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項目 内容
ID J0900623
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔須崎市史〕○高知県
本文
[未校訂]宝永大地震(亥の大変)
 慶長地震後百二年、宝永四年(一七〇七)十月四日午過
ぎ、第五回の南海地震が起った。(第一白鳳、第二仁和、
第三正平、第四慶長)この地震は激しい震動が非常に広範
囲におよび、壊家が二万九千に達した。
沢田弘列の著『万変記』によると
 四日から五日にかけて、十一・二回大津波が襲い、土佐
湾の奥に当たる種崎では、波高二〇メートルに達し、潮、
北は一宮仁王門まで、南は雪蹊寺の院内まで上り、余震が
三年もつづき、この間高潮状態がたびたび起り、同年十一
月二十三日には富士が噴火した、土佐でも三、四日後には
降灰があって、当時の人心安からざるものがあったとの事
である。
土佐藩主山内豊隆公より幕府への訴へに
流家 一一一七〇軒
潰家 四八六六軒
破損家 一七四二軒
死人 一八四四人(男五六〇、女一二〇〇)
失人 九二六人、内男八百余
流死牛馬 五四二疋
損田 四五一七〇石
米流失 二四二四二石
濡米 一六七六七石
船 手船 一七二
売船 一三六
以上の損害を受けたので、藩主豊隆参勤せず使者として山
内主馬を江戸に派遣して実状を報告した。
「諸人広場に走り出づるに、五人七人手に手を取り組むと
いえども、俯向に倒れ三・四間の内に転じ、或は仰向にな
り、逃げ走ること容易ならず」と走るどころか、立つこと
もできない激しさであった。
宝永四丁亥年 土佐国大潮之記『山内文庫』
宝永四丁亥年十月四日須崎地震之記『南路志』
一宝永四年丁亥十月四日巳の上刻より大地震おこりけり。
今日天気快晴朝ハ暖気にて、諸人単物帷子を着せしか俄
になひゆり、其騒動詞にも又尽し難し、坤軸くだけぬる
とは只此時なり。いか成丈夫達者成ものも一足も歩行な
らす。山々の崩れける土烟四方に満ちて、忽闇夜の如く
にて稍暫方角を失ひ、男女老若貴賤僧侶とも正気を失ひ
啼さけぶ有様ハ、魂魄いずれの所にとどまらんや、大地
割れ底より潮水湧出る。人家倒れ或は崩れ只無難に有家
は壱軒もなし。山里の賤夫家業の為山へ行ける所に、此
難に逢ひ崩るゝ岩石に圧され、死する者数を不知。扨未
ノ上刻より大潮溢れ入、人家悉く流れ死人筏を組むが如
く、牛馬猫犬は皆死す。諸人山に迯上り危急の死をのが
るゝもあり、親兄弟足下に流れ死すれどもあへて助くる
に力およばず、人倫之道忽に滅す。道を守るも法を立つ
るも唯静謐の時に極り、誰が為に啼くともなく、山谷に
響き渡り鳴動する有様筆端にいとまあらず。昼夜潮入来
る事明る五日の暁迄十二度往来する、辰ノ刻より潮不
来、但須崎浦より三里沖、石ケ磐より沖は海上随分静な
り。是より内大いに動く、予山の嶺より海上を眺め居け
るに、戸島と長者の[渡間|とあい]へかけ、潮悉く干つき暫の間沼
となる。此所へ小船に弐人乗り流来りけるが、壱人舟よ
り下りて沼に入と見へしが、行衛は見へず残る壱人船に
有よと見へつるが否や、大潮入来右の小船行方見へず成
にけり。其後その人を聞けば壱人は新町の何某、壱人ハ
須崎浦恵美須屋佐五右衛門にて有つるよし、此時に当っ
て財産箕宝(ママ)悉く流失する。すざましきもあわれも悲しき
と只此時に極りぬ。一此地震五畿内、東ハ豆州箱根を限り、摂州紀伊等の海辺
が大潮入る。九州の内も東南をうける国ハ大潮入、四国
