさけるという有様でした。ところが未の刻(午后二時
頃)東南の方で一大音響がすると同時に大地震が起り人家
は将碁の駒を倒す如くバタバタと倒れ、やがて山汐がおこ
りその為死者続出し一瞬前の平和郷は忽ち修羅の巷とな
り、更にそれより一時間の後には大津波が起りました。一
度二度は余り強くなかったそうですが三度目には波の高さ
七、八丈ばかりの物凄い津波が家を流し人を奪い、幸山へ
逃げた者は死をまぬがれましたが親兄弟が流されるのを眼
の前に眺めながらどうする事も出来ぬ惨な有様でした、大
潮の来襲は翌朝まで十二回もあり死者二千余人と言はれて
います。吾桑は海から相当離れていますのでさしたる被害
はなかったようですが、松ケ瀬附近は一面の海であったと
申します。多ノ郷は最大の被害を受け加茂様の境内迄潮が
打ち寄せ、押岡は貴船神社の処迄津波があったと申しま
す。土崎は勿論海の底になり所在の家はことごとく流失し
ました、須崎浦は死者四百余人と言はれ「渋谷金王」とい
う相撲取が堀川の大橋のたもとで多くの人々を助けた事が
今に伝えられています。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 539
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 吾桑【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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