[未校訂]一細工町
比町ハ帯屋町より入りて数間にして横町に出つ横町ハ南ハ
種崎町に界し北ハ蓮池町に接せり縦町ハ北種崎町と蓮池町
との中間にて横町より入る一町五間の町なり東ハ播磨屋橋
筋を跨きて新市町につゝけり昔ハ諸職人の多く住居する所
なりしより町の名となれり(中略)大超寺ハ元禄十一年の
火災に罹り一旦新町に移り宝永四年重て小高坂村ニ移転せ
しかいつ廃寺となりしや詳ならす(後略)
一紺屋町
真光寺ハ一向宗京都仏光寺の末寺にて慶長十五年乗春とい
ふ僧開山して浦戸にありしか後年此地に移りたりしを元禄
の火災に罹り新町に移りしが宝永四年の地震に破壊し此時
小高坂村に移り天明二年寅八月西本願寺の末となると云。
西念寺ハ知福山願生院と称し京都智音院の末寺にて往昔ハ
種崎にありしか慶長中此所ニ移したりしも是も真光寺と同
しく回禄の災に罹り翌十二年の春新町ニ移り宝永四年再び
小高坂村に移し維新後廃寺となれり(後略)
一新市町
此町ハ紺屋町材木町の北に並行し西ハ細工町に界し東ハ横
堀を渡りて南新町に入る東西三町二十三間の町なり(中
略)寛文九年図ニ東一町南側西角に真慶寺又二町東の南側
に浄福寺といふ寺あり浄福寺ハ浄土宗ニて源信山王院と号
し旧豊岡ニあり後浦戸に移し又此町ニ移し元禄の火災後新
町ニ移し宝永の地震後更ニ又小高坂村に移す真慶寺ハ浄福
寺の末にて同しく新町に移し又小高坂村に移しとか後二寺
とも廃寺となれり(後略)
一蓮池町
此町ハ新市町の北に並ひ西ハ追手筋に接し東ハ堀川を以て
中新町と堺を分つ四町四十六間の町なり(中略)又二町目
の北側西角ニハ安養院といふ寺ありし安養院ハ真言宗常通
寺の末寺にて旧ハ吾川郡長浜村ニありて良福寺と称へしを
後に安養院と改め慶長中此町に移し元禄の火災後一旦新町
に移し宝永地震の後廿代町に移せり(中略)山泉寺ハ院号
を念仏院と号し浄土宗称名寺末ニていつの頃にか蓮池村よ
り此町に移し元禄の火災に新町に移転し宝永の地震の後に
小高坂村ニ移せり三寺とも今皆廃寺となれり、又大善寺と
いふハ摂州天満の定専坊末寺の蓮池村にありしか是も檀家と共に此町に移りしか元禄の火災後一旦新町ニ移し宝永の
地震後再ひ此町に移しとか享保十二年同十六年両回禄の災
に罹り終に江ノ口村ニ移し今に存せり(後略)
一北新町
中新町の北にあり此町ハ西ハ井手淵より入り東ハ下知村に
界し東西四町一間二尺なり(中略)二町目南側に京仏光寺
の末寺に真澄寺といふ一向宗の寺ありしか明治維新の後廃
寺となるか今ハなし此寺昔ハ同町の北側ニありしか元禄の
火災ニより新町の新寺町ニ移し宝永地震ニより再此ニ移せ
り文化文政年間の住侶に大信といへるかあり儒学にこと通
し門人多かりしと云
(中略)
其新に寺町と成る地ハ東西百十四間南北百七十一間寺数十
八ケ寺なり其内五ケ寺ハ公物立十三ケ年ハ免許と云へり今
寺院牒によりて調査するに十九ケ寺あり其寺名ハ「西念寺
浄福寺真慶寺真宗寺遍照寺長泉寺真光寺真証寺真立寺金剛
院善法寺大超寺山泉寺専修寺大善寺安養院十楽寺蓮乗院五
法院なり」、其後宝永四年の地震に此寺院倒壊し加ふるに
下知の外堤決潰し潮汐浸漬して再興なりかたきにより其寺
々ハ多く小高坂村の伊達兵部謫居の跡地及潮江村其余各村
町に移転せしめたり小高坂村なるハ今の第二中学校の所に
て近く維新後迄寺町と称へて寺院立つゝきたるハ比所の寺
を移したるもの也(後略)
付録
(前略)円満寺ハ本願寺末寺ニて桜馬場にありしが又廃寺
となれり寺町ハ今の第二中学校の所在地なり最初伊達兵部
か配所なりしか其没せし後明地となれりしか元禄十一戊寅
年市街に大火ありし時回禄にかゝりし寺院を市の新町に集
め寺町と称せしか間もなく宝永四丁亥年に大地震ありて其
寺々破壊し且潮汐浸入しけれハ更ニ其寺々を潮江と□所等
に移転せしめ因て寺町と称せり、といふ其時此所に移りし
寺ハ真光寺西念寺二寺共年暦等紺屋町の条に出浄福寺真慶寺二寺新市町条出専修寺
浦戸町条出山泉寺蓮池町条出欣浄院とす欣浄院ハ旧ハ旭村の石立ニあ
りて元和二丙辰年の開基と云」。(中略)
一下知村(本書〔高知県史要〕(下知村)五一一頁と同文
につき略す)