のうち阿州と当国と専ら潮高く騰る。
一当国のうち種崎より宿毛までの内、浦々大潮いり赤岡辺
より上分の灘手ハ少しつゝ入し所も有。
一須崎浦へ入来る潮、半山川筋ハ坂ノ川の在家少し残る、
樹木竹篁尽く流失し望洋如無涯、下郷の内天神宮の上
四・五丁斗り潮上る。多ノ郷ハ加茂の宮より奥、是藤の
前まて入る。吾井郷ハ為貞といふ所から鯛の川口迄来
る。右皆々川に付て潮溢れ入る。土崎ハ在家皆々流失
す、押岡ハ池ノ谷馬頭観音の下迄潮上り、鯛・すずきの
諸魚も上る。神田ハ土崎続きの在家少々流失。池の内村
在家障なし。
 追加、此時池ノ内に不限、財宝を拾ひ取、俄に富に
なり、暫して貧究(窮)となる事、ふしぎならずや。
浦ノ内は谷々多く詳に記し難きも、潮は大体山を限り海際
の家流る。東奥浦、潮は山迄、東西横浪の家は家具少し
残る、鳴無大明神の拝殿にも汐入、西奥浦、潮は山迄、
家は高所故事なし。
野見、大谷は潮は山迄、山腹茅屋三軒残る。
安和、潮は焼坂麓迄、山腹の家残る。
一須崎浦の死人四百余人、かように流失する所の謂れを尋
るに、池より出る堀川の橋地震に落ちける所へ、潮先キ
入来る。渡る便無之悉く堀川へ打入られ大半死す。尤
水練を能する者、或天運に叶ひける輩ハたまたま死を遁
る。
追加、此堀川の橋地震に落けれハ渡る事ハ成候へ共、(ママ、不成カ)
川下より船潮に奥へ込いり、橋悉く池へ流れ入る。後
世の君子此川を埋められ、先年の通二ツ石へ堀川明キ
申様に成候ヘハ時変に助と成申、但し此川を埋申時ハ
新田畑余程出来申様、左候ヘハ御貢物余斗の違ひにて
ハ無之様相見へ申候。
一此時流れたる在家の人々山野に居けれ共所縁由緒を求め
流れ去る人家を頼み急難飢寒をまぬがれ、目もあてられ
ぬ斗也。
一大潮に家財箕物衣服等を流し候家を流さざる在家の者と
も、是を悦ひ理不尽に拾ひ取、人の愁を不顧賊盗同類の
形勢公義へ聞へ、所の庄屋年寄に被仰付、急度穿鑿させ
銘々へ遣ハす。然れ共隠置出ささる族多きにつき、面々
在家に込入り断なしに家内を探す、古来より入魂知音た
りといへ共其訳を忘却し、卑劣尾籠の高声を出して人倫
五常の道を打破り、口論闘争に及ふ躰たらく冷敷(ママ)もあハ
れはかなき形勢ハ、只人道の境界とハ思ハれぬ、是非な
き浮世此時にとどまれり。
一岩永より門屋坂まての間往還の道筋海と成、或ハ道筋遺(潰)
れ往来ならさるに付、鳥越坂の峠より池の内村へ横道を
通り、下分村岡本へ越す、笹ケ峠といふ古道を往還とし
て、門屋坂山際道となる諸役人の送番所も池の内村当分
有之、送夫の者共是に詰る、無程午の秋今在家本番所
に帰る。
追加、大潮前ハ大間より原町古倉へ灘道有、多くの旅
人此時ハ此道を往来して、原町辺賑々敷候所、右大潮
に道つふれ其後ハ道を造る人無之候。右道の施主ハ
原町の何某とやら申者、多年思ひ付壱人の勢力をもっ
て拵へ諸人を自由させ申由、今も潮干の時ハ灘道通る
者有、今少し人夫をいれ昔ノ通いたし度もの也。
一池水の中に死人筏を組たる如く有之、尤衣服等何そ見
知へき覚有族ハ是を尋便りとせり、左もなきものハ縦令
父母兄弟なりとも、俤かはりはて却ておそろしき躰と成
けれハ、求むへき便なき者とも何をしるしに、是を尋ん
と街道に泣さけふ者多けれとも其詮もなし。池の中に浮
沈死骸鳶雁是を損ふあり。されハ何たる地獄に是をくら
べんや、目もあてられぬ次第也。依之公儀よりの仰に
随ひ池の傍に、長さ数十間斗の大穴を二行ほり、此穴に
取入れ土に埋。いかに時節とはいひなから、さてさてか
なしく口惜しく何たる世にか成ゆかんと心をいためぬ者
ハなし。
一流れたる者共即餓に及ふに付、公儀より御救役定られ所
所に被遣御救米を給ふ。男に三合女に弐合日数三十日
或四五十日の間、面々家業に取付まて被下、尤小道懸
の材木等ハ手寄の山にて遣ハされ候。
一須崎浦より下浦々御救役無足の新扈従田中善八此時の勤
功につき、同年十二月十六日新知弐百石被下、小仕置
に被仰付、後に田中関太夫と号す、又知行御加増五百
石となり御仕置役被仰付候也。
一郡奉行弐人 祖父江作蔵、堀部七太夫、
一浦奉行弐人 安喜儀兵衛、近藤与惣左衛門
須崎浦庄屋太次右衛門、後太惣兵衛と改む。元文元年夏
変名字御免川淵と云、同村年寄海部屋勘之丞、同浜分年
寄助九郎与八郎。
一此大変に付諸人の心落着かす、明日を知らぬ命といひて
路頭に迷う折柄なれハ、非道の溢れ者盗賊の族有へしと
御詮義の上其役人、是も無足の新扈従朝比奈忠蔵此時の
示方宜を以、同年新知弐百石被下、小仕置役被仰付、
無程御知行加増五百石賜り御仕置、其後又御加増千石
に成、御籏格後籏奉行となる。
一此時盗賊□妨溢れ諸人を悩さん事を上に御愁被為成、
右之忠蔵を守護役に被仰付、其在所年寄の郷士に課て
昼夜廻番して賊の溢を慎む。
(後略)
佐川村某の「宝永地震記」によると、
 四日朝佐川の魚商人が須崎浦へ行って、漁船の帰帆を待
っていたところ、地震と大津波に逢ふた。佐川へ帰へる途
中等激しい大波で大小無数の魚が汐に酔ふて、路に打上げ
られたのをたくさん拾ふた。渚はこんなさまであったが、
海上は静かで遙か沖にかかった他国の廻船は見物していた
といふ。その船に助け上げられた多くの人々が陸へ帰って
の物語を聞くと、
 地震と海底の鳴動と共に、海岸から潮が一、二丈の高さ
に湧き出で、浜の砂地にある家は、柱が落ち込み軒端が地
についていた。沖の船から陸へ波の上るのを見ると、高
さ一町程も逆上っているように見え、雲へ届く様に思はれ
たといふ。大浪の静まった跡までも、小山程の潮の湧く所
が多かった。他国の船も湊に入ると悉く破損し、商物は残
らず流失するし、海辺に住居の人々も貴賤、貧富、奴婢、
僕従、僧、百姓に至るまで、皆一様に辛い目に逢った。
 この地震による地盤の変化や須崎の変貌について次の記
録がある。「須崎地震之記」
一此大千世界を浮島ケ原と云伝へし事明らか也。大地震の
後、安芸郡津呂室津の湊地形上る也。先年ハ大船荷を積
ても入津自由なる所に大変の後は、荷を積たる大船入事
ならず、此湊石の切抜にて底まて石なる故、泥土に埋る
といふ事なし、然れハ地形上りし証拠分明なり、(沢村
博士によると、室戸岬二〇〇~二五〇㎝隆起、須崎湾、
横浪の江、高知付近一〇〇㎝沈降)
 高知や須崎のように、地震時の地盤沈下地帯は地震前に
隆起するという特性あり。三災録に「大震の二・三日前に
田畝の、みみず悉く道路に上り死し、又死せざるもの数多
ありて人々不審しける」とあり。これは地中に早く潮がし
み込んで潮気の嫌いな、みみずが地上へ出て来たものか。
 また、「潮引き取り船動かず、暗中なれどすかし見れば
四方干潟となり、葛島佐右衛門堤へも徒歩にて行くべき有
様に、夢かと計り驚きて帰へらんとすれど詮なく鶏鳴の頃
少しく潮の来るに任せ、漸く下知仮橋の辺に来り、又船
すはり一人綱にて之を引き、漸く夜明に市中にかへりしと
ぞ。
一今在家町も大変已前ハ二ツ石より沖の方、十五・六間町
並なれ共、大潮に地崩し、海弐百間余地方へ寄(地盤沈
下)町に不相成故、只今(大変後三十年)の所へ町割
被仰付、面々住居する。
大変より前ハ大橋(眼鏡橋)通りの横町南輪に町並あり
人家ハなし。橋の詰東の方、今の谷屋の辺に嘉助といふ
者壱人居る、此谷屋といふ酒屋、後ハ相続して今ハ池吉
屋といふ。
一大変より前ハ大橋の北南方とも人家無之、東の方並松
今の畠の所皆芝原也。中頃高知の北山の百姓十蔵と云も
の、池を作式に申請、是を手作にせんが為、糺の宮の前
東の原芝原に家を建て居る、大変已後は是も故郷へ帰
る。
一今在家町の筋、二ツ石より宮原へつゝき大木の松林に
て、日当らす物くらき所ニて、小児共ハおそれ、壱人往
来せす。右の松原の跡、今の町並ニて依之今の町の後の
畑になりたる所、皆々芝原ニて蓑虫の名所なり。大変の
後作目となる。
一宝永五己丑年(一七〇八)十月町割有、御免方右町割役
人諏訪半兵衛
追加、二ッ石大変前ハ人家の裏に、少の岩小路脇に有、
大変に地形不(ほ)れ崩れ、大岩二ツ出る。則ち今の二ツ石
也。
一西今在家町(西町)先年の町より十間斗、山の手へ寄西
のはつれ、五郎右衛門屋敷ハ(今の伝助親なり)与三兵衛(今の与三兵衛の親)
前に井戸ありけるが、只今の川向ひ中洲の辺なり。紺屋
安左衛門(今のかとの弥五郎親)、与惣兵衛(今の与惣兵衛親なり。)
前に井戸有。唯今の川の向の辺に其井戸、前方ハ見えた
り。
右之条々差当り無用之義に候へ共、自然先規之事入用之
時之為、我等慥に覚之儘記置也。
一石地蔵、二ツ石 宝永四年大変に流失之者三十三回忌為
追福、元文四年建之。
須崎八幡宮 木札、(この木札は須崎八幡宮に現存する)
宝永四丁亥十月四日時変大潮入
須崎本村浦分共亡所有増記
一損田五百九拾弐石 須崎本村内百九拾石余 本田四百弐石 新田
一流家四百三拾弐軒 内弐百十六軒 本村弐百十六軒 浦分
一流失三百三拾一人 内男女百九十六人 浦人男女百弐拾九人 本村
男 六人他国者
一寺三ケ所 大善寺、西願寺、孝山寺
一堂社十ケ所
八幡宮二社、若宮一社、夷堂一宇、阿弥陀堂一宇、観
音堂一宇、地蔵堂二宇、虚空蔵堂一宇、大師堂一宇
以上。
一御制札場並御分一屋、御米蔵、廻船、漁船、網猟具、地
下人財物不残。
一潮高サ四方山根ヨリ二間計、近郷ハ上分遅越関限り、吾
井郷ハ鯛ノ川関限り、押岡ハ在所中、神田ハ八王子奥限
入。
一地下人当時及即餓、国守より飯領被為成下、日数十日
御救請面々小屋懸、古城山下、一両年令住居、段々町
割仕振より南住宅其後辰九月御地詰地面相極安座仕也。
一八幡宮再興林立枯百本余申請売立並氏子加奉銭成就則棟
札明白也。
一御輿従豆州、子九月十一日御下向奉納畢、此送状志州鳥
羽船宿、斉藤林之介方より指下故永々伝氏子為祈万歳、
此裏板写置本紙各別封置所也。
右此寄進施主洲崎本村住人本村浦共支配庄屋
川淵太次右衛門、奉掛宝前者也。
享保二丁酉八月吉辰日 敬白 好維
表面には
一御八幡宮様として御輿還御の次第につき書いてある。側
面には 筆者 二標八良兵衛 書之 とあり。
宝永津浪溺死の塚
 発生寺の住職・智隆は、安政三年十月、宝永亥の大変の
百五十年忌に際し、古屋竹原や素封家(亀屋久蔵・鍛冶活
助・橋本屋吉左衛門)の協力により、宝永津浪の犠牲者四
百余人の死骸を改葬し、宝永・安政二度の災害の概況なら
びに、これらの被災を少なくするための心得を後世に残そ
うと、大善寺下にこの塚を建立した。
宝永津浪溺死之塚
 此塚ハ宝永四年丁亥十月四日大地震シテ津浪起リ須崎ノ
地ニテ四百余人溺死シ池ノ面ニ流レ寄リ筏ヲ組ミタルガ如
クナルヲ池ノ南面ニ長キ坑ヲ二行ニ掘リ死骸ヲ集メ埋メ在
リシヲ今度百五十年忌ノ弔ニ此処ニ改葬スルモノ也其事ヲ
営マントスル折シモ安政元年甲寅十一月五日又大ユリシテ
海溢シケルガ昔ノ事ヲ伝聞且記録モアレバ人々思ヒ当リテ
我先ニト山林ニ逃登リケレバ昔ノ如ク人ノ損ジハ無リシ也
唯其中ニ船ニ乗リ沖ニ出ントシテ逆巻浪ニ覆サレテ三十余
人死タリ痛マシキ事也何ナレバ衆ニ洩シテ斯ハセシニト云
ニ昔語ノ中ニ山ニ登リテ落クル石ニウタレ死シ沖ニ出タル
者恙ナク帰リシト云事ノ有ヲ聞誤認シゝモノ也早ク出デ沖
ニアルハ知ラズ其時ニ当リテ船ヲ出ス事ハ難カルベシ誡ム
ベキ事ニコソ将昔ノ人ハ地震スレバ迚テ津浪ノ入ル事ヲ弁
ヘズ浪ノ高ク入リ来ルヲ見ルヨリシテ逃ゲ出デタレバオク
レテ加クノ如キ難ニ逢リゲニモ又悲マザランヤ地震スレバ
津浪ハ起ルモノト思ヒテ油断スマジキ事ナリサレドユリ出
スヤ否浪ノ入ルニモ非ズ少ノ間ハアルモノナレバユリ様ヲ
見斗ヒ食物衣類等ノ用意シテ扨石ノ落ザル高所ヲ撰ビテ遁
ルベシサリ迚高山ノ頂ニ迄登ルニモ及バズ今度ノ浪モ古市
神母ノ辺ハ屋敷ノ内ヘモ入ラズ昔モ伊勢ガ松ニテ数人助リ
シトイヘバ津浪トテサノミ高キモノニ非ズ是等百五十年以
来二度迄ノ例ナレバ考ニモ成ルベキナリ今茲ニ此営ヲ成ス
ノ印且後世若斯ル折ニ逢ハン人ノ心得ニモナレカシト衆議
シテ石ヲ立其ノ事ヲシルサンコトヲ余ニ請フ因テ其荒増ヲ
挙テ為ニ書付ル者也。
安政三年丙辰十月四日 古屋尉助 識
本願主 発生寺現住 智隆房松園
世話人 亀屋久蔵 鍛冶活助 橋本屋吉左衛門
円教寺本尊阿弥陀如来像
 宝永の大地震大津浪には、大善寺をはじめ須崎の神社、
寺院の流失するものが多く惨状をきわめた。円教寺もこの
例にもれず御本尊を流失した。壇家達大狼狽で連日探し求
めたが発見出来ずこうじ果てていた。
 その後、池山の人が仏像の頭、手、足などアチコチから
拾ってきた。[繫|つな]ぎ合わせてみると立派な仏像になった。
「もったいない」というので大善寺に安置した。寺にある
こと六年。ある日、一人の六部が訪ねてきてその仏像を貰
い受けたいという。寺ではこれを心よく渡した。喜んだ六
部は鳥越まできた。ちょっと休んでのち立ち上がり坂を越
えようとすると、急に凄い重量になって、どうにも進むこ
とができない。須崎の方へ行こうとすると、さっさと歩行
ができる。「この阿弥陀様は須崎を出るのがいやであるよ
うだ」と気付いた六部は、再びとってかえして大善寺へ返
却した。この事を聞いた円教寺の壇家の人達はさっそく大
善寺に出向いて交渉し、これを受け取って帰りもとのとこ
ろに安置し一同愁眉を開いた。
 明治の始め、例の廃仏棄釈により市内の寺院はこの難に
あったが円教寺は残った。受けとりに来た役人に向って寺
内より御光が[射|さ]し目を射られてどうにもならなかったの
で、そのまま帰ったといい伝えられている。南海大地震に
は、住職長谷川竜観師が布で包み避難したところ、つい山
中で御本尊の御足を失ない困った。ところが、「中居こま
す」という女性が拾ってこれを届けてきたので無事もとの
通りになった。山中で失ったものは容易に見つからないも
のであるが、これが見つかったことは不思議なことだとい
われている。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 524
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
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